第13話 神がもたらした至高の歓喜と絶望の祝福①
―――神殿 礼拝堂―――
セレスは、いつものように礼拝堂で祈りを捧げていた。
朝の光が、ステンドグラスを通して差し込み、床に色とりどりの模様を描いている。
その光を纏い、慈恵神の像が、優しく微笑んでいた。
セレスは跪き、目を閉じる。
両手を胸の前で組み、静かに祈りを唱え始めた。
「慈恵神よ……我が国と、民を、お守りください」
その声は、いつもと同じだった。
穏やかで優しく、祈りに満ちていた。
いつものように、最後の結び句を続ける。
「——そして、創造神アーク・ディア=カヤよ……どうか、我らの世界をお見放しにならないでください」
瞬間——空気が、変わった。
セレスは目を開けた。
『何かが違う』
いつもなら、この祈りを唱えた後は、心が穏やかになる。
静かな安らぎが、胸に満ちる。
けれど今日は明らかに違った。
冷たい。
まるで何かが、この場所を見ているような。
セレスは息を呑んだ。
礼拝堂の空気が、わずかに重くなっている。
いや、重いというより、張り詰めている。
まるで、弦が限界まで引かれているような感覚。
「……何……?」
セレスは小さく呟いた。
慈恵神の像を見上げる。
その優しい表情は、いつもと変わらない。
それなのに、何かが違う。
セレスは立ち上がり、礼拝堂を見回した。
物音すらも無く、誰もいない。
静かだ。
けれど、その静けさが、妙に不自然だった。
まるで、誰かが息を潜めているような――
セレスは、組んだ指先に無意識に力をこめた。
(今日の儀式……)
セレスは目を細めた。
今日、王の浄化儀式が行われる。
オズワルド神官長が、自ら執り行う大規模な儀式。
民衆が集まり、神殿の威信を賭けたそういう儀式。
けれど、セレスの胸には、拭えない不安があった。
(なぜ……あんなに大々的にやるのかしら……?)
浄化儀式は、通常ならもっと小規模に行われる。
静かに、慎重に。
けれど今回は、まるで何かを見せつけるかのような。
セレスは深く息を吸った。
そしてもう一度、慈恵神の像を見上げる。
「どうか……お守りください」
小さく呟いたその声は、祈りというより『願い』だった。
セレスは礼拝堂を後にした。
けれどその背中には、冷たい視線が突き刺さっているような感覚があった。
振り返っても、誰もいない。
ただ、慈恵神の像だけが、静かに微笑んでいた。
***
―――神殿 広場脇の控えの間―――
扉の向こうから、ざわめきが薄く流れ込んでくる。
人の声、鐘の音、布が擦れる音。
民衆の熱が、壁越しに伝わっていた。
石造りの控えの間は、ひんやりとした空気に満ちている。
窓から差し込む朝日が、床に長方形の光を落としていた。
レオンは一度だけ深く息を吸い、吐いた。
吐いた息の先で、白い息は出ない。
それでも肺の奥が冷える。
胸の奥に、妙な圧迫感があった。
何かが始まる直前の、張り詰めた静けさ。
『王様、緊張してる?』
カヤの声が、耳の奥で聞こえた。
いつもの、少しからかうような調子だ。
けれど今日は、明るく努めようとしているが、語尾が震えているように感じる。
レオンは唇の片端を、ほんの少しだけ上げる。
(……してない、と言えば嘘になる)
『ふふ、なんか珍しく素直じゃない! ……大丈夫、私もついてるから』
その声は、いつもより少しだけ小さく聞こえる。
まるで自分に言い聞かせるような、そんな口調だった。
レオンは目を閉じ、静かに答える。
(……ああ。そうだな)
短い言葉。
けれど、その中には『安心』と、微かな『不安』が混ざっていた。
『王様、約束ね。挑発に乗らないこと。言い方に気をつけること。今日は特にだよ』
カヤの声が、少し強くなる。
いつものツッコミモードだ。
レオンは心の中で、苦笑した。
(……分かってる)
『本当に? 本当に、分かってる?』
(分かってる)
念の押し方が、まるで小さな子供に諭すような口調だ。
カヤが、小さく息を漏らす気配がした。
(……終わったら、またすぐに話せるよな?)
レオンの問いに、カヤは一瞬だけ沈黙した。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
『……うん。そう、だね』
歯切れの悪い返事。
レオンはそれを指摘しようとして、やめた。
今は、王として前を向くしかない。
***
「神官長」
レオンが声を上げると、扉が静かに開いた。
オズワルドが、ゆっくりと現れる。
黒い法衣は皺ひとつなく整えられ、表情は穏やかだ。
その背後には神官が二人。
こちらには、シグルが一歩後ろで控えていた。
「陛下、この度は浄化儀式にご同意いただき感謝いたします。これで、民衆も……」
「余計な挨拶はいい」
レオンはオズワルドをまっすぐ見据えた。
眉間に皺を寄せ、相手の出方をうかがう。
「以前に告げた通りだ。儀式はシグルの立ち会いのもとで行う」
そこで一瞬間を置き、続ける。
「それから、内容を今から説明しろ」
更に強い命令口調になりかけて、喉の奥で止める。
カヤがいれば、今の言い方は地雷だと言っただろう。
いや、今も、そこにいる。
ただ、黙って様子を見ているだけだ。
オズワルドは恭しく頭を下げた。
その動作は、神官長らしく完璧に整っていた。
「無論でございます、陛下。すべては民の不安を鎮めるため」
そう言いながら、オズワルドは両手を胸の前で組んだ。
まるで祈りを捧げる聖職者のようだった。
けれど、彼の目の奥には、何か別のものが潜んでいる気がした。
淡々と、手順が並べられていく。
「第一に、清めの香を焚きます。場を清め、邪なるものを遠ざけるためです」
オズワルドは指を一本立て、淡々と続ける。
「第二に、聖水にて陛下の身を浄めます。清らかな水が、穢れを洗い流します」
次の指が立つ。
「第三に、祝詞を唱えます。陛下の身によからぬものが付いていないことを、神前で示すためです」
そして最後に、両手を広げた。
「そして最後に、御像の前で、陛下が誓いを立てられます。王として民を守る、と。御像はあくまで神前の象徴にございます。恐れる必要はありません」
実にもっともらしい。
あまりにきれいに、整いすぎている。
欠けているところがない、ように見えた。
レオンは眉を寄せたまま、横目でシグルを見た。
シグルは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど、その瞳の奥は、氷の刃のように冷たかった。
「神官長殿」
シグルが、静かに口を開いた。
その声は丁寧で、尖りがない。
けれどその分だけ、相手に逃げ道を与えなかった。
「よからぬものの有無は、何をもって判じるのです?」
オズワルドの表情が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
けれど、すぐに元の穏やかな笑みに戻る。
「それは……儀式の結果が神殿の裁定によるなら、民は安心ではなく恐れを抱きます」
シグルの声が、さらに静かになる。
「判じる基準を、事前に――」
オズワルドは一拍だけ間を置いた。
その間、彼の視線がわずかに宙を泳ぎ、言葉を選んでいるのが見て取れた。
「判じるのは、神意。……ただそれだけです」
穏やかで、柔らかな言葉。
けれど中身は空っぽだ。
判定基準も、具体的な兆候も、何も言っていない。
ただ「神意」という、曖昧な言葉だけ。
レオンの奥歯が、きしんだ。
(結局、神殿の言い分でどうとでもなる)
それでも退けば、『逃げた王』になる。
噂は増幅し、民の不安は神殿の手の中で育つ。
レオンは目を細め、頷いた。
「いい。だが約束は守れ。シグルは最初から最後まで立ち会う」
そこで一拍置き、声を低くする。
「説明した内容から一つでも外れたなら、わかっているな?」
オズワルドは、穏やかな笑みを崩さない。
「ええ、もちろんでございます。民の前でこそ、模範であられる陛下ですから」
(……止めれば、民の恐怖が爆発する。神殿はそれを王が暴れたにする。考えたな)
レオンは喉の奥で息を殺した。
オズワルドは深く頭を下げる。
「――陛下の御心のままに」
その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ気がした。
オズワルドが退室すると、控えの間に沈黙が降りた。
シグルが、ゆっくりとレオンに近づく。
その足音は、コツコツと石の床に静かに響いた。
「陛下」
シグルが、レオンへだけ聞こえる声量で囁いた。
「説明は整っております。ですが……曖昧な部分が多い」
レオンは眉をひそめる。
「曖昧……」
シグルは声を落とし、一度だけ扉の方へ視線をやった。
「御像の扱いについて、意図的に触れておりません」
シグルの目が、わずかに鋭くなる。
「神官長は、御像を『象徴』と言いました。けれど、あれほど巨大な御像を、わざわざ広場に据える理由を説明していません」
レオンは知らず、拳を握っていた。
(……ならば、俺は正しいと見せるまでだ。噂ごと、黙らせる)
『王様、気をつけて』
カヤの声が、小さく響いた。
その声には、いつもの明るさがなかった。
まるで、何かを恐れているような声音。
レオンは心の中で、短く答える。
(……ああ)
扉の向こうで、ゴーン、と鐘がもう一度鳴った。
何かの始まりを告げるような、低く重い音。
レオンは深く息を吸い、立ち上がった。
「行くぞ」
声は、思ったより低く出た。半分は虚勢で、あとは覚悟だ。
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