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第4話 禁断のフルーツポンチ

 美術館の前で私を降ろすと、彼は手を振って車を走らせていった。遠ざかる車の後ろ姿をしばらく目で追って、私はくるりと踵を返した。

 美術館は明るいクリーム色をしていた。荘厳なたたずまいを想像していた私はちょっと意外に思い、同時にさっき食べたエッグタルトを思い出してしまった。


 中はあまりにも広かった。人もまばらで、他の人の背中越しに展示物を見るなんて無縁の世界だった。私は展示室の中で大きく息を吸い込んだ。誰もいない、誰の視線も気にしない広い空間で、私は久しぶりに思い切り呼吸が出来たように感じた。

 二階に向かうと、ついに私のお目当てが現れた。

 狩野内膳(かのうないぜん)の南蛮屏風。

 日本からの美術品が集められた一室で、それは堂々たる存在感を誇っていた。


 私は知らず息を詰めていた。

 左隻(させき)には異国から旅立つ船と見送りの人々。オリエンタルな雰囲気だ。右隻(うせき)には日本に到着した船。出迎えなのか、黒い服を着た宣教師やねずみ色のフードをかぶった修道士たちが描かれている。人間だけじゃない。ラクダや羽を広げたクジャクもいる。

 私は到着した一行に目を凝らした。細かくて表情ははっきりとはわからない。でもそのひとつひとつに、遠い異国の地にやってきた不安と期待、疲労と焦りのようなものを感じた。少なくとも、喜んでいるようには見えなかった。

 この人たちは、自分の意志でここまで来たのだろうか?

 それとも、誰かに連れられてここまで来たのだろうか?

 ぼんやりと、そんなことを思った。


***

 

 金曜日、私はシントラを訪れた。やはりあの少年たちが訪れた街だ。駅前からバスに乗り、ベーナ宮殿を目指す。宮殿のエントランス前でバスを降りた。すごい人だ。

 突然大きな怒鳴り声が耳を塞いだ。外国人のファミリーが係員に何かをまくしたてている。漏れ聞こえてきた英語から推測するに、どうやら事前予約が必要なことを知らなかったようだ。何事も準備と計画性が大切だ。私は関係ないのに、少し胸をそらして横を通り過ぎた。


 ここからまた小さいバスに乗った。鬱蒼とした木々の間から、奇抜な赤と黄色の建物が現れた。

 バスを降りると、風の中に緑の匂いを強く感じた。街中より涼しいが、空が近くて日射しが肌を刺す。私はバッグの中の帽子に手を伸ばしかけたがやめた。せっかく整えた髪が風をはらんで舞い上がった。短髪を好む母に抗ってきた長い黒髪が、自由を喜んでいるように見えた。

 ここは修道院だった場所を増改築して造られた宮殿らしい。古いものを壊さず、その上から新しいもので覆っていった結果、奇妙なのに不思議と調和した建物になったのだと書いてあった。


 私は地震を生き延びた修道院の回廊から庭を見下ろした。庭も回廊も天井も、昨日訪れたジェロニモス修道院に似ている。豪華さや明るさは見劣りするが、私はここのくすんだアズレージョの青色に吸い込まれた。時間が経っても壊れても、他者に覆われてもそこにあり続ける。奥深いところに息を潜めるように守られている何か。周りのざわめきが遠ざかるのを感じながら、私はそのざらついたタイルにそっと指を這わせた。

 

 その晩、私はまたホテルのバーに足を運んだ。白髪交じりの素敵な紳士が、昨日と変わらない淡い微笑で窓際の席へ導いてくれた。

 私が席に着くやいなや、彼は「Salada de Frutas?」と目を細めた。「Sim」と私も最低限覚えた言葉を返した。

私が頼んだのは酒ではない。サラダ・デ・フルータス。フルーツポンチだ。私の大好物は、哀しい思い出とセットだった。


 小学一年生の時、仲良しの友人の誕生日会に呼ばれた。みかんや桃、白いゼリーやさくらんぼが浮かぶ甘酸っぱい食べ物は、宝石のようにキラキラしていた。私は帰宅して、興奮とともに母に告げた。「初めてあんなにきれいでおいしいものを食べた」と。母の顔色が変わった。そして持っていた布巾を投げつけるように放ると、言った。


「あんな添加物だらけのもの」

「気をつけて食べさせてるのにありがたみをわかってない」

「そんな物を出す友達とはつき合うな」


 何が悪かったのか、私にはよくわからなかった。ただ自分の素敵な体験を、母と共有したいだけだった。そのときの涙のしょっぱさは今も覚えている。そして何があったわけでもなく、その友達とはじきに疎遠になった。


 運ばれてきたフルーツポンチを私はじっと見つめた。イチゴにオレンジ、キウイやパイン、なんとメロンまで入っている。どれもみずみずしい果実で缶詰ではない。スプーンですくって口に運んだ。おいしい。本当においしい。三日連続で同じものを頼む異国の女は珍しいのか、あの紳士と目が合った。彼はにこりと微笑み、私もにこりと微笑み返す。清涼感のあるこくりとしたものが喉に落ちていく。ほのかなアルコールの匂いが強ばった神経を緩めてくれるようだ。だがそこでも私は考えている。「これは缶詰じゃないから、母も怒らないだろうか」と。


 不意に携帯が振動した。LINEの通知に視線が揺れた。彼からだ。

 美術館への車の中で連絡先を交換した。初めての連絡だった。


「明日、八時にホテルまで迎えに行きます。早すぎますか?」


 私はなぜか慌ててスプーンを置いて、両手で携帯を持ち上げた。


「大丈夫です。よろしくお願いします」


 わずかな文字なのに、誤字がないか念入りに確認した。

 すぐに既読がついた。


「了解です。では明日」


 そこにリアクションマークをつけて、私は画面を呆けたように見つめた。そして再び手に取ったスプーンは、さっきまでの余裕を忘れたかのようにせわしなく果物を口に運び続けた。


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