第11話 リスボンの夜
彼の部屋から見えるテージョ川は、闇の中に眠るように横たわっていた。ただその周りを縁取るように、橋や家屋の灯がぼつぼつと滲んでいた。
「昼とは全然違うでしょ?」
柵の前で並んで立ちながら、彼は少し得意そうに言った。
私は熱を持った頬にそっと触れながら頷いた。
「なんか、ポルトガルの夜景は優しい気がします」
「優しい?」
「はい。ギラギラしてなくて、無理に目立とうとしてないっていうか……」
彼の目尻に皺が寄った。
「それ、ここに来たとき僕も思った。こっちの方がちゃんと息ができるような気がしたし」
「息?」
「うん。向こうだと、ずっと何かに急かされてるみたいでね」
言いながら顔の向きを変えた彼の表情はわからなかった。
「まぁ、逃げただけかもしれないけど」
「そんなこと……」
「期待されるの、昔から苦手だったから。外には出さなかったけどね」
彼はグラスを傾けながら、何かに思いを馳せるように遠くを見つめた。
「ちゃんとしなきゃいけない場所って、言われなくても本能で学習していくんだよね」
胸の鼓動が早くなった。その感覚はよく知っている。母の期待はいつしか見えない枷となって、私の身も心も縛っていた。
私はまた彼の横顔を見つめた。長い睫が、濃い影を落としている。ワインを飲み込んだ瞬間動いた喉仏から、私は目が離せなくなった。
その視線に彼も気づいたようだった。じっと私を見つめると、少し距離をつめて囁いた。
「……キスしていい?」
周りには誰もいないのに、聞き取れるかどうかの小さい声だった。でもその声はこれまでのアルコールをすべて吹き飛ばすくらい、私の感覚を鋭利にした。
「……あの……」
「だめ?」
「訊かれても……」
「じゃ、次からは訊かない」
彼は小さく笑うと、持っていたグラスを後ろ手にテーブルへ置いた。私のグラスまですっと取り上げて、そのまま自由になった手が私の腰を引き寄せた。
近い。
彼の香りと、ワインの香りがふわりと鼻をかすめた。
「……悠真さん」
呼吸の仕方を忘れそうだった。
彼は何も言わなかった。ただ私が逃げないか確かめるかのように、じっと見つめていた。
私はその眼差しに耐えられなくなって目を閉じた。
柔らかいものが唇にそっと触れた。
短いキスだった。でも離れた後も唇に熱が残っているようで、私は言葉もなく彼を見上げた。
彼は淡い笑みを浮かべると、私を抱きしめた。
「明日、帰るんだよね」
「……はい」
「引き留めたいけど」
「……それは……」
顔を見ずとも、彼が苦笑したのがわかった。
「知ってる。そんな真理だから好きになったんだと思う」
彼の手が優しく私の髪を撫でた。私は彼の温かい手が好きだ。ためらいながらも、私も彼の背に手を添えた。彼の鼓動が直に伝わってきた。私はその生々しさに息を詰めた。手だけではない。彼の体もとても温かかった。
「明日は、送ってくよ」
彼は私の耳に囁くと、そっと体を離して穏やかな瞳で笑った。答えようとした唇は、彼のそれで塞がれた。今度のキスは、さっきよりも深くて長かった。
***
シャワーを浴びてリビングに戻った私は、上質なリネンのナイトウェアに身を包んでいた。ソファに座って書類を見ていた彼が顔を上げた。その途端、彼は動きを止めた。
何か変だろうか……。
私の頭の中は緊張でぐるぐると回った。シャワーで冷ましてきた熱が容赦なく戻ってきた。こんなときはどうすれば良いのか。経験のない自分にはわからない。
「……なんか、変ですか?」
勇気をもって口に出した。彼になら、訊く方が正解だと思えたから。
「いや……そうじゃなくて」
彼は目を逸らして言った。
「破壊力、半端なくて」
言われたことを今の自分の姿に重ねて、顔から火が出そうになった。速くなった動悸に少し身をよじった。
「僕も入ってくるから……ゆっくりしてて」
彼はそれだけ言うと、足早に浴室へ去って行った。
シャワーから出てきた彼を見て、私は瞬きを忘れてしまった。
白いTシャツと黒いハーフパンツ姿で、艶のある黒髪はまだ濡れていた。無防備な男性の姿を見るのは初めてで、すぐに私の体はかっと熱くなった。タオルで髪をふきながら私を見た彼が、ふっと足をとめた。
「どうかした?」
私は小刻みに頭を横に振った。
「……さっきの言葉、そのまま返します」
顔を逸らした私の耳に、彼の「ははっ」という明るい笑い声が聞こえた。
「ありがと。気が合うね」
上機嫌でキッチンに向かうと、彼は冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出した。
「真理も飲むよね?水で良い?」
「はい」
彼はさっと蓋を開けると、リビングに戻ってきた。
「はい。じゃ、一本持って」
言われるまま小瓶を受け取ると、彼は空いた手で私の手をとった。
「こっち」
リビングから廊下に出て、突き当たりの部屋に導かれた。
寝室だった。広い部屋に大きなベッドと焦茶色のデスクとチェアが置いてあった。優しいアイボリーの壁と下半分のアズレージョはリビングと同じだ。
中に入るとき、一瞬足がすくんだ。違う世界に踏み込むような気がして、胃がキリッと縮こまった。彼が手を繋いでくれていなかったら、間違いなく立ち止まっていた。彼は慣れているのだろうか。余計な詮索はしたくないのに、胸の奥に燻るものを無理に飲み込んでいる気がした。
「……今、真理が考えてること当ててみようか?」
ベッドに並んで座ると、彼がおもむろに言った。
「今まで、どれだけ女の子を連れ込んだのって?」
図星過ぎて、私は思わず彼を睨むように見てしまった。
「ないよ」
「え?」
「真理が初めて」
「うそ……」
「嘘じゃないって」
「そんなに格好いいのに?」
言ってから恥ずかしくなって、私は思わず口を押さえた。
彼はほどけるように笑った。
「ありがたいけど……格好いいからって派手に遊んでるわけじゃないよ。それに意外と、鏡見たことないだろって奴が無双してたりする」
想像して、私は押さえた手の下でぷっと笑ってしまった。
「それに……」
彼は水を一口飲むと、小さく息をついた。
「言ったでしょ?僕もけっこう色々あったって。こっちに来て挑戦して乗り越えて、遊んでる暇なんてない。ここは僕のお城だからね、誰でも入れるわけじゃないよ」
静かな凜とした声だった。私は膝をそろえて、横にいる彼に体を向けた。
「ごめんなさい。……でも、嬉しい」
彼は微笑んだまま、私の肩をそっと抱いた。
「私……言わなきゃいけないことが……」
言いかけて、言葉が喉に詰まった。
「何?」
自分が唾を飲む音が聞こえた。手が小刻みに震えた。それでもなかなか口を開かない私を、彼は待ってくれた。
「……母に、ずっと言われてて。……結婚しない人と関係を持つなって。……だから……私……この歳なのに、そういう経験がないんです」
言ってしまった。
恥ずかしくて、消えたくなった。
急に周りの音がなくなったように感じた。
ひんやりとした空気が満ちたような気もした。
呆れられただろうか。面倒な女だと思われただろうか。
体を縮こまらせていると、やがて彼はふっと息を吐き、私の肩を強く引き寄せた。私の顔は、彼の胸にすっぽりと包まれた。
「話すの、怖かったでしょ」
予想していた言葉ではなかった。驚きは正直に私の体を震わせた。
「話してくれてありがとう」
私は彼の温かい胸から頬をずらして顔を上げた。
彼の目には、嫌悪も、同情も、からかいもなかった。真剣で、それでいて凪いだ瞳だった。
「それは、真理が悪いことじゃないよ」
胸の奥に何かが落ちた。それが波紋のように広がり、染みて、一気に涙が溢れてきた。唇を引き結んで堪えようとしたが無駄だった。頬を伝った涙が、私のナイトウェアにポツポツと染みを作った。
彼は私の涙を指とティッシュでぬぐいながら、何も言わずにつきあってくれた。ひとしきり泣いた後、彼は私を抱きしめたままポスンとベッドに横になった。
「今日は、こうやって寝よう」
「え?」
「何か期待してた?」
「そんなこと!」
思わず大きな声を出した私に、彼はいたずらっぽく笑った。そのままコツンと額を合わせて、私の瞳をのぞき込むように見た。
「真理、キスも初めてだったでしょ?一度にフルコースは大変すぎるよ」
「……」
「明日帰るのに、立てなくなったら困るしね」
「――!」
私は言葉にならない叫び声をあげて、彼の胸を押し返した。
すぐにわかった。彼はわざと軽口をたたいているのだ。本当に嫌な人。いつでも先回りして、私の気持ちをかき乱してくるなんて。
彼は楽しそうにそれを受け止めながら、力強い腕を私の背に回した。彼の吐息が私の耳にかかった。
「でも、次は逃がさないから」
頭から背筋にぞくりとした衝撃が走った。彼の目には、優しさだけでは説明できない色が浮かんでいた。その眼差しから逃れるように、私はうつむいて彼の胸に頭を押しつけた。
彼の体が、わずかに強ばった。
「真理……」
溜息をつくように、彼が私の名前を呼んだ。
「もしかして、僕の理性を試してる?」
「――そ、そんなこと!」
焦って顔をあげた私を見て、彼は軽やかに笑った。
「真理、“そんなこと”ばっかり言ってる」
体中の血が集まったのではと思うくらい、私の顔は熱くなった。
完全にからかわれている。でも怒る気にはなれなかった。反対に、一層腕の力を強めた彼におとなしく身を預けた。彼の体温の匂いがした。彼の鼓動に合わせて、私の鼓動も少しずつ規則正しくなっていく。
誰かに守られるとはこういうことかと思った。異国の地ではじめて知ってしまったその心地よさを、私はもう手放せないかもしれない。彼のシャツを握りしめながら、私は少し怖くなった。




