第18話 駒ではなく、私たちの意志で①
―――北国使節団 ―――
リディアは窓辺に立ち、アルカディアの街を見下ろしていた。
石造りの家々が並んだ異国の風景は美しく、人々が行き交っていた。
ノックの音がして、侍女が入ってきた。
「失礼いたします。リディア様、お手紙が届いております」
侍女が差し出した封書には、見覚えのある封蝋が押されていた。
北国の王家の紋章――父王からだ。
「ありがとう」
リディアは封書を受け取り、侍女に下がるよう命じた。
一人になると、封蝋をゆっくりと剥がす。
指先がほんの少し震えた。
中には、父王の筆跡で丁寧に書かれた手紙が入っていた。
『リディアへ
アルカディアでの滞在、ご苦労である。
神殿主催の「公開の祈り」が近いと聞いた。
好機だ。
神殿が手にした神威を、確かに見届けよ。
そして忘れるな。
お前は北国の王女である。
情に流れることなく、国のために動くことが、お前の務めだ。
アルカディアの王は、交渉材料に過ぎぬ。
神は、北国が持つべきものだ。
婚姻についても同じである。
お前が王家に入るのは、愛でも名誉でもない。
国の意志を、王家の中へ通すためだ。
立場は我が国が上であることを、誰の目にも明らかにせよ。
もし相手が渋るなら、手段は選ぶな。
多少の軋轢は構わぬ。
国は、お前の成果を見ている。
期待している。
父より』
リディアは手紙を読み終え、静かに机に置いた。
美しい言葉で書かれているが、冷酷だった。
(立場は北国が上、か)
婚姻が幸せな結びつきではなく、鎖であることを、父は隠しもしない。
そして、その鎖を通すためなら強引な手段も使えと言っている。
胸の奥がひやりと冷えた。
リディアは椅子に座り、手紙を見つめた。
「情に流れるな」と父は言った。
(でも‥‥‥)
リディアは、レオンの不器用な誠実さを知っている。
あの日、レオンは嘘をつかず、取り繕いもしなかった。
ただ、真っ直ぐに言葉を返してくれた。
その真っ直ぐさが、今も心に残っている。
リディアは深く息を吐いた。
父の命令は、絶対だ。
けれど、今は、まだ迷っている。
その時、ドアが開きエルザが入ってきた。
いつも通り冷静な顔で、静かに立っている。
「リディア様。どうかなさいましたか?」
リディアは目を伏せ、手紙を指先で押さえたまま、ぽつりと言う。
「‥‥‥父上からの手紙で、婚姻の話を急げと書いてあったわ。それも北国が格上であると‥‥‥強引にでも示せ、とも」
言葉にした途端、喉が痛んだ。
自分で言って、自分で嫌になる。
エルザは一拍だけ沈黙し、そして感情のない声で言った。
「それが、リディア様のお役目ですから」
ぴしゃり。
一瞬で距離を置かれたような一言だった。
リディアは、エルザを見た。
そこには同情も迷いもない。
ただ当然があるだけ。
「‥‥‥所詮、私は北国の駒、ということよね」
ぼやきにもならない声が漏れる。
エルザは淡々と返した。
「王女というお立場は、そういうものです。個人の感情は、後で折り合いは付けられます。今は国が先です」
リディアの胸の奥が、さらに冷たくなる。
自分の気持ちなど理解されず、味方になる人など、いないのかもしれない。
そんな落胆が、静かに広がっていった。
窓の外では、異国の街が今日も変わらず動いている。
その賑わいが、ひどく遠く感じられた。
***
―――王宮 騎士団詰所―――
王宮の騎士団詰所は、いつもより騒がしかった。
剣を磨く音と噂話の熱が、同じ空間に渦を巻いている。
カリナは部屋の隅で剣を磨きながら、周囲の会話を聞いていた。
「今度の公開の祈りには、北国の使節団も来るんだろ?」
「ああ。神殿が招いたらしい。神殿としても自慢したいんだろう」
別の騎士が鼻で笑う。
「‥‥‥にしても、あの儀式以来、城の空気が変わったよな」
「あの陛下に創造神が宿ってたんだぞ? そりゃ変わる」
「貴族も、目の色を変えてるよな。陛下を見る目が『畏れ』じゃなくて『欲』になってるもんな」
そこで、一人が言い出す。
「なあ。后候補って、結局どうなるんだ?」
問いの形は軽い。
だが、続く声が遠慮を消した。
「なにせ『神に選ばれた王』だ。なら『神にふさわしい后』って話になる。神殿も北国も、そこに食い込みたがるに決まってるだろ」
「つまり、婚姻も政治の戦場ってことか」
「そうそう。陛下が誰を選ぶかじゃない。誰が王家に入り込むか、だ」
カリナは、剣を磨く手を止めた。
金属の光が、やけに冷たく見えた。
(また、女に戻される)
騎士たちの会話は無遠慮に続く。
「北国の姫も、神殿の聖女も、どっちも美人だしな」
「カリナ様だって候補だろ?」
「でもほら、カリナ様は騎士団所属だから‥‥‥」
「だからこそじゃね? 『王の剣』みたいで格好つくじゃないか」
周囲の笑い声をかき消すかのように、カリナは剣を鞘に収めた。
その時、詰所の端に控えていた下役が、気まずそうに近づいてきた。
手には封書が束になっている。
「あの‥‥‥カリナ様。お届け物が」
「何だ」
「貴族からの‥‥‥お手紙が、いくつか。今朝から続いております」
束を見た瞬間、カリナは顔をしかめた。
封蝋に家紋、家紋、家紋。
しかも、自分の家を支持する側の家門ばかりだ。
(ああ‥‥‥支えた分の見返りか)
もし支持した家門から后が出れば、王の外戚に連なり、地位と名声が転がり込む。
そこには忠誠ではなく、計算がある。
カリナは一通だけ抜き、ざっと目を走らせた。
『公開の祈りの席にて、ぜひご挨拶を』
『今こそ、貴女様が王家にお入りになる好機』
『我らが支えた家門の誉れ』
言葉は丁寧であるが、中身は催促と下心でぎらついていた。
カリナは手紙を握り締めた。
クシャッと紙が微かに鳴った。
「‥‥‥ふざけている」
吐き捨てるように呟いて立ち上がる。
「あと、応接間に貴族の方々が‥‥‥」
下役が恐る恐る告げると、カリナは靴音を荒く立てて詰所を出た。
向かう先は応接室――打算の笑顔が待っている場所だ。
***
応接室には数人の貴族が待っていた。
全員笑顔でカリナを出迎えるが、目だけが品定めをしている。
「カリナ様、お忙しいところありがとうございます」
「‥‥‥用件を伺います」
カリナは座らず、立ったまま聞いた。
貴族の一人が丁寧に続ける。
「前回の神殿の儀式のことです。王は始まりの神に選ばれたと、民も貴族も認め始めている。今こそ王家と貴族の結びつきを、より強めるべきだと我々は考えております」
(結びつき。都合のいい言葉だ)
貴族が好む、美しい響きの取引の言葉だ。
「‥‥‥つまり?」
「カリナ様には、后候補として、もう少し前に出ていただきたいのです」
貴族は微笑んだ。
その笑みは甘ったるく、後味が悪い。
「もしカリナ様が后となれば、あなたの家門は大きく上がります。そして、我々支えてきた家門も報われる」
「我々もこれまで支えてきたのですから、それは当然のことです」
最後の一言に、下心が漏れた。
カリナの拳がきゅっと握られる。
「私は、騎士です」
「承知しております。ですが、『女性としての役目』もまた立派な務め」
カリナの声が低くなる。
「私を、貴方達の駒として使うつもりですか?」
「駒などと‥‥‥」
「なら、これ以上不毛な話は結構です。失礼します」
カリナは踵を返した。
貴族の一人が慌てて声をかける。
「カリナ様、どうか考え直してください」
「考え直すことなどありません」
カリナは振り返らずに部屋を出た。
「私は、誰かの駒じゃない。この手で選ぶ」
扉の外で、右手の肉刺を見下ろす。
握り締めた指先が熱い。
不意に、訓練場でレオンと手合わせをした時を思い出した。
不器用で言葉は足りないのに、剣だけは嘘をつかない人だった。
その剣を信じたからこそ、『后』などという貴族が望む飾りにはなりたくなかった。
「私は‥‥‥剣で、選ぶ」
吐き捨てるように、もう一度だけ呟き空を睨んだ。
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