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第3話 ナタとエスプレッソ

 本当に十分もしないうちに、彼がカフェに入ってきた。

 私は立ち上がって頭を下げた。


「すみません、わざわざ」


「いえ、ちょうど近かったので。大丈夫ですか?」


 彼は向かいに座ると、聞き取れない言葉で何かを注文した。


「それで……えっと、名前……」


 困ったように笑う彼に、私は再び頭を下げた。


「すみません。私、佐伯真理と言います」


「マリ……呼びやすくていいですね。どんな漢字ですか?」


「しんりです。……壮大すぎて、おかしいですよね」


 言いながら、口元が少し引きつった。しんりのまり。昔からよくからかわれた。


「そんなこと。貴女の雰囲気によく合ってると思います」


 どういう意味だろう。顔に出たのか、彼がぷっと吹き出した。


「褒めてます」


「褒めてる?」


 私の肩からふっと力がぬけた。

 彼はずっと敬語だった。でも言葉の端々に柔らかさがある。


「ここには、旅行で?」


 すぐに出てきたエスプレッソに砂糖を入れながら、彼が尋ねた。


「はい。溜まった有休を使って」


「お仕事は?」


「会社員です。……メーカーで働いてます」


「ああ、それだと有休取りづらそうですね」


「はい……しかも、中間管理職なんで」


「ああ、一番しんどいやつだ」


 あまりにも素直に言われて、ふっと笑ってしまった。


「経験者みたいですね」


「はい。昔、東京で会社員をしていましたから」


「今はこちらでホテル経営ですよね?」


「はい。……逃げた結果です」


「逃げた?」


 彼がはにかんだように笑った時、甘い匂いが鼻をくすぐった。

 ウェイターがそっと置いたのは、エッグタルトだった。


「どうぞ。ナタは食べておかないと。甘い物はストレスを減らしてくれますしね」


「あ……ありがとうございます」


 ほどよく焦げたパイの中央に、艶のある黄色いクリームが入っていた。誘惑に耐えられず、私はすぐにひと口含んで、思わず黙った。


「おいしいでしょう?」


「……はい。すごく」


「良かった。どこで食べても、それなりにおいしいのがここの魅力です」


 エスプレッソを飲みながら、彼は満足げにこちらを見ていた。私は少し余裕を取り戻して、カフェオレを一口飲んだ。


「あの……細川さんはどうしてポルトガルに?」


「長くなりますよ」


「できるだけ、短くで」


 彼は少し目を細めた。


「親の言うまま東大に行って、一流企業に入りました」


 私は改めて彼を見つめ直した。


「すごいですね」


「そう言われたくて、ずっと頑張っていました」


 彼はそのまま窓の外を見た。


「でも上司がひどくて。まぁ、パワハラですね。眠れなくなって、会社に行けなくなって。朝になるのが怖くて、夜のままでいたかった時期もありました。結婚もしてたんですけど、ほぼ見合いみたいな感じで、妻にも申し訳ないことをしました。結局、離婚しました」


 私は言うべき言葉が見つからなかった。


「全部なくなって、ふらっとヨーロッパを回ったんです。最後に来たのがポルトガルでした。そこで、ある店でファドを聞いて」


「ファド」


「はい。意味なんて一つもわからなかったのに、涙がとまらなくなって」


 彼は少し照れたように笑った。


「周りの人たちが、何も聞かずに肩を叩いてくれたり、水を入れてくれたりして。ああ、ここなら泣いてもいいんだなって思ったんです」


 淡々とした言葉だったが、胸の奥が少しきしんだ。

 泣いてもいい場所。

 私には、そんな場所があっただろうか。


「それで、移住を?」


「はい。わりと無茶です。でも、頭は悪くなかったので」


「自分で言います?」


「はい。事実なので」


 気づけば、私は久し振りに声を出して笑っていた。

 この人は軽い。でも決して浅くない。それが少しずつわかってきたような気がした。

「このあと、どうします?」


 しばらくして、仕切り直すように彼が尋ねてきた。


「国立古美術館に、行こうと思って……」


「ああ、そうでしたね。じゃあそこまで送りますよ。車で来てるんで」


「……いいんですか?」


「ええ。さっきのこともあるし、心配でしょう」


「ありがとうございます」


 私はその提案をありがたく受けることにした。


 店を出ると、彼は通りの端に停めてある車へと歩き出した。

 さりげないスマートさで助手席へと促され、私は少し戸惑った。


「ここからならすぐ、五分ほどです」


 そう言って彼はエンジンをかけた。冷房をつけた車内に、ふわりと柑橘系の香りが漂った。

 午後一時を過ぎたところだった。日差しを受けた石畳がキラキラと光っている。七月のリスボンは、暑さよりも日差しの強さが印象的だった。


「いつまでこちらに?」


 前方を見たまま、彼が尋ねた。


「来週の火曜日までです」


「行く場所は、全部計画済みですか?一番行きたいところとか」


「……エヴォラ」


「エヴォラ?」


 彼がちらっとこちらを見た。


「どうしてエヴォラ?」


「……大学の時、日欧の交流史を勉強してて、日本人の少年たちがローマへ行くときに滞在した教会だと知って、ずっと行きたかったんです」


「ああ、なるほど。天正遣欧使節?」


「……はい!ご存じなんですね」


私の返事にはいつになく力がこもり、彼はそれに気づいたのかふっと微笑んだ。


「エヴォラか……」


 彼は少し考えるように前を見た。


「実は、しばらく行ってないんですよね」


「そうなんですか」


「土曜日なら都合がつくんだけど……もし嫌じゃなければ、一緒に行きます?」


 思いがけない提案に、すぐに反応できなかった。


「……いいんですか?」


 自分の声が、少し探るように聞こえた。


「もちろん。僕も久しぶりだし、もしかしたら貴女の方が詳しいかもしれないけど、案内しますよ」


「……ぜひ。お願いします」


 思わず頭を下げた。何だかずっと頭を下げてばかりだと思った。彼は私を見て軽く頷いた。

 心なし上気した頬が気になって、私は横の窓に顔を向けた。青い空や陽光は、車窓からでも日本とは少し違う色に見えた。


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