第8話 ファドの向こうに
約束の十分前にロビーに降りると、彼はもう来ていた。
細かいストライプの入った白いシャツと黒いスラックス。ソファに腰掛けている彼が、やけに眩しく見えた。
すぐに私に気づいて彼は片手をあげた。
立ち上がるとサングラスをとって、なぜか嬉しそうに目を細めた。
「綺麗ですね」
私は戸惑った。結局選んだのは深い葡萄色の落ち着いたワンピースだった。
「私が?」
「はい。今日は特に綺麗です」
私は口ごもった。軽い。きっと言い慣れているのね。私は恥ずかしさを隠すために彼を悪者にした。
「行きましょう」
彼が玄関に向かって歩き出した。レストランの入口に立つ、あの老紳士と目が合った。彼は微笑を崩さぬまま、パチンとウインクをしてみせた。
広場で車を降り、ケーブルカーに乗って坂を上がった。暮れきらない空の下に街灯が灯り、昼さながらの明るさだった。途切れない人の波が熱気となって押し寄せてきた。私は傍らの教会に気を取られ、向かいから来た男とぶつかりそうになった。強いアルコールの匂いがした。身構えた私の肩を、彼がすっと引き寄せた。
「大丈夫?」
耳元の声に、私は少し大げさに頭を振った。
「もうそこだから」
肩から手を放すと、彼は先の小路に顔を向けた。
小路に入ると、さっきまでの喧噪が遠のいた。暗い石畳の先に琥珀色の灯りが滲んでいる。開いた扉の先から、低いギターの音が流れてきた。明るくてモダンな内装だった。薄暗くて重厚な雰囲気を想像していた私は少し拍子抜けしたが、同時に強ばっていた肩の力を抜くことができた。
「料理が先にきて、途中からファドが始まるんです」
向かいの席に座った彼が言った。
「コースで頼んでるけど、ワインは、飲める?」
「あまり強くはないですけど」
「じゃあ、僕のおすすめで」
しばらくしてグラスに注がれたのは、薄い緑色のワインだった。
「ヴィーニョ・ヴェルデって言います。緑のワインっていう意味。僕これ好きなんです」
青い葡萄の香りがした。軽い気泡を含んだ酸味が、心地よい刺激とともに喉を降りてきた。
「おいしいです」
「そう?よかった」
目尻を下げた彼を見て、私の心臓は少し早くなった。彼はハンサムだ。それは空港で会った時から知っている。でも今夜は、長くしなやかな指やシャツから覗く鎖骨に妙に目がいってしまう。
きっと、この雰囲気のせいよ。私は心の中でそう言って、ワインを口に含んだ。
小一時間ほど過ぎたころに、ファドのステージが始まった。
ギター演奏の三人が席に着くと照明が落とされ、黒い服を着た若い女性が静かに歩み出てきた。話し声や食器の音は遠ざかり、皆が体の向きを変えて彼女を見つめた。
爪でひっかくようなギターの音に、女性の芯のある歌声がのった。大げさに口を開けているわけでもないのに、ずしりと重みをもった声だった。
言葉はわからないのに、生々しい声に直接語りかけられているようで、一曲終わると私はほっと息をついた。
薄明かりの中で彼と目が合った気がしたが、表情はわからなかった。彼はどんな気持ちでこれを聞いているのだろう、と思った。
歌い手の二人目は男性だった。少し明るい曲調のものもあり、私は他の客と同じようにデザートを食べながら聴いていた。
最後に黒いショールをまとった初老の女性が、伏し目がちにゆっくりと歩み出てきた。彼女の後ろに映し出された濃い影に、私はなぜかドキリとした。
彼女の少し掠れた声は、私の肌を通り越して中にまで入り込んできた。哀しげにゆがんだ顔。絞り出される声。何かを求めるように天に突き出された手――それは何を掴もうとしているのだろう。
視界が徐々に滲んできた。
私の人生には、いったい何が残っているのだろう。
すべて母のせいだと思ってきた。でもその母は?母の人生を考えたことなどあったろうか。
あの人は偏屈な性格のせいで友達もほぼいなかった。旅行に行くこともなかった。いつも家にいて、家事をこなし、家族を支配することが彼女の人生だった。
どこか行きたい場所はなかったのだろうか。好きな食べ物は何だろう。
私は、何も思い出せなかった。そのはずだ。知ろうともしなかったのだから。
どんなに遅くなっても、必ず夕食が用意されていた。それが友人や会社での付き合いの邪魔になると、私はいつも不満だった。でもある日、焼き魚はすべてほぐし身になって置かれていた。魚の食べ方の汚い娘のために。
歌声は、もう入ってこなかった。頬から顎まで垂れてきた涙を手の甲でぬぐいながら、私は室内が薄暗いことに安堵した。向かいに座る彼の指先が、そっと私の前に真新しいナプキンを置いた。彼は何も言わなかった。でも、「ここなら、泣いてもいいんだよ」 という言葉が、暗闇の中で静かに私に囁いているような気がしていた。




