第15話 静かな病室と、初めて頭を下げた日
―――現実世界 病院―――
目を開けると、白い天井があった。
由奈は、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
視界がぼやけて、焦点が合わない。
頭の奥が鈍く重く、体のどこかが痛いような、痛くないような、曖昧な感覚だけが全身を包んでいた。
(ここは……病院?)
消毒液の匂い、規則正しい電子音、カーテンの向こうで誰かが話している声。
少しずつ、状況が理解できてきた。
(そうだ。倒れたんだ)
あの日、家族が帰ってきて、何か言おうとして、でも胸が苦しくて、膝から崩れ落ちて――
そこから先の記憶は、綺麗に抜け落ちている。
由奈はゆっくりと首を動かした。
ベッドサイドには、点滴スタンドが立っており、腕には針が刺さったままだ。
昼間だろうか、窓の外は明るい。
(何時だろう。というかあれから何日経ったの?)
体を起こそうとして、グラリと眩暈が襲ってきた。
「……っ」
世界が傾いたような感覚に、思わず目を閉じる。
胃の奥がむかむかして、吐き気がせり上がってくるのを、深呼吸をしてなんとか抑え込んだ。
枕元に置かれたスマホが目に入る。
手を伸ばせば届く距離。
でも、指先を動かす気力すら湧いてこなかった。
きっと画面を見たら、様々な通知が何件も溜まっているんだろう。
でも今は、何も見たくなかった。
ただ、胸の奥に妙な違和感があった。
何かが、そこにあったはずなのに、今はもう『ない』。
それが何なのか、由奈にはすぐには分からなかった。
ドアが開く音がして、由奈は顔を向けた。
入ってきたのは、晃だった。
「……由奈、起きたのか」
晃の声は、いつもより低く掠れていた。
由奈は、夫の顔を見て息を呑んだ。
(すごくやつれている)
目の下には濃い隈。
頬はこけ、髭も剃っていないのか、無精髭が伸びている。
シャツは皺だらけで、ネクタイもしていない。
こんな晃を見るのは、結婚してから初めてだった。
「晃……?」
声を出すのも、喉が渇いてひどく疲れた。
晃は由奈の枕元に立ち、しばらく無言で見下ろしていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……医者を呼んでくる。少し待ってろ」
そう言って、晃はナースコールを押した。
由奈は、ただ夫の横顔を見つめていた。
晃の手が、わずかに震えているのが見えた。
医師の説明によれば、由奈は過労とストレスによる自律神経の乱れで倒れたらしい。
幸い大事には至らなかったが、しばらくは安静が必要だという。
点滴を続けて、様子を見ながら退院のタイミングを決めるとのことだった。
「無理は禁物ですよ。体が悲鳴を上げてたんです」
医師はそう言って、カルテに何かを書き込んでいた。
由奈は曖昧に頷いた。
頭では理解できるが、実感が湧かなかった。
医師が去った後、病室には再び静けさが戻った。
晃は窓際の椅子に座り、腕を組んで目を閉じていた。
疲れ切っているのが、遠目にも分かった。
「……晃」
由奈が声をかけると、晃はゆっくりと目を開けた。
「仕事は?」
「職場に事情を言って、数日休みをとって、在宅に切り替えた」
「……そっか」
晃が在宅勤務を選ぶなんて、珍しい。
いや、珍しいどころじゃない。
晃は「家で仕事をするのは効率が悪い」と言って、在宅勤務を嫌っていたはずだ。
それなのに。
(私が、原因か……)
お互いの両親が遠いうえに、年齢を考えたら、こちらに安易には呼べなかったのだろう。
何よりも、晃の事だ。
プライドの高い彼が、そう簡単に他人に頼むことはしない。
「要と明日香は?」
「学校には行かせてる。今日は学童に預けた」
晃の声には、普段のような張りがなかった。
淡々としているが、どこか力が抜けている。
由奈は何か言おうとしたが、かける言葉が見つからなかった。
それがただ、胸が痛かった。
***
由奈が眠りに落ちた後、晃は一人、病室を出た。
廊下のベンチに座り、スマホを開く。
画面には、上司からの業務連絡、同僚からの気遣いのメッセージ、後輩からの質問の未読のメッセージがずらりと並んでいた。
晃は、深くため息をついた。
この数日間は、地獄だった。
由奈が倒れた日の夜。
子供たちを隣の人に預け、晃は救急車に同乗し、病院で検査結果を待った。
幸い命に別状はないと言われたが、それでも数日は入院が必要だと告げられた。
家に帰ると、要と明日香が不安そうな顔で待っていた。
「……ママは?」
明日香が泣きそうな顔で聞いてきた。
「大丈夫だ。少し入院するだけだ」
晃はそう答えたが、子どもたちの表情は晴れなかった。
その夜から、晃の戦いが始まった。
朝、子どもたちを起こす。
朝食を作り、洗濯物を回す。
子どもたちを学校に送り出す。
その間に、在宅で仕事をする。
夕方、子どもたちが帰ってきたら、夕飯を作る。
風呂に入れ、寝かしつける。
洗濯物を畳み、食器を洗う。
明日の準備をする。
やることが、終わらない。
朝食一つ作るのにも、手間がかかる。
卵を焼こうとして、火加減を間違えて焦がした。
ご飯を炊こうとして、水の量を間違えた。
味噌汁を作ろうとして、出汁の取り方が分からなくて、インスタントに頼った。
洗濯物も、畳むのに時間がかかる。
洋服の畳み方が分からない。
靴下の片方が見つからないし、タオルが山のように積まれていく。
夕飯は、もっと悲惨だった。
(栄養バランス? 彩り?)
そんなもの考えたことない。
空腹が満たされればそれでいいと思っていた。
レトルトカレー、コンビニ弁当、出前のピザにした日もある。
明日香が「ママのご飯が食べたい」と言って泣いた時、晃は何も言い返せなかった。
仕事も、思うように進まなかった。
在宅勤務とはいえ、会議はある。
資料も作らなければならない。
でも、いつもと違う環境に集中できない。
子どもたちが家にいる時間は、仕事どころではなかった。
宿題を見てやる。
喧嘩の仲裁をする。
一つ一つは些細なことだ。
でも、それが積み重なると、時間が消えていく。
晃は、初めて理解した。
由奈が、どれだけのことを、一人でやっていたのかを。
朝、晃は台所で立ち尽くしていた。
洗い物が山積みになっている。
昨夜の食器も、まだ残っている。
冷蔵庫の中身は空っぽで、買い物にも行かなければならない。
晃は、深く息を吐いた。
(――全部、やっててくれたんだな)
毎日文句も言わずに、当たり前のように。
その日の昼、晃はオンライン会議の休憩中に、後輩の新人社員からメッセージを受け取った。
『小林さん、奥様の具合はいかがですか? 何かお手伝いできることがあれば言ってください』
晃は、画面を見つめた。
普段なら、こういう申し出は断る。
自分のことは自分でやる。
人に頼るのは『弱さの証』だと思っていた。
でも、今は違った。
晃は、ゆっくりと指を動かし、返信を打った。
『ありがとう。簡単に作れる料理のレシピとか、あったら教えてほしい』
送信ボタンを押す前に、晃は少しためらったが、意を決して押した。
すると数分後、返信が来た。
『もちろんです! 後で送りますね。うちの母が共働きだったので、簡単に出来るレシピたくさん知ってます!』
晃は、小さく笑った。
(こんな風に、人に頼るのも悪くない)
***
夕方、晃は同僚からも連絡を受けた。
『買い物とか、子どもの送迎とか、手伝えることあったら言ってくれ。うちも同じ位の子どもいるから、大変さは分かる』
晃は、スマホを握りしめた。
『プライド』という言葉が頭に浮かんだ。
晃は、ずっとプライドを大事にしてきた。
仕事も、家庭も、全部自分の力でやる。
人に頼らず、家族でさえ弱みを見せない。
それが、正しいと思っていた。
でも今は、そのプライドが邪魔だった。
晃は、返信を打った。
『……有難う。そう言ってもらえると助かる』
短い言葉だった。
でも、晃にとっては、初めて同僚に向けて口にする言葉だった。
「頭を下げるだけで、こんなに世界が動くなんて、な。」
なんだか、今まで暗く狭まった視界が広がった気がして、胸が晴れた。
***
次の朝、晃は新人から送られてきたレシピを見ながら、野菜炒めを作っていた。
『スーパーにカット野菜ありますから、それを活用するといいですよ!』
新人のアドバイス通り、すでにカットされている野菜をスーパーで見つけた。
(こんな便利なものもあったのか。知らなかった)
今まで週末に、家族で買い出しに行くことはあったが、商品までは全く把握していなかった。
他にも、時短になりそうな商品も教えてもらい、それらを買い込んだ。
早速、カット野菜と豚肉を焦げないように、中火で炒める。
塩コショウで味付け、醤油を少し垂らす。
完成した野菜炒めは、見た目は微妙だったが、食べられないことはなかった。
要と明日香が、黙々と食べている。
「……どう?」
少し心配そうに晃が聞くと、要が少し驚いたような顔をした。
「うん。ママのとは違うけど、美味しいよ」
明日香も頷いた。
「パパ、お料理も出来たんだね」
晃は、何も言わなかった。
ただ、二人の茶碗に、おかわりをよそった。
朝食の皿を下げたあと、晃はリビングに積まれた洗濯物の山を見た。
畳まなければ、と思うのに、思わず手が止まる。
山を前に途方に暮れた、その時――
「パパ、手伝うよ」
背後から声がして振り向くと、明日香が小さな手でタオルを掴んでいた。
ぎこちなく折り目を合わせ、端をそろえ、くるりと畳む。
思ったより、きれいだった。
「……きれいに畳めるもんなんだな」
晃がぽつりと言うと、明日香は得意げに笑った。
「上手でしょ! ママが教えてくれたの」
その言葉が、胸に刺さった。
自分は知らなかった。
娘がこんなことを覚えていたことも。
由奈が、家事の合間に子どもに手を取らせ、教えていたことも。
「パパ。お風呂、洗ってきたよ」
今度は要が、当たり前みたいな顔で言った。
晃は言葉を失った。
子どもたちは、自分が見ていないところで、由奈の手でちゃんと育っていた。
情けなさが込み上げ、喉の奥が詰まった。
泣きそうになっていたのを子供たちに知られまいと、晃は慌てて洗濯物に視線を落とした。
(……全部、任せきりだった)
由奈の存在が、急に大きく見えた。
***
午後。
病室を訪れると、由奈は目を覚ましていた。
「……調子は?」
晃が声をかけると、由奈は小さく笑った。
「うん。今日は少しいいみたい。ところで……髭、剃った?」
「あ……あぁ」
晃は、少し照れくさそうに顎を撫でた。
由奈は、夫の顔を見つめた。
まだ疲れは残っているが、少しだけ表情が柔らかくなっている気がした。
「晃」
「何だ」
「……ありがとう」
晃は、目を丸くした。
「……何が」
「色々と」
由奈は、そう言って微笑んだ。
(ありがとう、その言葉は俺が言いたいのに……)
晃は、何か言いかけて、でも言葉にならなくて、ただ静かに頷いた。
由奈は、窓の外を見た。
空は青く、雲が流れている。
胸の奥の空っぽの感覚は、まだ消えなかった。
あの声が聞こえない。
あの温かさがない。
(――王様)
由奈は、心の中でその名前を呼んだ。
でも返事は、なかった。
静かな病室で、由奈はただ窓の外を見つめ続けた。
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