第13話 夜明け
帰国してから私は、また忙しい日常に戻っていた。
職場には、包装紙にポルトガルの名所が刷り込まれたチョコレートを持っていった。長い休みをもらったにもかかわらず、同僚たちは陽気に迎えてくれた。「顔が明るくなった」なんて言われた時には、長年鍛え上げてきたポーカーフェイスにそっと感謝したりもした。
お盆休みになると、私は少しリッチな食材を扱うスーパーに行った。リンゴとオレンジ、キウイ、メロンとスイカを買った。帰ってきてそれらを細かく刻み、砂糖と炭酸水を入れて、最後に現地で買ってきたポートワインを数滴垂らした。そして冷蔵庫で冷やす間に、母の部屋を片付けることにした。
大まかな整理は終わっていたが、チェストの引き出しなどは手つかずだった。中を探ると、日焼けした和紙に包まれた写真が出てきた。写っていたのは、若き日の父と母だった。海辺で笑っている。私の知らない顔だった。
母にも、自由をほしがった頃があったのかもしれない。
それでも、許せない言葉は消えないし、奪われた時間も戻らない。
でも私は、母を怪物にして終わることも、自分を哀れな娘のままにすることもやめた。
母は母、私は私だ。
その境界線を、三十八年かけてようやく引いた。
私はしばらくその写真を見つめていたが、結局また引き出しに戻した。
冷蔵庫から取り出したフルーツポンチは、ほどよく冷えて甘酸っぱい香りがしていた。私はそれを大きめの器と小さいガラスのコップに入れた。そして居間に入ると、小さいコップを仏壇にそっと置いた。
「……母さん、私ね、本当はフルーツポンチ大好きだったの」
母の遺影はけっこう若い時のものだ。ほとんど外出しなかった母には、年相応のふさわしい写真もなかった。
「これね、ポルトガルのフルーツポンチ。缶詰じゃなくてちゃんと作ったのよ」
上目遣いの母が、こちらを見つめている。
「……きっとおいしいから、食べてね。あ、父さんもね」
少しだけ気詰まりで、私は型どおり手を合わせるとすぐに立ち上がった。
ほのかなワインの香りと炭酸の清涼感が鼻を突き抜けていった。スイカを味わいながら、あのホテルの新しいフルーツポンチはこんな味だったのかしらと思った。旅の香りを堪能しながら、私の目はテーブルの上の極彩色をとらえた。
「それ、買うんですか?」
彼の困惑した声を思い出して、私は思わず笑みを浮かべた。
エヴォラの雑貨店で、彼が用途不明だと言っていた大きなカップを、私はその帰りに購入したのだ。「用途を確認してみようと思って」と言った私に、彼は笑いをこらえながら「まじめ」と呟いた。でも今になっても、私はその中に飲み物を入れることもペンをさすことも出来ないでいる。テーブルの上で、存在感だけが増していくようだ。
私は携帯にふっと目を移した。飛行機会社のホームページで、ポルトガル行きのチケットを検索した。かなり先だが、繁忙期は早めに動くにかぎる。決定ボタンを押そうとして、私は持っていたスプーンを置いた。確認画面を睨みながらも、私の人差し指はもう震えてはいなかった。
無事予約をとると、私は台所の棚の横に掛けてあるカレンダーを取りに行った。母が長年取引していた信用金庫が毎年くれるカレンダーだ。何の絵も写真もない、数字と空欄だけの無機質なカレンダーに予定を書くのが母の日課だった。
私のこれまでの人生も、ずっとそこに記され続けた。私の行動を縛るそれを私はひそかに「悪魔の日めくり帳」と呼んでいた。母が亡くなり、私はそのカレンダーをすぐに処分した。このデジタルの時代に、と思った。でもポルトガルから帰ってきて、私は今年ももらったまま放っておいたカレンダーを引っ張り出した。
そこに予定を書くと、なぜか忘れなかった。変更の多い仕事の管理にはさすがに不向きだが、家の点検や修理、親戚との付き合いなど、日常の大きな出来事がその前を通るたびに目に入る。なかなか理にかなっているかもしれない、と思い始めた。
私は十二月をめくってその日に赤い大きな丸をつけた。
真理、ポルトガルへ(二回目)。
しばらくその文字を見つめていた。
自由も、恋愛も、私にはまだ慣れない。でも、私はもう母のいない国を知っている。
そこで、私は恋をした。
誰かに救われたのではない。
誰かを好きになったことで、私は初めて、自分を救って良いのだと知った。
「私が、決めていいんだよね……」
風もないのに、軒下の風鈴がチリンと鳴った。
完
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
真理と悠真とともにリスボンを歩いてくださった皆さまに、心から感謝いたします。
またどこかでお会いできることを楽しみにしております。




