第7話 宵を待つ
目を覚ますと、カーテンの隙間から白い光が細く差し込んでいた。
ぼんやりと天井を見つめる。昨日の記憶が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
エヴォラ。
石畳。灼けつく太陽と乾いた空気。ローマ神殿。
そして、車の中の静かな時間。
私は寝返りを打って枕に顔を埋めた。シーツはひんやりしているのに、胸の奥だけが妙に落ち着かなかった。
こんなふうに、誰かとの時間を何度も思い返すことなんて、あっただろうか。
携帯を手に取る。時刻はまだ七時前だった。日本にいた頃なら、休日でももう起きている時間だ。けれど今日は、急いで起き上がる理由が見つからなかった。
窓の外では、リスボンの朝がゆっくり動き始めていた。遠くで車の走る音がした。
朝食をとっていると、LINEの新規通知がきた。
私は口に含んでいたパンをごくりと飲み込むと、おしぼりで手を拭いて携帯を取った。
彼からだった。
レストランの予約がとれたので、午後八時にホテルに迎えに行くと書いてあった。
何度も読んでから、「承知しました。よろしくお願いします」と返した。送信を押した後で、何だか業務連絡みたいだと思った。もっとくだけた方が良かっただろうか。
彼は最初から「佐伯さん」ではなく「真理さん」と呼んだ。私は「細川さん」と呼んだ。それが礼儀だと思っていたから。でも彼は「悠真で。細川さんは僕って感じがしないから」とちょっと寂しそうに笑った。敬語も少しずつ崩れてきた。「無理しないでください」が「無理してるでしょ」になった。私はそのたびに少し驚き、少し腹を立て、少し救われた。
この日、私はロカ岬に行く計画を立てていた。待ち合わせまでにはじゅうぶん間に合う。でも私はリスボン市内に行き先を変えた。仕事も旅行も、事前の計画通りに進めるのが自分だったのに。もっとこの街に流れる時間を感じたかった。
どこに行こう。
何だか少し心が躍っていた。
私は部屋に戻って両手で窓を開けた。街路樹の緑と強烈な日射しが広がった。乾いた風が、少し青臭い葉の匂いを運んできた。からっとした暑さは良いとして、リスボンの日射しはとにかくあなどれない。日本とは光の色も違うし、無数の細い針のように、出ているところを容赦なく刺してくる。ガイドブックをめくりながら、やはり室内中心の観光にしようと決めた。余計な日焼けはしたくなかった。
その後美術館や博物館を巡って、私は少し遅い昼食をとった。ポルトガルに来たら食べたいと思っていた郷土料理はたくさんあった。でも私はすぐにそれを断念した。料理はほぼ大皿で、ひとりの私が簡単に味わえるものはなかった。ここでも日本とさして変わらないサンドイッチとコーヒーが、私のランチの定番となった。
カフェの向かいにはレストランがあり、道にはみ出したオープンテラスで大勢の西洋人が昼食をとっていた。ほろ酔い気分で大はしゃぎで、私は胡乱な目を向けた。テーブルの上にはバカリャウ料理やリゾットなど、大皿料理がこれでもかと並んでいる。その中の一つに、私の目は釘つけになった。
サルディーニャス・アサーダス。鰯の塩焼きだ。縦列駐車よろしく五尾の鰯が規則正しく並んでいた。
私は魚の食べ方が汚い。母がそう言った。
幼い頃から教わったが、一向に母が満足するレベルには達しなかった。魚も満足に食べられない女はお嫁にもいけないそうだ。
大学に行っても就職しても、私は決して外で魚を食べなかった。刺身や切り身は別だ。頭と内臓を持った魚は、いつしかその澱んだ目で私を睨むようになった。
見つめる先で、一人が鰯を手に取った。どうやって食べるのだろうか。
男は両手で掴んで、腹めがけてかぶりついた。
汚い。
私はふっと顔を背けた。
メトロを乗り継いで、私は早めにホテルに戻ることにした。たくさん汗をかいたし、シャワーを浴びて着替えたかった。
ホテルに戻ると、レストランの入口にはあの老紳士が立っていた。彼は淡い笑顔で近づくと、何やら話しかけてきた。英語だった。
どうやら、今日からフルーツポンチの果物の種類が変わるらしい。スイカが加わるそうだ。私は丁寧にお礼を言って、「今日は行けないわ」と伝えた。彼は頷くと、「またいつでも」と微笑んだ。
本当はすぐにでも味わいたかった。でも今夜はだめだ。何を着ていこうか。ファドだから少しはドレッシーにした方が良いだろうか。
まだまだ外は明るい。でも私の心はその先の宵闇に向けて動き出していた。




