第20話 「家族の中心」としての覚悟①
―――現実世界―――
退院の日、由奈は晃と並んで車に乗っていた。
窓の外には見慣れた街並みが流れていく。
病院から自宅までいつもの道。
けれど、今日は少しだけ違って見えた。
「‥‥‥大丈夫か?」
信号待ちの間に、晃がちらりと由奈を見る。
「うん。大丈夫」
由奈は頷いた。
体はまだ本調子ではない。
けれど、家に帰れるのだと思うと、それだけで胸の奥が少しほどける気がした。
晃はそれ以上は何も言わず、ハンドルを握り直した。
その手に、強ばりが見えた。
玄関のドアを開けると、リビングの明かりが目に入った。
由奈は靴を脱ぎ、家の中へ足を踏み入れる。
そして、息を呑んだ。
家の中が、整っていた。
いつもなら少し散らかっているリビングのテーブルは綺麗に拭かれ、ソファのクッションもきちんと並べられている。
床には掃除機の跡が残り、空気も淀んでいない。
ただ、几帳面に整えようとした気配はあるのに、クッションの向きがひとつだけ微妙にずれていて、それがかえって誰かの頑張りを物語っていた。
キッチンのカウンターには、ホワイトボードが置かれている。
『明日香:お風呂掃除』
『要:ゴミ出し』
『パパ:洗濯』
それぞれの名前と担当が、晃の字で書かれていた。
由奈は、洗濯物が畳まれているのを見た。
少し不格好に畳まれたタオル。
端がずれているシャツ。
でも、ちゃんと畳まれている。
明日香が教わった通りに、丁寧に折った跡があった。
喉の奥が、つまる。
自分がいない間、この家は崩れてしまうんじゃないかと、どこかで思っていた。
晃も子どもたちも、きっと大変だったろうと心配していた。
でも、違った。
みんな、みんなで必死に回そうとしていたのだ。
目の奥がじんと熱くなって、由奈は慌てて瞬きをした。
「‥‥‥どうした?」
荷物を置いた晃が、由奈を見る。
「ううん。何でもない」
由奈は少し笑った。
「ちょっと‥‥‥嬉しくて」
晃は気まずそうに視線を逸らし、小さく息をついた。
由奈はソファに腰を下ろした。
足の力が抜けて、深く座面に沈み込む。
立っているだけでも、まだ少し体が重い。
「‥‥‥何か、食べれるか?」
晃が立ったまま、少し迷うように由奈を見た。
「うん。少しなら」
由奈が答えると、晃は頷いた。
「‥‥‥わかった。少し、待ってろ」
そう言って、晃はキッチンへ向かった。
由奈は背もたれに体を預け、改めてリビングを見回した。
ホワイトボードのメモ。
畳まれた洗濯物。
窓際に置かれた、子どもたちの描いた絵。
全部が、この家がちゃんと動いていた証だった。
そして同時に、自分がいなくなって初めて見えたものでもあった。
しばらくして、晃がキッチンから湯気の立つお盆を運んできた。
白い陶器の器に、卵がゆが盛られている。
晃はお盆をテーブルに置き、由奈の前に器を置いた。
「‥‥‥同僚に教わった。初めて作ったから、味は保証できないけど」
少しばつが悪そうに言う。
由奈は器を見た。
卵がゆは少し固めで、卵の黄身が半分ほど溶けている。
完璧ではない。
でも、湯気はやさしく立ちのぼり、ほっとする匂いがした。
「‥‥‥ありがとう」
由奈はスプーンを手に取り、一口食べた。
味は少し濃かった。
けれど、あたたかかった。
「美味しい」
由奈が微笑むと、晃は無言のまま椅子を引いて座った。
そしてぽつりと言った。
「‥‥‥どうして、あそこまで具合が悪くなるまで何も言わなかった」
由奈は手を止め、目を伏せた。
責められているのかと思って、一瞬、言葉が出なかった。
「それは‥‥‥」
由奈が言いよどむと、晃はすぐに眉を寄せた。
「‥‥‥いや、違うな。言い方が悪かった」
晃は視線を落とし、膝の上で手を握る。
「責めたいんじゃない。そんなになるまで、言える感じではなかったし、俺も気づけなかったってことを言いたいんだ」
それから、低い声で続けた。
「‥‥‥すまなかった」
由奈は顔を上げる。
「これまで、お前に全部任せきりだった」
晃は視線を落としたまま、続けた。
「家のことも、子どものことも、ずっとお前がやってくれてた。俺は仕事だけして、帰ってきたらご飯があって、洗濯ができてて、それが当たり前みたいになってた」
由奈は、静かに顔をあげた。
「でも、全然当たり前じゃなかった」
晃の手が、膝の上で強く握られる。
「お前が倒れてから、初めてわかった。料理も、洗濯も、掃除も、子どものことも‥‥‥。自分が思ってたより全然、回らなかった」
低い声が、少しかすれる。
「お前がいないと駄目だって、そういう意味じゃない。そうじゃなくて‥‥‥俺が、今まで何も見てなかったってことだ」
由奈は、晃を見つめた。
「それを、お前は毎日やってたんだなって思った。文句も言わずに」
晃は一度言葉を切り、それからようやく顔を上げた。
その目は、まっすぐ由奈を見ていた。
「本当に、すまなかった」
由奈の胸が、きゅっと縮む。
晃は不器用で言葉も多くない。
でも、今ここにある言葉は、ごまかしではなかった。
「‥‥‥ありがとう」
由奈は涙を拭った。
「言ってくれて、嬉しい」
晃は黙って由奈の言葉を受け止めた。
「私も‥‥ちゃんと伝えきれなかったこと、あったかもしれない」
「いや」
晃は首を横に振る。
「俺が、聞こうとしてなかっただけだ」
少し間を置いてから、晃は続けた。
「これからは、ちゃんと話を聞く。家のことも、一緒にやる。お前一人に任せない」
由奈は晃の顔を見た。
その目は、真剣だった。
「‥‥‥うん」
由奈は小さく頷く。
「一緒に、やっていこう」
晃も、静かに頷いた。
由奈は、卵がゆを最後まで食べた。
あたたかいおかゆが、ゆっくりと胃に落ちていく。
晃が作ってくれた、初めての料理。
完璧じゃない。
けれど、その不格好さごと、やさしかった。
器を置いて、由奈は深く息を吐く。
自分は、ただ家事をこなしていただけじゃなかった。
気づかないうちに、この家の真ん中を支えていたのかもしれない。
晃も、子どもたちも、それぞれに頑張っていた。
それでも、自分がいたから保たれていたものが、確かにあったのだ。
由奈は自分の手を見た。
この手で、家族を支えてきた。
そして、これからもきっと支えていく。
「‥‥私、ここをちゃんと守りたい」
小さく呟く。
晃は由奈を見た。
「ああ。一緒に守ろう」
短い言葉だった。
でも、それは確かな返事だった。
由奈は、静かに頷いた。
晃は器を片付け、キッチンへ戻っていった。
由奈はソファに背を預け、窓の外を見る。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。
胸にそっと手を当てる。
ここが、私の居場所――そして大切な場所。
(まだ終わっていない。そんな気がする)
あの別世界のことも、胸の奥で静かに疼いていた。
浮かぶのは、もう一人の不器用な人。
由奈は小さく笑った。
(――どちらも諦めない)
その覚悟が、静かに胸の中で形になっていった。
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