第9話 それ、消さなきゃいけないの?
店を出ると、彼が展望台に行こうと言い出した。
来た道を戻り、ケーブルカーの停留所まで行くとすぐその先だった。
階段を上ると四方に視界が開けた。闇の中に黄色やオレンジ色の光が溶け込んでいる。何だか優しい光だと思った。ギラギラとがっていなくて、一つ一つが誰かの生活の灯なんだと思えた。
「ここ、好きなんです」
彼が柵にもたれて言った。
「何度見ても、人生がちょっとましに思える」
「そんな言い方……」
「きれいごとより信用できるでしょ」
私が答える代わりに、風がそよと吹いていった。
「……大丈夫?」
彼が私を見つめた。店を出た後、ちゃんと顔を合わせたのは初めてだった。もしかして、見ないようにしてくれていたのかもしれない。
「はい」
「うそでしょ」
「そんなこと」
「大丈夫じゃないって顔してる」
ぐっと詰まった私は、自分から目を逸らした。
「……母のこと、思い出しました」
「お母さん?」
「はい。……ずっと厳しい母で、自分の思い通りにならないと泣きわめくような人で、そのせいで諦めてきたものがいっぱいあって……」
私は遠くに揺れる小さい灯を見つめた。
「ずっと嫌いで、憎んでいたのかもしれません。でも、ファドを聴いてたら……私、母の好きなもの何も知らないって」
せっかく乾いた瞳が、また潤んできた。
「私……母が死んだとき思ったんです。ああこれで、楽になれるって。涙もあんまり出なかった。やってもらったことも、いっぱいあるのに……」
「真理さん……」
「ひどい娘なんです。感謝していることもあるけど、やっぱり自分は母の被害者なんだって思ってる。憎む気持ちも全然消えない……」
鼻をすすりながら、私は止まらなくなった。
「いろんなこと我慢してきて、友達との旅行も、彼氏を作ることも、結婚も出産も、全部全部我慢してきて――」
嗚咽で、息が苦しくなった。
「友達からメールが来るたび、年賀状を見るたび、羨ましくて仕方なかった。みんなどんどん先に行って、私だけ、取り残されて――」
「……真理」
猶も続けようとした私を、突然力強い腕が包みこんだ。すすり上げた鼻に、爽やかな柑橘系の香りが混じった。ああ、この香りだ。エヴォラの車内にもほのかに香っていた。彼の香りだ。頬に硬い胸板があたった。細いのに、やはり男の人なんだと思った。
「……嫌なら、押しのけて」
彼が囁いた。でも私は頭を横に振って、迷いながらも、彼のシャツをそっと掴んだ。誰かに抱きしめられた記憶なんてなかった。全く嫌じゃない。私はそのまま、動こうとはしなかった。
「……前に、ファドを聴いて僕も泣いたって言ったでしょ?」
私は声を出さずに頷いた。
「よくわからないけど、多分心にしまっていたもの、出しちゃうのがファドなんじゃないかって」
言いながら、彼は温かい手を私の頭にそっと置いた。
「真理もそれ、今まで人に言えなかったんじゃないかな。……でも、一度全部吐き出して、ああ自分はこんなこと考えてたんだなって認めて、そうしなきゃ先に進めないこともあると思う」
「でも……」
「うん?」
「……私、母を憎む気持ちが消えない……」
少し間があいた。なんて薄情な人間なのかと、呆れられたのかもしれない。嫌われたくないのに。冷たい汗が背を伝って、私は身を強ばらせた。
「……それ、消さなきゃいけないの?」
「え……?」
「お母さんを憎む気持ちと、感謝している気持ち、どっちも真理にとってのほんとうなんでしょ。だったら……両方持ってればいいと思う」
私はうまく理解できないまま、おずおずと顔を上げた。
「両方……?」
「うん。それに……」
彼の穏やかな瞳が、ふっと弧を描いた。
「そんなに悩んでる時点で、真理はお母さんを大切にしてた。……それは、伝わってたと思う」
彼の言葉がストンと頭の中で意味をもったとたん、私の涙腺は決壊した。彼から目を逸らすこともできないまま、子どもみたいに涙で顔を歪めた私を見て、彼は困ったように笑った。そしてそのまま、もう一度ふわりと私を包み込んだ。
帰り道、ケーブルカーには乗らなかった。
脇の急な坂道にはわずかな街灯しかなく、先の見えないほの暗さに、私は思わず足を止めた。彼は無言ですっと私の手をとった。私はその手を離さなかった。彼の大きな手に、私の手がすっぽりと包まれたのが嬉しかった。重たい夜の風を感じながら、じきに広場が見えてきた。もっと先なら良かったのに、と思った自分を、私は素直に受け入れていた。




