第7話 誰も信じなかった王と、最初の味方になると決めた男①
―――異世界・アルカディア王国 王宮 執務室(現在)―――
シグルは執務室で、山積みの書類と向き合っていた。
今見ているのは、今後数週間の王の予定表だ。后候補リディア、セレス、カリナ、それぞれとの「交流日程」が細かく記されている。
表向きは、たった一人の妃を選ぶための見極め。だが真の目的は、三陣営への牽制だった。
北国、神殿、騎士団――どれか一つに偏れば、残る二つが動き出す。かといって、どの陣営にも「軽んじられた」と思わせるわけにはいかない。選定が終わるまで、この綱渡りを保たねばならない。
シグルは羽根ペンの先で予定表の余白を軽く叩き、ため息をついた。
(陛下は、この意味をご理解いただけるだろうか……)
一方、レオンは椅子に深く体を預けたまま、天井を見上げていた。
后候補たちとの対応も一段落し、ようやく落ち着いたというのに彼の表情は晴れなかった。
「シグル」
「はい」
「お前は、なぜ俺の宰相になった?」
突然振られた予想外の問いに、シグルは一瞬言葉を失った。
「……それは、陛下が信頼に足る方だからです」
「信頼?」
レオンは苦笑を浮かべた。
「俺は……時にお前の期待を裏切るような判断をしてきたかもしれない。それでもお前は俺に仕え続けているだろう」
シグルは静かに書類を机に置いた。
「陛下。私がこの国に来たのは、10年前のことです」
「……」
「覚えておいでですか?」
「いや」
レオンは表情を曇らせ、正直に首を振った。
「当時の俺は……誰も信用していなかった。周囲は権力欲に塗れた貴族ばかりで、父上ですら信じることはできなかった。だから部下の顔も名も、ほとんど覚えようとしなかった」
レオンは自嘲気味に笑った。
「だから、お前がどんな想いで俺に仕えてくれたのか……まったく覚えていない」
「構いません」
シグルは穏やかに微笑んだ。
「では、お話しいたしましょう。私が陛下に人生を賭けた、あの日のことを」
***
―――アルカディア王国 王宮 (10年前)―――
当時、シグルはまだ若く官僚として王宮に仕えて日が浅かった。
出身は没落貴族の家系。
実家の借金を返すため必死に働いていたが、決断力に欠ける自分に彼はいつも負い目を感じていた。
「シグル殿、この案件ですが……」
「ああ、それは……その、もう少し検討を……」
「またその曖昧な返事か」
「いつも答えがあやふやだよな」
同僚たちの冷たい視線が痛かった。
(どうすればいいんだ。どちらを選んでも誰かが損をするか誰かを傷つける)
シグルは選択すること自体が怖かった。
そんなある日、若き日のレオンハルトと出会った。
当時のレオンは17歳。
まだ王太子だった彼は、父王に命じられ、北方の反乱鎮圧に向かうところだった。
しかし宮廷では、レオンハルトの評判は芳しくなかった。
「殿下は誰とも打ち解けない」
「貴族たちを信用していないようだ」
「あの冷たさでは、いずれ孤立する」
そんな噂ばかりが飛び交っていた。
誰もが自分の利益のために動く王太子。
そう信じて疑わなかったからだ。
実際、レオンは部下たちの名前すら覚えようとしなかった。
「お前が、今回の兵站担当か」
レオンはシグルを一瞥すると、机に地図を乱雑に広げた。
その目には、部下を見る温かさなど欠片もなかった。
『また使い捨てのつまらない駒か』
レオンの表情は、そう語っているようだった。
「ここから北へ向かう。補給路は二つ。東回りと西回りだ」
シグルはレオンが指した地域を見つめ、凍りついた。
東回りは安全だが、時間がかかり、反乱軍に逃げられる可能性が高い。
西回りは近いが、険しい山道で冬季は危険極まりない。
それ故、寒さに慣れない兵士は身動きすら取れないだろう。
「お前はどちらを選ぶ?」
レオンの問いに、シグルの口は開かなかった。
「そ、その……両方に利点と欠点が……」
「要点だけ言え」
レオンの声は冷たかった。
「えっと、その……」
「つまり、お前は決められないということか」
シグルは唇を噛んだ。
「……も、申し訳ございません」
「——ならば俺が決める」
レオンは迷いなく西回りの道を指さした。
まるでシグルの意見など、最初から聞く気がなかったかのように。
「こちらで行く」
「!? 殿下! そこの西回りは雪崩の危険が——」
「知っている」
レオンは淡々と答えた。
「だが反乱軍を逃がせば、民が苦しむ期間が長引く。危険を取るのは俺たち兵だ。民ではない」
とても不器用で素っ気ない言い方だった。
しかし、その言葉の奥にあるものは——
『王たるものは民を守りぬく義務がある』
『そのためなら、自分が危険を引き受ける』
レオンは迷わず、即座に最も困難な道を選んだ。
それでも、この若き王太子は、確かに民を想っていた。
(この人は……)
シグルは、思わず息を詰めた。
決断の重さを知っている。
そして、その重さを一人で背負おうとしている。
「……では、今から補給の手配を——」
「お前は来なくていい」
「え?」
「決断できない者を、危険な道に連れて行く理由などない」
レオンの言葉は冷徹だった。
『こいつは使えない。それだけだ』
レオンはそう言わんばかりに、シグルに目線を合わせることなく部屋を出て行った。
シグルは、屈辱に顔を伏せた。
(ああ……また、選ぶことから私は逃げたのか)
しかし同時に、シグルは気づいてしまった。
(あの方は、誰も信じていない)
レオンの目に映っていたのは、シグルという個人ではなく、「決断できない無能な駒」という記号だけだった。
それでも――と、シグルは思う。
危険を取るのは兵で、民ではない。そう言い切って、迷わず最も険しい道を選んだあの姿。誰も信じていないのに、守るものだけは、間違えなかった。
もし、この人が誰かを信じられるようになったら――
もし、この人が心を開ける相手を持てたら――
この人はどれほどの王に、なるのだろう。
その夜、シグルは一睡もできなかった。
翌朝、彼は上司に願い出た。
「私も、西回りに同行させてください」
「何を言っている。お前は補給担当だ。前線に出る必要はない」
「それでも……!」
シグルは頭を下げた。
「私は……決断から逃げ続けてきました。しかし、殿下は違う。誰よりも重い選択を、迷わず引き受けられた」
「だから?」
「だから、私も行きます。殿下が選んだ道を、私も見届けたい」
結局、シグルは強引に同行を認めさせた。
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