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第6話 私、空っぽなんです

「少しは、涼しくなってきたかな」


 彼は炭酸水をぐいと飲んで首を後ろにそらした。

 私たちが座るベンチの前には、ローマ時代の巨大な神殿がそびえ立っていた。コリント式の太い柱は、ここでは少し不釣り合いなくらい大きく見える。

 午後六時をまわったところだった。日没にはまだ早いが、陽の光は細くなり、乾いた風はわずかに湿り気を帯びてきた。


「けっこう歩きましたね」


 彼が明るく言った。


「こういう所に来ると、日頃の運動不足を実感しますよ」


 つられて私も微笑んだ。優雅な中庭レストランで昼食を取り、美術館や大学、教会をめぐった。途中でカフェやジェラートを楽しんだが、それでも石畳の続く坂道は途中から苦行になった。


「あの人骨堂……」


 私は水を一口飲んで切り出した。


「人の骨を装飾みたいに敷き詰めて……あの中で瞑想するってびっくりしました」


「そうですね。やっぱり日本人とは感覚が違うんですかね」


「私だったら……骨の中でなんて落ち着いていられません」


 もし母の骨に見つめられていたら。考えただけで背筋が寒くなった。


「大聖堂で……」


 彼が珍しく言いよどんでいた。


「また困った顔をしてました。……空港みたいに」


「わかりました?」


 彼はふっと口角を上げた。


「はい。同じ顔でした」


「……わからなかったんです。何を祈ったらいいか。私の望みって、何だろうって」


「望み?」


「はい。これからの、望み」


 彼がじっとこちらを見つめていた。


「私、空っぽなんです。母の介護を終えて、いつのまにか十年経ってて、色んなことを我慢してきて……気づいたら何も残ってなかった」


 言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。私は視線を落とした。石畳はまだ昼間の熱を残している。


「……すみません。変な話」


「変な話じゃないですよ」


 彼の声は静かだった。


「むしろ、よくここまで頑張ってきましたね」


 その言葉に、なぜか私はすぐに反応できなかった。

 太い円柱の隙間から、夕闇が静かに街を侵食していく。私たちは口を閉ざしたまま、まだ昼の熱をはらんだ風を受けていた。


 リスボンへの帰り道、私はうかつにも寝てしまった。


「真理さん」


 低い声がして、同時に肩にそっと温かい手が触れた。私は驚いて跳ね起きた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。視界がクリアになるにつれ、彼の端正な横顔と、車内に香るほのかな柑橘系の香りが、私を現実へと引き戻した。


「着きましたよ」


 少し申し訳なさそうに、彼が言った。


「すみません!私、寝てしまって……」


「いえ、疲れてたんでしょう」


 狼狽する私に、彼は柔らかい笑顔を向けてきた。いつの間にか、ホテルの前に着いていた。


「本当にすみません。運転してもらっているのに、隣で寝るなんて」


 乱れた髪の毛をなでつけながら、私は頭を下げた。


「本当に大丈夫ですから。そんなにしないで」


 彼は本当に気にしてなさそうに、ドアに手をかけた。

 私も慌ててシートベルトを外して車から降りた。


「今日は本当にありがとうございました。すごく楽しかったです」


「僕もです。……あの、もし良かったらなんですけど」


 彼が一呼吸おいた。


「明日の夜、ファドを聴きに行きませんか?」


「ファド」


 私は繰り返した。


「貴女にも、聴いてほしいと思って」


 彼の瞳がいつもと違って見えた。穏やかだが、じっと私をとらえて離さない、熱を帯びた光がそこにあった。


「行きたいです」


 考えるより先に、口が動いていた。


「良かった。じゃあまた明日」


 彼はほっとしたように表情を崩した。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 彼の車が視界から消えても、私はしばらくそこに立ち尽くしていた。


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