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第1話 誰の娘でもない国へ

 母が死んで半年後、私はポルトガル行きの航空券を買った。


 予約完了の画面が表示された瞬間、胸の中にひやりと冷たいものを覚えた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。指先が、震えていた。


 やってしまった。


 三十八歳にもなって、そう思った自分が情けなかった。だが私はずっと、何かを決める前に母の顔を思い浮かべて生きてきた。


「女が一人で海外なんて」


「その歳で浮かれてみっともない」


「男に隙を見せるな」


 母の声は、もうどこにもない。でも私はいまだにその声に叱られている。


 母は悪い人ではなかった。手作りにこだわった食事を作ってくれた。大学まで学費も出してくれた。幼い頃風邪を引いた時は、つきっきりで看病してくれた。


 でも母は、私が何か新しいものに手を伸ばそうとすると、必ずそれを叩き落とした。自分が未知のものに、娘が関わることを極端に嫌がった。


 寝癖をドライヤーで直しているだけで母は言った。


「色気づいて」


 誰かに綺麗だと言われても母は言った。


「あんたより綺麗な人なんていっぱいいる」


 誰かと付き合いそうになると、母は泣き、怒鳴り、寝込んだ。


「あんな男にだまされて」


「体を許したら終わり」


「結婚もしない男に触らせるなんて汚らわしい」


 私は反抗した。何度もした。そのたびに母の悪態はひどくなった。この世の終わりみたいに泣き叫び、父に訴え、私を加害者にした。


 父はいつも黙っていた。母を止めることも、私をかばうこともしなかった。ときおり、「お母さんは心配しているんだ」。それだけ言った。


 父は私が大学を卒業してまもなく、病気で亡くなった。そこから母と私の二人暮らしが始まり、二十八歳の頃から母の介護が始まった。


 仕事をして、病院に付き添い、数種類の薬を一日分ずつ小分けにした。パキパキという音が、いつしか私の耳から離れなくなった。夜中に起こされ、意味不明の小言を浴びせられ、母が眠るのを待って翌朝また会社に行った。黙々とそれを繰り返し、気づけば十年が過ぎていた。


 私は企業の中間管理職になっていた。元来生真面目で、介護を理由に仕事の手を抜くことはなかった。部下もいて、年収もそれなりにあった。端から見れば、堅実な人生だったと思う。


 だが母の葬儀が終わり、役所の手続きや名義変更、四十九日も経て、部屋に残った私は突然思った。


 私は、何をして生きてきたのだろう。


 何も残っていなかった。思い出はあるのに、自分の人生だったという実感が何もない。恋愛も、結婚も、誰かを好きになる自由さえ、すべてが私のものではなかった。


 ぼんやりとしながら、母の遺品整理を始めた。そのついでに、自分の部屋に長年積んであった本や書類にも手をつけた。溜まった埃に顔をしかめながら薄い雑誌を引き抜いて、私はそのまま動きを止めた。


 ポルトガルを特集した旅行雑誌だった。


 昔、大学の授業で天正遣欧使節のことを詳しく聞いた。飛行機も高速船もない十六世紀に、少年たちが海を越え、遠い異国の教会で祈り、過酷な旅の末に使命を果たしたことになぜか無性に心惹かれた。彼らもまた、国や大人の思惑という、抗えない大きな力に縛られていたからかもしれない。授業のスライドの中で目にとまったのは、エヴォラ大聖堂だった。石造りの堅牢な教会の中に、彼らが弾いたというパイプオルガンが残っていると教授は言った。今もそこに残る彼らの息吹と気配を、自分で感じてみたいと思った。


「ポルトガルに行きたい」


 二十歳の時、母にそう言った。アルバイトで旅費はまかなうし、迷惑はかけないからと。


 母は笑って答えた。


「そんなところへ行って、何になるの」


 母の許可はおりなかった。大げんかをして決行する気力は、帰国後の惨事を思うと出てこなかった。


 だから、今ポルトガルへ行く。


 十八年経って、ようやく私はその国へ向かう。


 母がいない国。


 誰の娘でもない国へ。

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