第8話 14年前の『お互い頑張ろう』をもう一度②
(あの頃の晃は……)
由奈は過去を思い出しながら、涙をこぼした。
迷いなく決断してくれた。
私の背中を押してくれた。
強くて、頼れる人だった。
でも、今は違う。
晃は迷っている。悩んでいる。弱っている。
(でも……)
由奈は机にスマホを置いた。
(いつから、自分たちは会話を無くしていったんだろう)
***
―――4年前 小林家リビング―――
「ねえ、晃。要の習い事なんだけど……」
「なに?」
晃はスマホから顔を上げず、いつものぶっきらぼうな口調で答えた。
「サッカーと水泳、どっちがいいと思う?」
「どっちでもいいだろ。お前が決めろ」
「え、でも要はどっちもやりたいって言ってて……。サッカーはお友達もやってるからって言ってるし、水泳は近くに新しく出来たスポーツセンターで出来るし……。晃はどっちがいいと思う?」
「だから、お前が決めていいって言ってるだろ」
「……」
「いつもそうだな」
晃はスマホの画面を切り、由奈に目を向ける。
その目はいつも以上に冷たかった。
「夕飯何にする、旅行どこ行く、家具何買う——全部、俺に聞いてくる」
「だって……晃が決めてくれた方が……」
「そんなものも自分で決められないのか」
由奈は、その言葉に凍りついた。
「……そ、それは」
「俺はお前の上司じゃない。その位自分で考えて決めろ」
晃はそう言うと、部屋を出て行った。
由奈は、呆然とその場に座り込んだ。
私……間違ってた?
晃に決めてもらうのが、当たり前だと思ってた。
でも……晃は、それが嫌だったんだ。
それから、由奈は晃に何も聞かなくなった。
いや、聞けなくなった。
「自分で決めろ」と突き放されるように言われるのが怖かった。
だから、小さなことも大きなことも、全部一人で抱え込んだ。
そして、夫婦の会話はどんどん減っていった。
***
――― 現在 小林家 リビング―――
(あの日から……私たち、ちゃんと話してない)
由奈は、スマホの画面を見つめた。
先ほどのシグルの言ったセリフが蘇る。
『あなたは変わったのではなく……成長されたのです』
『昔のあなたは、確かに迷いなく決断されました。しかし、それは他者を信じず、他者の痛みを理解しない、孤独な決断でもあったはずです』
『今のあなたは、迷い、悩まれます。しかしそれは、弱さではありません。相手の立場を想像し、人を信じられるようになった——その証です』
(私……)
由奈は、ハッとした。
(私、王様に「相手の立場を想像して」って教えてる。でも……私自身は?)
由奈は、14年前の自分を思い出した。
あの頃、晃は由奈の背中を押してくれた。
「自分で決めろ。その道でベストを尽くせ」と。
でも、いつの間にか由奈は『決めてもらう』ことに甘えていた。
晃は由奈自身で考えて決めてほしかった。
そして、夫婦対等な立場でいたかった。
しかし、自分はずっと彼に決定権を押し付けてた。
晃が何か言ってくれても「でも……」と不安をぶつけるだけで、晃を不安のはけ口にしていた。
由奈は、震える息をひとつ吐いて気持ちを落ち着けた。
(私、王様に偉そうなこと言える立場じゃない。私も……晃の気持ちを想像できてなかった)
自分の中にある「昔の晃像」に、囚われていたことに気づく。
晃に「迷わず決断する強い人」であり続けることを、押し付けていた。
そして同時に、「決めてもらう楽な立場」に甘えていただけだった。
(お互いに……すれ違ってたんだ)
由奈は静かに決意した。
「私も、変わらなきゃ。今の晃を支えて……そして、私も自分で決める」
***
翌日。
朝食の準備をしていると、晃が起きてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
由奈は、いつもより少し明るく答えた。
晃は怪訝そうな顔をして、いつもの席に座った。
「……あの、晃」
「ん?」
「私……最近、ずっと考えてたんだけど」
晃は黙ってコーヒーを飲んでいる。
由奈は、勇気を振り絞って続けた。
「4年前……晃が『自分で考えろ』って言ったこと、覚えてる?」
晃の手が止まった。
「……ああ」
「あの時、私……ショックで、それから晃に何も聞けなくなっちゃった」
「……」
「でも、今ならわかる。晃は、私と対等でいたかったんだよね」
晃は何も言わなかった。
「私、ずっと晃に決めてもらうことに甘えてた。だってその方が楽だったから」
由奈は正直に言った。
「でも、それって……晃に全部責任を押し付けてたってことだよね」
「……由奈」
「ごめん。今まで気づかなくて」
由奈は一度目を伏せたが、すぐに顔を上げて真っ直ぐに晃を見つめた。
「これからは、自分でしっかりと考えて、自分でちゃんと決める。その上で晃にも相談する。対等に」
晃はしばらく黙っていたが、やがてコーヒーカップを置いた。
「……俺も、悪かった。本当は、ずっと謝りたかったんだ。その……言い方が、きつかったって」
晃は目を逸らしながら続けた。
「お前に決めてほしかったのは本当だ。でも……もっと早くから、ちゃんと話し合えばよかった」
「晃……」
「最近、会社でも同じこと言われてる。『言い方がきつい』『説明が足りない』って」
晃は苦笑した。
「お前にも、部下にも……俺、ちゃんと話せてなかったんだな」
由奈は、その言葉に胸が熱くなった。
晃も気づいていたのだ。
「じゃあ……お互い、頑張ろっか」
由奈が笑顔で言うと、晃も小さく笑った。
「ああ。お互いにな」
そして、晃は照れたように付け加えた。
「……ありがとな」
その一言が、由奈には何よりも嬉しかった。
『お互い頑張ろう』
14年前と同じだ。
また、ここから夫婦は始められる。
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