第10話 窓の館
翌朝、私は朝食をとると、猛然と部屋の整理を始めた。
一週間以上滞在した部屋はそれなりに散らかっていて、いざすべてをスーツケースに戻すとなると結構な時間と知恵がいる。
今日はリスボン最後の夜だ。午後から彼の経営するホテルを訪ねることになった。私はなぜか気が急いていて、忘れ物がないか部屋中を歩き回った。開け放った窓から下をのぞくと、プラタナスの木陰のキオスクで見つめ合っているカップルが見えた。Tシャツ短パン姿の男の子と、赤いキャミソールを着た女の子だった。歳は同じぐらいでお似合いだった。
彼は、多分年下だ。
昨夜のことを思い出していた。突然過去の毒を吐き出した女を、彼は優しく受け止めてくれた。繋いだ手は温かくて、離したくないと思ってしまった。でもあんなにハンサムで、人当たりも良く、頭も良くてどこか品もある。そんな人が、自分など本気で相手にするのだろうか。
踏み込んで拒絶されるくらいなら、最初から踏み込まない方がずっといい。
私はそう思って生きてきた。そこを間違えたら、無傷ではいられない。すぐに立ち直れる若さもない。私は下唇をきゅっと噛むと、静かに窓を閉めた。
車は石畳の細い坂道を上り、落ち着いた住宅街の先で止まった。
そこにあったのは、大きすぎない三階建ての建物だった。クリーム色の壁には、白い漆喰の装飾で縁取られた細長い窓が整然と並んでいた。床近くまであるその窓の前には、黒いアイアンのバルコニーが張り出している。派手さはないのに、落ち着きと品を感じさせるホテルだった。
「すごい。おしゃれなホテル」
「そう?」
彼は顔をほころばせた。
入口のガラス扉を抜けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。ロビーは広くない。でも高い天井と古い木の階段が、この建物の長い時間を物語っていた。受付の背後や壁に填め込まれたアズレージョは、年代を感じさせないほど鮮やかな青だった。
「もとは、十九世紀の貴族の邸宅だったみたい」
彼がさらりと言った。
私はもう一度ロビーをぐるりと見回した。磨かれた大理石や黒光りする古い木の家具。どこか人の暮らしの気配が残っている。絢爛豪華というより、上質なものが大切に手入れされてきた場所だった。
「……なんか、悠真さんっぽいです」
「え、どういう意味?」
「古いもの、大切にしそうだから」
彼はちょっとはにかんだように笑った。
「そうかも。残ってるものを見ると、壊しちゃいけないって思うから」
胸の奥がチクリとした。
優しい人なのね。人にも、ものにも。
そう思うほど、自分だけが特別であるはずもないという思いが、じわりと苦く広がった。
彼の部屋は、想像していたよりずっとゆとりのある造りだった。
「広い……」
思わず漏れた声に、彼がいたずらっぽく笑った。
「僕のお城だから」
リビングには大きなラグに低いソファが置かれ、壁際には古い木の本棚が並んでいた。アイボリーの壁の下半分は深い色のアズレージョだ。観葉植物の葉が午後の日射しを受けて柔らかく光っている。家具はどれも落ち着いたダークブラウンで統一されていたが、いかにも高級品という嫌みはなかった。
開け放たれた大きな窓の向こうには、オレンジ色の屋根の街並みと煌めく青い色が見えた。
「あれは、テージョ川?」
「そう。ここの眺めもなかなかでしょ」
レースのカーテンが風に揺れ、爽やかな香りがかすかにした。
壁際の本棚には、日本語の本と洋書が並んでいた。建築関係の本やポルトガルの写真集、アズレージョの図案集などが差し込まれていた。
「建築の本、多いんですね」
「まぁ、学生時代の名残」
彼はミネラルウォーターの瓶を開けながら言った。
「建築、勉強してたから」
「えっ?」
「そんな驚く?」
「いえ……なんか、ホテル経営者って感じだったから」
「半々かな。改修とか内装とか、結局自分で口出しちゃうし」
瓶を両手に苦笑しながら、彼は私をバルコニーの方に促した。
バルコニーには白くて丸いテーブルと椅子が二脚置かれていた。猫足を持つアンティークだ。鉄とは思えないほどしなやかな黒い柵には植物を思わせる曲線が絡み合い、せり出した漆喰の庇が柔らかな影を落としている。窓の両脇には繊細なレリーフが浮き出し、バルコニーそのものが一つの芸術品のようだった。
「……だから、窓の館」
「え?」
「調べたんです。Casa das Janelas、窓の館って」
「ああ」
彼は少し嬉しそうに微笑んだ。
「昔から、この窓が有名だったみたい」
彼は黒いアイアンの柵に軽く触れた。
「高台からテージョ川を臨むこの窓を見て、“窓の館”って呼ぶ人がいたみたいでね。改修はしても、その名前は残したかった」
「……その気持ち、わかります。すごく素敵なバルコニー」
私は柵に手を添えて、立ったまま景色を見つめた。高台から見えるテージョ川は、海のように大きかった。街中より少し冷えた風が心地よかった。
風で乱れた髪を掻き上げると、彼が何気なく言った。
「綺麗だね」
私は体を強ばらせた。
「あ……景色が」
彼が私を見た。
「どっちも」
心臓が、変な音を立てた。私は笑ってごまかそうとした。
「私より綺麗な人なんて、いくらでも」
言ってから、自分を母と重ねた。
彼は少し眉をよせた。
「それ、誰の言葉?」
私はすぐには答えられなかった。
「真理の言葉じゃない気がする」
私は涙が出そうになって、急いで川の方を向いた。
まだ空には青さが残るなか、私たちは中庭のレストランで夕食をとった。
足元のモザイク調の石畳が、間接照明に浮かび上がっていた。テーブルの上では小さなキャンドルが揺れていて、レモンのような爽やかな香りが夜風に溶けていった。ゆるやかに流れる音楽はファドのようだが、よくわからない。
黒いベスト姿の男性スタッフが席まで案内してくれた。礼節のある仕草の中にも、彼に向ける笑顔には特別な親しさがあるようだった。
「ここ、夜になると風が気持ちいいんだ」
彼がワインを傾けながら言った。
「夏でも?」
「うん。昼は暑いけど、夜はちゃんと冷える」
私はグラスを持ったまま中庭を見回した。蔦に覆われた壁が、照明を受けて静かに浮かび上がっていた。
前菜を置いたスタッフは、髪をポニーテールに結った若い女の子だった。彼女は私を一瞥すると、彼にはぱっと花がほころぶような笑顔を向けた。私はじっと彼女の後ろ姿を目で追った。
似合わないと、思われたのかもしれない。
ホテルの窓から見下ろしたカップルの姿が蘇った。
「真理?」
彼の声で我に返った。
「どうかした?もう酔った?」
茶目っ気を込めて笑う彼が眩しく見えた。
「……何か、不思議」
デザートの後のエスプレッソを飲みながら、私は呟いた。
「何が?」
彼がすかさず訊いてくる。この人は私の小さな呟きも逃さない。それが少し面倒で、くすぐったい。
「外国にいる感じが、あんまりしなくて」
彼はカップをソーサーに戻して少し笑った。
「真理、順応早いんじゃない?」
「そんなこと」
私はちょっとだけむきになった。よりによって、こんな堅物の私を相手に、と思った。
「でも最初会った時より、今の方がずっと柔らかい顔してる」
彼のまっすぐな言葉に、私は口ごもった。空港で、私はいったいどんな顔をしていたのだろう。風に揺れる葉の音が妙に耳に障った。
「……この後」
「はい」
「まだ時間あるけど、部屋で飲み直す?」
彼の目を見てドキリとした。まだ青みの残る空にほだされて、でも時間だけは確実に経っていた。これから彼の部屋に戻れば、夜はもっと深くなる。それは、そういう意味なのだろうか。
「はい」
忙しい頭の中をよそに、即答した自分の声に驚いた。でも、私は彼の目をまっすぐに見ることができなかった。




