第2話 空港の名刺
リスボン空港に着いたとき、外は夕暮れだった。
荷物受取所のターンテーブルの前で、私は自分のスーツケースを待っていた。周囲には家族連れやカップルも多く、聞き慣れない言葉が飛び交っていた。空気は乾いていて、私はペットボトルを取り出して一口飲んだ。
自由だった。
怖かった。
二つの想いが同時に胸の中にあった。
落ち着かない気持ちが表れたのか、スーツケースを引き取って出口へ向かおうとした時、車輪が足元に引っかかった。慌てて持ち直そうとして、バランスを崩した。
「大丈夫ですか」
日本語だ。
顔を上げると、若い男性が私のスーツケースを支えてくれていた。
黒髪に薄いグレーのシャツを着ていた。着崩しているようで、不思議と清潔感がある人だった。整った顔立ちも目をひいた。年齢は三十代前半だろうか。日本人だった。
「すみません」
私は慌てて頭を下げた。
「いえ、ポルトガルは初めてですか?」
「……はい。……わかりますか」
「ちょっと困った顔をしていたので」
初対面の相手に失礼な人だと思った。私の困惑をすぐに見抜くなんて。
彼は悪びれずに笑った。人懐っこい、でも押しつけがましくない笑顔だった。
「ホテルまではどうやって?」
「タクシーで行きます」
「それがいいです。メトロはスリが多いので。あ、脅しているわけじゃないですけど」
「……ちょっと怖くなりました」
思わずそう言うと、彼は声を出して笑った。
「正直でいいですね」
正直。そんな風に言われたのは初めてかもしれない。ポーカーフェイスとか、何を考えているかわからない、という言葉は聞き慣れているが。
言葉に困っていると、彼は名刺を一枚差し出した。
「僕、リスボンで小さいホテルをやっています。主に日本の方が多い宿です。何か困ったら連絡してください。営業半分、親切半分です」
名刺には、“Casa das Janelas”とあった。手触りの良い、しっかりとした紙だ。下に日本語で、小さく名前が書かれている。
細川悠真。
「細川さん」
「悠真でいいですよ。……あ、いきなりは変ですね。細川で」
言葉も笑顔も軽く感じる。でも不思議と嫌ではなかった。
「ありがとうございます」
「いえ、ポルトガルを楽しんでください。最初はちょっと怖いかもしれませんが、いい街です」
彼はそれだけ言うと、あっさり手を振り去っていった。
私はその背中を見送りながら、名刺を斜めがけバッグのポケットにしまった。
きっと連絡することはないだろう。
そう思った。
***
その夜、リベルダーデ通りに面した瀟洒なホテルの部屋で、私は泣いた。
何かがあったわけではなかった。だがシャワーを浴び、ベッドに座り、窓の外から聞こえる知らない街のざわめきを聞いていたら、突然涙が出てきた。
誰も私を呼ばない。
母の「ちょっと来て」という声もない。
薬の時間を気にすることもない。
自由だった。
その自由が、なぜか熱いものとともに喉元までせり上がってきた。
ずっと望んできた自由は、嬉しくて、苦かった。
翌朝、朝食を食べた私は街歩きを楽しんだ後、ラパ地区の高台にある国立古美術館に行くことにした。
トラムに乗り、入口近くで立っていた時、突然強烈な力でバッグごと押さえつけられた。見ると浅黒い肌の若い女が、寄りかかるふりをして全身の力でのしかかっていた。細い女だった。だが押し返そうとしても、隙間なく肌を密着させて微動だにしない。体臭と香水が混じったような蒸れた匂いが鼻をついた。骨張った女の指が、すーっと私のバッグのファスナーを開けていた。
スリだ、と思った。だがそれほど慌てなかった。そこに金銭は入れていない。あるのはラムネとガムだけだ。お菓子も盗むのだろうか。
頭は妙に冷静だったが、その圧迫感に耐えきれず、私は次の停留所で身をよじるようにしてトラムを降りた。ふっと息をついたところで心臓が跳ねた。あの女は降りなかった。だが停留所のベンチ脇にいた大柄な男が、私が歩き出すのと同時に動き始めた。
私は訳もわからないまま小走りになった。後ろの男も少し小走りになった。いつの間にか足音が増えている。まさか、ついてきている。
額に嫌な汗が噴き出した。人気のないところに行ってはいけない。私はひたすらトラムの通り沿いを歩く。母なら言っただろう。「だから、女一人で海外なんて」。私は唇をかんだ。ここまできて、母の言いなりになんてなりたくない。
堅い石畳に足がつっかかりそうになる。汗を拭いながら目立たぬように携帯の地図アプリを覗くが、矢印がぐるぐると回っている。ここがどこかもわからない。どうしよう。どうすれば……。
私はバッグの脇ポケットに手を突っ込んだ。硬い紙が手の先にあたった。昨日もらった名刺だ。あの人は、連絡していいと言っていた。でもそんなの多分社交辞令だ。
冷たい汗が頬を伝った。私は歩みを止めないまま、震える指先に力をこめて携帯の数字を押した。
「Casa das Janelas, boa tarde……」
落ち着いた男の声だった。
「あっ、あのっ!」
焦って日本語が飛び出した。
「あのっ、私、昨日空港で会った……」
わずかに沈黙があった。
「……ああ、はい。細川です。早速ご連絡ありがとうございます」
「いえっあのっ!助けてください!」
一拍の間があいた。
「……どういう状況ですか?」
空港での軽い口調が嘘のように、低く、圧のある声だった。その響きに、私の粟立った頭が少し冷えた。
「あの、トラムでスリに狙われて、停留所で降りたらつけられてる気がして……でもよくわからない」
「停留所って、どこですか?」
「多分、サントスです。コメルシオ広場から国立古美術館に行くつもりでした。でも自信ないです」
「落ち着いて。後ろ見ないでそのまま歩いて」
「はい……」
「トラムって何番?十五番?」
「はい、そうです」
「停留所降りて、進行方向に歩いてる?それとも戻ってる?」
「戻ってます」
「川見える?」
「はい」
「線路沿い?」
「はい」
「人通りは?」
「あります」
「よし、じゃあそのまま歩いて」
彼の声は落ち着いていた。
「焦らなくていい。今どこにいるかはだいたいわかったから」
私は背後の気配に気を取られながらも、思わず足を止めそうになった。
「本当ですか」
「うん。だから聞いて。右でも左でもいいから、今見えてる店に入って」
「店……」
「カフェでもレストランでもいい」
私は周囲を見回した。
線路の向こうに青い看板が見えた。テラス席に数人座っている。
「青い看板のカフェがあります」
「そこ」
「え?」
「そこに入って。奥の席に座って」
「でも……」
「大丈夫」
穏やかな、でもぶれない声だった。
「もし本当につけてるなら、人目のある店には入りたがらない」
「……わかりました」
「今から行きます」
「えっ?」
私は大きな声を出しかけて口元を覆った。
「十分かからないから、入って待ってて」
「でもお仕事が」
「仕事より先に、迷子の保護でしょ」
少し皮肉っぽい物言いに、空港での彼の表情を思い出した。
「……すみません」
「大丈夫。すぐ行きます」
通話が切れた。見知らぬ異国の街なのに、不思議とさっきまでの息苦しさが少しだけ薄れていた。
私は携帯を耳にあてたまま、青い看板めがけて駆け出した。石畳を蹴るような足音が背後で聞こえたような気もしたが、振り返らなかった。
そのとき、私は一人ではないと思った。まだ名前しか知らないあの人の声が、私の中で静かに響いていた。




