第12話 あなたが、好きです
翌朝、空港へ向かう車の中で、私は窓の外を見ていた。
急な坂道。石畳。オレンジ色の屋根と白い壁。遠くには朝陽にきらめくテージョ川。今日で見納めかと思うと、言葉にならない寂しさがこみ上げてきた。
少し前に、彼の車で宿泊していたホテルに戻り、チェックアウトをした。車で待っていた彼は「早かったね」と驚いた。「荷物をまとめてあったから」と言いかけてやめた。彼が微かに笑った気がした。嫌な人。きっとまた私の心を読んだのね。でも腹はたたなかった。察しの良い彼に、慣れてしまったのかもしれない。
「また来ます」
車が動き出すと、彼の横顔に声をかけた。突然言いたくなったのだ。彼は運転席で柔らかく笑った。
「うん」
「逃げるためじゃなくて」
「うん」
「会いに来ます」
信号で車が停まった。そこで初めて彼が私を見た。
「待ってる」
短い言葉だった。でもそれだけで十分だった。
「本当はね……」
再び車は動き出し、彼はまた前を向いて言った。
「空港で、少し前から真理を見てた」
「え?」
「まずは日本人だなって、次はツアーじゃないんだなって思って……でも」
彼はくすっと笑った。
「一番気になったのは顔だった」
「顔?」
「すごく思い詰めた顔で、ターンテーブルを睨んでた」
私は見るともなしに前を行く車のナンバープレートを見つめた。おぼろげな記憶をたどったが、その時の感情は自分でもよくわからなかった。
「この人も何かを抱えてここに来たのかなって見てて……そしたら、真理がこけそうになった」
再び車が停まった。また信号だ。
「でも、今はいい顔してる」
彼がまっすぐに私を見た。喉から熱いものがせり上がってきた。私は泣きそうになって、慌てて反対側の車窓に視線を移した。
それほど時間をかけずに、空港に到着した。
チェックインをして荷物を預けると、出発ロビーまで歩いた。私も彼も言葉は多くなかった。保安検査の入口まで来ると、どちらともなく足を止めた。
「……本当に、色々とありがとうございました」
「うん」
彼が軽く頷いた。
「帰っても、無理しすぎないようにね。ちゃんと寝て、食べて」
「お母さんみたい」
言ってから、自分で驚いた。母という言葉が、自然と出てきたことに。
「あ、最悪の比較された」
ちょっと傷ついたように口を尖らせた彼を見て、私は目尻を下げた。
「また、連絡します」
「うん」
「それじゃあ、これで」
軽く会釈をして、私はそのまま彼を見ないようにして背を向けた。もう一度彼の目を見たら、揺らいでいる心をあらわに見せてしまうと思った。一歩、二歩、背後に彼の視線を感じながら歩き出した。でもそこで、何かを置き忘れたような気持ちで胸がいっぱいになった。たまらなくなって、私は体の向きを変え、足早に彼のもとに戻った。
「あのっ」
勢いづいて戻ってきた私を見て、彼は虚を突かれたように目を見開いた。
「真理?」
「わたし……あなたが好きです」
その言葉だけがするりと口をついて出た。誰かに言わされているのかと思うくらい、何の考えもなかった。でもすぐに理性が追いついた。体中が火照って、額から嫌な汗が噴き出した。
「あっ、あの!」
言い訳しようと口を開きかけて、私は肩に強い力を感じた。そのまま、ほとんど倒れ込むように彼の胸元に押しつけられた。
「真理、かわいすぎるよ」
私をきつく抱きしめながら、彼が絞り出すように言った。
「僕も好き。……大好き」
息苦しいくらい強い力だった。
「真理が人目を気にすると思って触れなかったのに、反則だよ」
困ったように溜息をつくと、彼はゆっくりと私を離した。
「あ……」
私の目は彼のシャツに釘付けになった。白いシャツに、ピンクの唇の跡が艶やかに残っていた。
私の視線を追って下を見た彼が、「はっ」と声を出して笑った。
「これ、次に会う時まで洗わないでおこうかな」
予想の斜め上をいく言葉に、私は口を開けたまま固まった。その顔を見て、彼がまた笑い出した。私も少し遅れて笑った。ほとんど、泣き笑いのように。
初めて、誰かを好きだと言った。
それでも、世界は壊れなかった。
私はもうそのことだけで、夜明けを信じて歩いていける、と思った。




