第13話 神がもたらした至高の歓喜と絶望の祝福②
―――神殿 祈りの広場―――
扉が開くと、熱が押し寄せた。
人、人、人。
広場を埋め尽くす民衆の群れ。
数百人、いや、それ以上であろう人の数。
老若男女が、柵の外から、窓から、屋根の上から、あらゆる場所から、広場の中央を見つめている。
視線が一斉にこちらへ向き、ざわめきが波のように膨らんだ。
「王様だ……」
「本当に来た……」
「浄化されるのかな……」
期待と、疑念と、不安が混ざり合った声が空気を震わせる。
レオンは一歩、広場へと踏み出した。
朝日が、その背中を照らす。
広場の中央には、本式の御像が据えられていた。
巨大な石の身体。
優に三メートルを超える高さ。
その表面には、複雑な紋様が刻まれている。
古代の文字、幾何学的な図形、見たこともない記号。
それらが、まるで生きているかのように、淡い光を帯びていた。
そして、胸のあたりに、円形の窪みがあった。
その窪みだけが磨かれたように滑らかで、ドクン、ドクン、と、心臓めいた淡い脈動を刻んでいる。
朝日の反射のせいか、御像が呼吸しているように見えた。
レオンは、その御像を見上げ、顎をわずかに引いた。
(……浄化だけに、こんな大袈裟なものを)
レオンは口の端を上げ、虚勢で鼻を鳴らした。
反面、異様な光景に、背筋がぞくりと冷え、心臓が妙に早く打っていた。
『あれ、王様……。なんか変な感じがする』
カヤの声が、心の奥で響いた。
いつもより小さく聞こえる。
(……俺もだ)
レオンは心の中で答えた。
けれど、もう引き返せない。
民衆の視線が、四方八方から刺さる。
好意も、値踏みも、まだ疑いを解かない目も、そこにあった。
オズワルドが高壇に立ち、両手を広げた。
仰いだ横顔は、神官長として非の打ちどころがない。
ただ、民を見下ろす視線だけが、祈る者のそれではなかった。
「民よ。恐れは不要です」
オズワルドの声が、広場全体に響き渡る。
「本日、我らは神の御前にて、王が『よからぬもの』に侵されていないことを示します」
民衆が息を呑む。
「この儀式によって、すべての疑念は晴れるでしょう」
どこかで子どもが泣き、すぐに母親が口を塞いだ。
「……神殿がそう言うなら」
「我々も祈りを捧げよう」
ざわめきが、祈りに変わる。
祈りの声が小さく重なり、広場全体が、少しずつ祈りに呑まれていく。
祈りがレオンに集まっている。
レオンにも、目に見えない流れが、御像へと吸い寄せられるように感じた。
何かが、この場所へ降りてこようとしている。
その気配が、足元に重くまとわりついた。
レオンの脳裏に、前世の記憶が走った。
支持されなかった日々。
届かない声。
玉座の孤独。
民衆に背を向けられ、最後には「王は何も見ていない」と切り捨てられた記憶。
あの視線。
あの沈黙。
あの諦めた顔。
だが――
(今回は違う。俺は正しい。……それを見せればいい)
レオンは前へ出た。
民衆の視線が、刃のように皮膚を刺す。
けれど、レオンは顎を上げ、まっすぐ前を見た。
シグルは半歩後ろ、変わらぬ距離で立つ。
その存在が、妙に現実的な重みを持っていた。
***
―――観客席(北国陣営)―――
広場の一角、神殿が設えた貴賓席に北国の使節団が座っていた。
『見せるための席だ』とリディアは思う。
リディアは真剣な眼差しで御像を見つめ、エルザは冷静に全体を観察している。
その背後には数名の護衛と、目立たない場所に隠密が控えていた。
リディアが小声で呟いた。
「浄化の儀……」
リディアの脳裏に、レオンの姿が浮かんだ。
初めて会ったあの日。
冷たい視線。
拒絶の言葉。
そして、庭園の散策。
共に歩いた、あの穏やかな時間。
草花を眺め、不器用ながらも言葉を交わした。
以前とは違う、何かが確かに変わっていた。
(あの方は……本当に変わられた)
その急激な変化が、噂されるような憑き物のせいか、まだ分からない。
けれど、彼女は視線を逸らさず続ける。
「どうか、陛下が……無事でありますように。……そして、誤解が晴れますように」
その声には、祈りというより信じるという意志が込められていた。
対照的に、エルザの表情は硬い。
彼女は御像を見つめ、その胸の窪みを、じっと観察していた。
(……あれは、ただの象徴ではない)
エルザは隣の隠密に、声を落として命じた。
「この儀式の詳細を、すべて記録しろ。御像の構造、神官長の動き、儀式の手順、何一つ漏らすな」
隠密が小さく頷く。
エルザは唇を薄く開いた。
「国王陛下に報告する。この国が何かを抱えたまま権威を固めるのは……我が国にとって脅威だ」
そして、氷のように結ぶ。
「……あの力は、いずれ交渉の札になる」
***
―――観客席(騎士団)―――
別の一角では、カリナとガルドが立っていた。
カリナは緊張した面持ちで御像を見つめている。
いつのまにか、胸の前で手を組んでいた。
「……陛下が、無事に儀式を終えられますように」
その声は祈りに近かった。
だが、ただの祈りではない。
カリナの組まれた手に、剣がぶつかり合った感触が蘇る。
鋼の震え。
息の熱。
そして、あの時の陛下の目。
怖いほど真っ直ぐで、逃げない目だった。
(あの方は、逃げない。……私がこの目で見た)
直接この手で剣を交えたからこそ、分かる。
己の勘を信じてカリナは、視線を逸らさなかった。
信じると決めた人を、ここで疑うのは、自分の剣を否定することになる気がしたからだ。
対照的に、ガルドは腕を組み、無言でレオンを見つめていた。
戦場で何度も見た背中。
いつも、まっすぐだった。
迷いがなく、強く、そしてあの人は孤独だった。
けれど今日の背中は、ほんのわずかに違う。
肩が硬い。
呼吸が浅い。
何かを恐れているみたいだった。
(陛下……?)
ガルドの眉が、わずかに動いた。
***
香が焚かれた。
白い煙が、広場を漂う。
甘く、重い香りが鼻をつく。
高壇の脇、神官たちの列の端にセレスも立っていた。
白い法衣の袖口を握りしめ、唇を結んでいる。
祈りの姿勢は崩さない。
けれど、その視線は何度も御像の胸の窪みに吸い寄せられて、そのたび、眉がわずかに曇った。
(お願い……ただの浄化で、終わって)
レオンは思わず眉をひそめた。
この香りは、どこか懐かしい。
前世でも、どこかで嗅いだような感覚になった。
神官たちが聖水を掲げ、祝詞が唱えられる。
「……清めよ」
「……穢れを退けよ」
「……光よ、闇を照らせ」
言葉は美しい。
韻を踏み、リズムがあり、そしてどこか嘘くさく聞こえる。
レオンは無言で形式に付き合った。
『王である』というだけで、民は安心する。
その安心のためなら、膝を折るくらいは安い。
そう思い込もうとした。
聖水が、レオンの額に触れた。
冷たい水が肌を伝って流れ落ちる。
「清めの水よ、穢れを洗い流したまえ」
神官の声が静かに響き、民衆は息を呑んで見つめていた。
御像の胸が、淡く光る。
ドクン……と一度だけ、遠い鼓動のように脈動した。
レオンは喉の奥で息を飲み込む。
だが、すぐに視線を戻した。
(……気のせいだ。香のせいで、変に意識しているだけだ)
それでも、祈りの声が重なるほど、空気が少しずつ密度を増していく。
重いというより、集まってくるという感覚。
『王様……なんか……へん、な……』
カヤの声が、耳の奥で響いた。
けれど、途中から、ぶつぶつと途切れる。
(……カヤ? 聞こえるか)
『……う、ん。きこ、える……けど……』
声が細い。
雑音が混じって、言葉がところどころ聞き取れない。
(……大丈夫だ。深呼吸しろ。まだ、何も起きてない)
レオンは心の中で言った。
返事は、少し遅れて、霞んだ声で聞こえてくる。
『……うん……』
違和感はある。
けれど今は、まだその域を出ない。
ただ、繋がっているはずの声が、少しずつ遠ざかっていく。
その事実だけが、胸の奥を冷やした。
「光よ、降りたまえ。神よ、顕れたまえ」
オズワルドが、一段低い声で結び句を唱え始めた。
「古き名を呼び、始まりの力を此処に」
その声は、今までとは違っていた。
低く、重く、そして、どこか禍々しい響きを帯びている。
「——————」
途中から別の言語が混じりだした。
(……古代語? こんな祈りあった?)
セレスは閉じていた目を開き、神官長に目を向ける。
その瞬間。
セレスの喉から、小さく掠れた音が漏れた。
祈りの列の端で、彼女の指先が強く震える。
(――違う! これは、浄化の結び句じゃない)
青ざめた顔のまま、唇が形だけ動く。
「……この文言……まさか……!」
震えて声にならない。
今、この場でその言葉にしたら、取り返しがつかない気がした。
空気が変わり、煙の流れが止まる。
民のさざめきが、ほんの一拍だけ吸い込まれるように沈む。
衣擦れの音も、咳払いひとつも、聞こえなくなった。
御像の胸の窪みが、強く光った。
淡かった光が一気に増し、御像全体が微かに震え始める。
その光は眩しいほど強く、そして冷たかった。
「――っ」
レオンの頭の奥が、引き剥がされるように痛んだ。
心臓が一瞬止まり、次の瞬間どくんと暴れる。
息が詰まり、視界が揺れた。
(……カヤ?)
いつもなら、そこで声があるはずだった。
『……うっ……おう、さ……』
カヤの声が、耳の奥で掠れた。
さっきまで鮮明だった声が、急に遠く、ぼやけて聞こえた。
(カヤ、聞こえるか)
『……きこ、え……に……』
言葉が途中で削れる。
音が落ち、途切れる。
戻ったかと思えば、また落ちる。
まるで誰かが線を引き抜いていく。
(カヤ!)
レオンが呼ぶ。
呼べば呼ぶほど、返りが薄くなる。
『……お、さ……』
最後に残ったのは、かすれた呼びかけだけ。
その声が、遠ざかるというより沈んでいく。
ぷつん。
切れた。
音も、気配も、温度も、何もかも。
レオンの胸の内側から、ぽっかりと空洞ができた。
御像の光が、さらに増していく。
ドクン、ドクン、ドクン……
『何かを受け入れた』かのように、脈動が一定のリズムを刻み始める。
心臓そのものが、作り替えられたみたいだった。
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