第13話 神がもたらした至高の歓喜と絶望の祝福④
周囲は、最大の祝福に包まれていた。
最大の持ち上げ。
最大の賞賛。
民衆は歓喜し、神殿は勝利を宣言し、ここに居るすべての者が、レオンを讃えていた。
涙を流す者がいた。
手を取り合って喜ぶ者がいた。
地に伏して祈る者がいた。
広場を埋め尽くす民衆の顔は、まるで長く待ち望んだ救いが、ついに訪れたかのように、一様に輝いていた。
「神に愛された王だ!」
「この国は守られている!」
「始まりの神が、我らと共におられる!」
声が、波のように押し寄せる。
その波は、広場から街へ、街から国、世界全体へと広がっていくだろう。
歴史に刻まれる瞬間。
人々が語り継ぐ奇跡の日。
すべてが、完璧に整っていた。
けれど。
レオンは、何も感じなかった。
あの温かい気配が、もう、どこにもない。
(カヤ)
心の中で呼ぶ。
けれど、返事はない。
(カヤ―—!)
もう一度呼ぶ。
それでも、何も返ってこない。
いつもそこにあった『繋がり』が、完全に断たれている。
まるで自分の一部が、無理やり引き剥がされたような感覚だった。
心臓があるはずの場所に、冷たい空洞だけが残っている。
レオンは、ゆっくりと御像を見上げた。
その動作は、まるで糸の切れた人形のように、力が入っていなかった。
御像の胸が、静かに脈動している。
ドクン、ドクン、と。
規則正しく、穏やかに。
その脈動を見つめながら、レオンの唇がわずかに動いた。
(返せ)
レオンは心の中で、叫んだ。
(返せ……!)
その声は、誰にも届かなかった。
シグルが、スッと前に出た。
民衆の視線から、レオンの揺らぎを遮るように、静かに立つ。
その動作は、ごく自然で目立たない。
『王の弱さを民衆の目から隠し、王を守る』
シグルの表情は、いつもの穏やかな表情を浮かべているが、目の奥には動揺が隠れていた。
(……これは神殿が神を抱え込む筋書きだ)
予想していた――いや、確信していた。
オズワルドが、ただの浄化で終わらせるはずがない。
あの男は、野心家だ。
権力への執着が、骨の髄まで染み込んでいる。
シグルは、声量を落としてレオンへ告げた。
「陛下。今は退きましょう」
レオンは反応しない。
ただ、御像を見上げている。
その目は、虚ろだった。
「ここで動けば、悪神の物語にされます」
その言葉に、レオンの肩がわずかに震え、拳が握られる。
けれど、何かが、胸の奥で燃えていた。
「……」
言葉が喉に詰まっているのか、返事が出ない。
レオンは、何を言えばいいのか分からなかった。
「取り返す準備をいたしましょう」
シグルの声が、さらに静かになる。
その声には、確かな決意が込められていた。
「……神殿が神を抱えたままでは、この国は終わります」
レオンは目を閉じた。
深く、息を吸う。
肺の奥まで、空気を入れる。
そして、ゆっくりと吐き出した。
震えていた手が、少しずつ静まっていく。
目を開けると、その目には決意が宿っていた。
虚ろだった瞳に、光が戻る。
それは、絶望の光ではない。
怒りの光だった。
「……ああ」
発した一言は短く、揺るがない。
それは、奪ったものへの『宣戦布告』だった。
民衆の歓声が、さらに響き渡る。
その音も、今はどこか遠い。
ただ、沈黙だけがそこにあった。
そして沈黙の中で、レオンは静かに誓った。
(必ず、取り戻す)
その誓いは、誰にも聞こえない。
ただ、レオンの心に深く刻まれた。
***
―――現実世界 小林家 リビング―――
由奈は、ソファに座っていた。
背もたれに預けた肩が、やけに重い。
部屋には、午後のぬるい空気がまだ残っていた。
エアコンの風が当たらない場所だ。
スマホは膝の上に置かれている。
画面は暗い。
見ていないのに、胸の奥が、誰かに掴まれている。
「……っ」
息が詰まった。
最初は、ただの胸焼けみたいだった。
胃の上あたりがきゅっと縮むような、疲れた日にたまに来るものと似ていた。
深呼吸すれば治ると思って、鼻から吸おうとした。
吸えない。
空気はあるのに、通らない。
喉の奥が、見えない指で押さえられているみたいだ。
キーン、と細い音が遠くで鳴り続ける。
そして視界が揺れた。
テレビの電源が切れる瞬間みたいに、輪郭が一瞬だけ滲む。
(なに……? やだこれ……)
急に身体が重くなる。
鉛の塊を服の内側に仕込まれたみたいに、胸から下が沈む。
自分の手なのに、借り物みたいに鈍く、指先が言うことをきかない。
肩から先が、遠い。
心臓が妙に早く打ち、自分の心臓じゃない気がした。
ドクン……ドクン……
どこか遠くで、別の心臓が打っている。
耳で聞く音じゃなくて、骨で聞く音だ。
胸の奥の空洞に、低い振動が落ちてくる。
由奈は反射的に、スマホへ手を伸ばそうとした。
王様、儀式、いま、向こうで――
(王様……!)
心の中で叫んだ。
けれど声が出ない。
喉が詰まって、空気が通らない。
胸の引力が、グイッと、さらに強くなった。
巨大な手に掴まれて、どこか遠くへ引きずり込まれるような感覚。
身体はここにあるのに、意識だけがソファの背もたれを滑り落ちていく。
背中の感覚が薄くなり、床の硬さが遠ざかる。
スマホの画面が、勝手に点いた。
膝の上で、白い光がフッと灯る。
薄暗くなりかけたリビングで、その光だけが異様に明るい。
画面には、見覚えのある文字が並んでいた。
タイトル、章、更新日時。
「神殿 祈りの広場」
「御像」
「ドクン」
由奈は読んでいない。
触っていない。
なのに画面の中で、何かが進んでいるように、勝手にスクロールしていく。
(待って……!)
声にならない。
由奈はスマホを掴もうとしたが、指先が空を掴むだけだった。
視界がぐにゃりと歪み、光だけが真っ直ぐ刺さる。
その時――
ガチャ。
玄関の鍵が回る音がした。
ただいま前の、いつもの合図だ。
「「ただいまー!」」
要と明日香の明るく元気な声が弾ける。
それは現実の音であり、由奈が大切に守ってきた毎日の音だった。
ほんの一瞬だけ、引力が弱まった気がした。
胸の締めつけが少し緩んだおかげで、ひとつ呼吸をして口を動かす。
「おかえ……」
そのあとの声が出ない。
口は動いたはずなのに、喉が鳴り、空気が漏れるだけだった。
唇が震え、舌が乾く。
息が浅くなり、視界がぼやけ始めた。
子どもの靴下のまま走る足音がリビングへ近づく。
「ママ? ……え、ママ?」
要の声が急に小さくなる。
子どもは空気の異変を嗅ぎ取るのが早い。
大人が取り繕う前に、怖いものを見つけてしまう。
次の瞬間、胸の引力が、さらに強くなった。
「——っ!」
息が途切れ、身体が前へ崩れた。
ドサッ。
倒れる鈍い音。
膝から落ちたスマホが床で跳ね、コツン、と角が当たり画面が再び点灯する。
「ママ! ねえ、ママ!!」
「パパ!! ママが!!」
明日香の細い手が由奈の肩を揺する。
小さな指が、必死に服の布を掴む。
要が泣きそうな顔で、晃の助けを叫んでいた。
でも、由奈は返事ができない。
身体が石みたいに動かず、意識だけが遠くへ引っ張られていく。
カチ、カチ、とリビングの時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
普段は気づかない音が、世界の全部みたいに鳴る。
次に聞こえたのは、別の重く慌ただしい足音だった。
「……由奈?」
晃の声。
玄関からリビングへ駆け込む気配。
「由奈! おい、由奈!!」
晃は膝をつき、由奈の肩を抱き起こそうとして、すぐに手を引っ込めた。
触り方が分からない。
触ったらまずいのかもしれない、という顔をしていた。
晃が恐れているのは由奈の倒れた姿じゃない。
どうすればいいか分からない自分の方だ。
「どうした、何が……! おい、息を……!」
晃の声が震える。
明日香が大声で泣き出す。
「ママ……目を開けてよ……!」
晃は顔を上げ、子供たちに声を荒げた。
「大丈夫だから! 大丈夫だから、ちょっと……っ、待て!」
誰に言っているのか分からない。
子どもにか、自分にか、由奈にか。
同じ言葉を繰り返すほど、言葉の裏が薄くなる。
晃は震える手で、床に落ちた由奈のスマホを拾い上げた。
画面が明るく、見慣れない、意味が分からない内容の文字がびっしり並んでいる。
晃は眉を寄せたまま、すぐに自分の携帯をポケットを叩きながら探す。
いつもなら右だが、ない。
即座に左を叩き、スマホを取り出す。
「救急……救急……!」
番号を押そうとするが、手汗で指が滑り、画面が反応しない。
晃は舌打ちを噛み殺して、深呼吸しようとするが、できなかった。
「要、ティッシュじゃない! 水も違う! ……えっと、落ち着け、落ち着け……」
言ってることが支離滅裂だ。
明日香は、泣きながら立ち尽くし、要は、どうしていいか分からず、壁際で小さく身を縮めていた。
「……要、電話できる? できるか? できるなら、これを押して電話を」
晃の声が途切れる。
由奈の呼吸が浅い。
頬の色が、さっきより薄い気がする。
「由奈……っ」
呼びかける声が、悲鳴に近くなった。
晃は、由奈の手に触れた。
冷たくも熱くもない。
ただ重く、魂だけがどこかへ行ってしまったみたいだ。
その瞬間、由奈の意識の奥で、名前にもならない思考が浮かんだ。
(おう、さま……)
それは祈りじゃなく、呼びかけだ。
でも返事はない。
それと同時に、胸の奥でもう一つの音が脈打つ。
ドクン。
由奈の身体からではない、別の場所の鼓動。
その鼓動に、意識が引っ張られる。
「パパ! 救急車の人に電話つながったよ!」
要が必死な声で晃にスマホを渡した。
「妻が、倒れました! 意識が……っ、呼びかけても……!」
晃の声が裏返る。
それでも言わなきゃいけない、と晃は必死に言葉を繋ぐ。
住所、年齢、状況、呼吸。
言いながら、自分がどこか他人事みたいに感じていた。
由奈の視界は、もうほとんど暗い。
家族の声も遠い。
最後に由奈は、遠くで光を見た気がした。
冷たい、青白い光。
そこに、形は分からないが触れられない何かがあった。
ただ、胸の奥で鳴る鼓動だけが、そこへ連れていこうとする。
ドクン。
ドクン。
そして、由奈の意識は、完全に落ちた。
(第2章 完)
※2章までお読みいただきありがとうございました!
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