第17話 支えの声と、届いた祈り
――現代・病院―――
由奈は目を覚ました。
視界がぼんやりとして見えて、病室の天井だと分かった。
(……そうか、まだ病院)
窓の外から、朝の光が差し込んでいる。
けれど、昨日とは何かが違う。
由奈は深く息を吸った。
空気が肺の奥まで入ってきて、昨日よりもずっと楽に息ができる。
胸の重さが少し軽くなっている気がして、重かった手を動かしてみると指が言うことを聞く。
足も少しだけ動かせて、身体が自分のものに戻ってきている。
(よかった。だいぶ動けるようになってる。でも……)
由奈は胸に手を当てた。
胸の奥にはまだ空白があった。
何かが欠けていて、何かが足りない。
「小林さん、おはようございます」
その時、間仕切りのカーテンが開き看護師が入ってきた。
慣れた手つきで、由奈のバイタルを確認し始める。
血圧計を巻き、体温を測り、脈を取る。
「顔色もだいぶいい感じですね。回復してきてます。一日でここまでなんて……」
看護師が小さく驚いたように言った。
その声には少しだけ不思議そうな響きがあって、「昨日まで、あんなに辛そうだったのに」と続けた。
由奈は何も答えられなかった。
(私も、なんでこんなに急に楽になったのか、わからない……)
なぜ身体が軽くなったのか、その理由が思いつかなかった。
ただ、胸の空白だけが、そこに残っていた。
***
午後の面会時間になり、晃が入ってきた。
手には小さな袋を持っていて、飲み物やゼリーが入っているらしい。
「……起きてたか」
晃の声は低いけれど前より荒れていない。
椅子に腰を下ろすと、晃はスマホを取り出し、少し迷うような手つきで画面を操作し渡してきた。
「……これ、昨日撮ったやつ」
由奈がスマホを受けとると、画面には短い動画が表示されている。
再生ボタンが押すと、見慣れたリビングが映し出された。
『ママ! ちゃんとパパのお手伝いしてるよ! 見て!』
明日香の声が聞こえて、小さな手がタオルの端をそろえ、折り目をつける。
思ったより綺麗で、『ほら! 上手になったでしょ』と満面の笑顔で続けた。
続けて要が映る。少し照れた顔で言う。
『ちゃんとお手伝いしてるから。早く良くなって』
由奈の胸がきゅっと縮んだ。
自分が知らない間に、子どもたちは育っていた。
少しずつ教えていた事が、ちゃんと覚えてできるようになり、晃を支えていた。
(嬉しい。でも、なんだか少しだけ寂しいな)
涙が出そうになって、唇を噛んだ。
由奈は動画を止め、スマホを握り直した。
ふと画面の上には、未読の通知が並んでいる。
するとピロンと通知が来て、メッセージが表示された。
『買い出ししておいたから、会社帰りに届けるよ』
「……これって」
と由奈が呟くと、晃は慌ててスマホを取り上げた。
由奈に見せるつもりはなかったのか、慌てて閉じようとしたが、由奈の目にはもう入ってしまっていた。
「会社の人から?」
「……あぁ」
バツが悪そうに晃は顔を背けた。
短い文だが、晃が同僚に『頭を下げている』のが分かった。
由奈は息を呑んだ。
晃が誰かに頼っている――今まで見たことのない姿だった。
プライドを捨てて、自分と家族を支えていることに胸が熱くなる。
「そっか……頼れる人達がいて良かった」
「そう、だな」
晃は短く答えたが、その横顔は少しだけ柔らかかった。
由奈は、その横顔を見ながら小さく笑った。
***
しばらくして医師が入ってきた。
医師はカルテを見ながら、由奈の様子を確認した。
「意識も戻りましたし、バイタルも安定しています」
医師は晃を見て言った。
「問題なさそうなので、明日か明後日、退院でいいでしょう」
晃の顔がほんの少しだけ明るくなった。
「本当ですか」
「はい。ただし、引き続き自宅療養が必要です。無理はさせないでください」
医師は釘を刺すように言った。
「急に倒れた原因は、まだ分かりません。ストレス、疲労、いくつか考えられますが……とにかく、安静にしてください」
「分かりました」
晃は深く頷いた。
『退院できる』その事に、由奈は胸を撫でおろした。
もうすぐ家に帰れて、子どもたちに会える。
それだけで嬉しかった。
***
医師が出た後、晃も退院の手続きをしに席を外した。
ひとりになった由奈は、枕元のスマホを手に取り画面を点ける。
通知はいくつか来ていたが、由奈が真っ先に開いたのは小説のアプリだった。
『アルカディア王国戦記』
由奈は最新話を開いた。
目に入ってきたのは、セレスの祈りの場面だった。
画面をスクロールすると、文字が流れていく。
『慈恵神、癒しの神へセレスは祈った。
「どうか、神に癒しを。縛られたものを……今すぐでなくても、せめて少しでも楽に」
祈りが届いたのかは分からない。けれど胸の奥でほんの一瞬だけ、ふわりと冷たい棘が抜けた気がした』
由奈は息を呑んだ。
自分の体が軽くなった感覚は、昨夜から今朝にかけてのことで、小説の中でも同じ頃にセレスが祈っている。
(これ……セレスの祈りが届いたの?)
由奈は胸に手を当てた。
(現実でも、小説でも……私、支えられてる)
その確信が胸の奥で大きくなっていく。
「――そうだ、王様。どうなってるんだろう」
そのまま上へスクロールをする。
レオンとシグルが、自分を助け出そうと試行錯誤している場面だった。
あの剣しか信じなかったレオンが、シグルに「お前がいて、助かる」と言った。
初めてのことに、ぎこちなくて、でも必死で。
レオンも晃も、自分を守っていた『プライド』という盾を手放し、人との繋がりで立ち直ろうとしている。
(私のために、誰かが動いてる。そして、王様も晃も……変わろうとしてる)
由奈は小さく笑った。
声にはならなかったが、心の中で。
支えられているのは、自分だけじゃない。
晃も、子どもたちも、そしてきっとレオンも、誰かに支えられている。
そうやって、少しずつみんなが繋がっていく。
その事実が、由奈の胸を温かくした。
(声は届かなくても、繋がりはまだ切れてないのかもしれない)
文字との繋がりが、まだ小説と現実を繋げていた。
スクロールをセレスの祈る場面に持っていき、由奈は小さく呟いた。
「……セレス、ありがとう」
その瞬間、胸の奥が一瞬だけ温かくなった。
由奈は息を止める。
(今の、なに?)
空気が柔らいで、ほんの一瞬だけ誰かの気配を感じた気がした。
優しく温かい気配で、すぐに消えたが言葉ではない『何か』確かにそこにあった。
由奈はスマホを握りしめた。
(本当に……まだ、あの世界と繋がってる?)
確信はまだ弱いが、胸の中で少しずつ大きくなっていた。
由奈はさらに画面をスクロールした。
最新話の続きを読もうとして、その手が止まった。
画面に見慣れない文章が表示されていて、それは手紙の描写だった。
『封蝋が押された手紙が、姫の使者の手に渡された』
その印章には、北国の紋章が刻まれていた』
由奈の胸がザワリと嫌な音を立てた。
(北国……もしかして、次はリディアが利用されようとしている……?)
続きを読もうとしたが、そこで更新が止まっていた。
次の話が、まだ来ていない。
由奈はふぅ、と深く息を吸った。
(……早く、元気にならなきゃ)
スマホを枕元に置き、目を閉じる。
その思いだけが、由奈の胸の中で静かに燃えていた。
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