第5話 十八年前の約束
目覚ましのコールよりもずっと早く目が覚めた。
気づけば、私は鏡の前に立っていた。
濃い青色のテーパードパンツに合わせた白のブラウスは、背中で紐を結ぶスタイルだ。若作りじゃないだろうか。しばし悩んで考えるのをやめた。
紺地に白いラインの入った踵の低いローファーは、長時間歩いても痛くならない自信がある。青みがかったローズの口紅がはみ出しそうになった。手が震えている。理由を深く問うことは放棄した。
八時少し前にホテルの玄関から出ると、見覚えのある濃紺の車がとまっていた。磨かれたボディーが強い日射しを跳ね返していた。彼が降りてきた。細身のスラックスに青いシャツ、サングラスをかけていた。その姿を見て一瞬うろたえた表情を悟られないように、私は軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます。すごく晴れましたね」
言いながらさりげなく、彼は助手席のドアを開けた。
「昨夜はよく眠れました?」
車を一度Uターンさせて彼は言った。
「はい」
「そう?それは良かった」
少し含みのある言い方に聞こえて、私は返事に困った。本当はあまり眠れなかった。それを知られたのだろうか。私の戸惑いに気づいたのかどうか、彼は少しだけ口元を緩めた。
「道が混んでなければ、一時間半もかからないと思います」
彼は前を向くと、静かにハンドルを切った。
会わなかった二日間の旅を報告しているうちに、時間はすぐに過ぎていった。彼は時折こちらを見ながら、笑ったり驚いたり眉をひそめたりした。
やがて乾いた景色が窓の外に広がってきた。風に揺れるオリーブの葉がじりじりと日射しに灼かれ、白い家がぽつぽつと見えてきた。
「そろそろエヴォラです」
バスターミナルを抜け進んでいくと城壁が見えた。街をぐるりと取り巻いている。私たちは広場の近くに車を停め、そこからは歩くことにした。
大通りにはカフェやみやげ物屋があり、すでに観光客が店先を覗いている。店頭にはカラフルな絵皿や小鉢が並んでいた。ガイドブックの中でも特に目立っていた焼き物だ。
「それで、飲むと思います?」
カフェオレボウルより大きな極彩色のマグカップを見つめていた私に、彼が尋ねた。
「……大きすぎますよね?」
「はい。僕、それを見たときからマグカップなのか小物入れなのかわからないんです」
「ポルトガルでは、これが普通とか?」
「いや、そこまで大きいので飲んでる人は見たことないかな」
苦笑する彼を見つめて、私も思わず笑みを漏らした。
店をひやかしながら進んでいくと、大聖堂が見えてきた。正面はまるで要塞のように堅固で、石壁は長い年月を塗り込めたように重々しい。少し背筋を伸ばして、私は彼の後に続いた。
「すごい……」
私は思わず口に出した。
外観からは想像もつかない空間だった。奥行きがとても深い。かまぼこ型の天井の左上にすぐ飛び込んできたのは、巨大なパイプオルガンだった。
少年たちが弾いたオルガン……!
私はのけぞるようにして上を見上げた。
ほとんど宙づりに見えるそれの大きさ、圧迫感は写真とは比較にならなかった。ポルトガル最古のパイプオルガンが、こんなにも綺麗に維持されていることに衝撃を受けた。
「まだ現役らしいですよ」
横にいた彼が言った。
どんな音なんだろう。昔と変わっていないのだろうか。
私は目を閉じた。音色を想像しながら、しばらくそこから動けなかった。
後陣に進むと、八角形のドームの下に礼拝堂があった。とても高い天井に、窓から燦々と降り注ぐ陽の光。どこか異空間に足を踏み入れた気持ちになった。ここでなら、「天使が舞い降りた」と言われても信じるかもしれない。
私は両指を重ねて目を閉じた。信仰しているわけではない。中学高校とカトリックの女子校に通っていた私にとって、それは慣れた所作だった。だが光を遠ざけた視界の中で、私は何を祈ればよいのかわからなかった。少し悩んで、とりあえず旅の安全を祈って目を開けた。
彼は私をせかすこともなく、特に何か言うこともなく静かに佇んでいた。だが私が次に行こうと思うと、それを読んだかのように少し先を歩いた。
階段を上りきったところにあったのは屋上テラス――大聖堂の屋根の上だった。太陽はほぼ真上から容赦なく照りつけ、私は慌ててサングラスを取り出した。背中を太陽に灼かれながら見下ろした礼拝堂の内部には、濃い影が落ちていた。じっと見下ろすのも気が引けて振り返ると、そこにはエヴォラ旧市街の街並みとその背後に広がるくすんだ緑が広がっていた。風はなく、砂っぽい乾いた空気の匂いがした。
あの少年たちも、この光景を見たのだろうか。
遠い海を越えてたどり着いたこの地で、彼らは何を思ったのだろうか。
それはわからない。でも。
私は、この光景を見たかったのかもしれない。
「真理、来たよ」
私は心の中で、十八年前の自分に呟いた。




