第ニ章 火花はまだ消えていない
通路はいつも通りだった。
石壁に埋め込まれた魔光灯が淡く灯り、演習を終えた生徒たちの足音が反響している。誰もが模擬戦の結果について口々に語り合い、勝者を称え、敗者を冷やかし、いつも通りの空気が流れている。世界は何一つ壊れていない。崩れていない。血も、叫びも、教師たちの慌ただしい足音もない。
それが、かえって恐ろしかった。
フリントは歩きながら、自分の手を見た。震えている。だがこれは戦闘後の疲労ではない。記憶と現実が噛み合わないことによる、内部の揺れだ。さっきまで見ていたはずの朝の光景が、まだ瞼の裏にこびりついている。石床に広がる赤。群青の髪。動かない身体。
あれは夢か?
あまりにも鮮明だった。匂いまで思い出せる。鉄の匂い。朝の冷気。凍りつくような静寂。
だが今、シエラクロスは生きている。模擬戦で自分を制圧し、何事もなかったかのように通路の奥へ消えていった。
「……そんな都合の良い夢、いや悪い夢なんてあるのか?」」
無意識に漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
半月後、代表選抜がある。準決勝で再び当たる。
負ける。
そして翌朝——。
夢はそこまで続いている。続いている、はずだ。
だがその“はず”が崩れている。
もしこれが夢なら、悪い冗談だ。もし夢でないなら、もっと質が悪い。
フリントは回廊の角で足を止めた。視線を奥へ向ける。ここで、あの外套の人物と遭遇した。暗がりの中、霞がかった声で告げられた。
「君は、彼女には勝てない……」
その時の言葉を反復する。
だが今、そこには誰もいない。影は静かに石床へ伸びているだけだ。
胸の奥がざわつく。全てがあそこから始まったようにすら思えてしまう。
夢通りに時間が進むならまた相対するのか?
いや、相対しないのか?
頭の中でもしも夢が再現されたならばと、可能性が渦を巻く。
勝てないと言われたから揺れたのか。揺れたから負けたのか。負けたからあの朝を迎えたのか。
思考が堂々巡りを始める。
「……やめろ」
小さく吐き捨てた。
考えても答えは出ない。この謎が分かるのは全て結果が出てからだ。
ただ分かっていることは一つだけ。
シエラクロスは、生きている。
——今は。
それだけで十分か?
胸の奥が重く沈む。
否、十分ではない。あの朝を見た自分は、もう知らないふりはできない。
代表選抜まで、まだ時間がある。半月ほど。模擬戦から本番までは猶予がある。
半月。
その言葉が妙に重く響いた。
例え有り得ない未来だったとしても彼が見て体験した事実は消えない。もしかしたらその影響により既に大きく世界が動き出したんじゃないかと思うような。
今のフリントライズは、模擬戦で負けた直後のままだ。いや、代表選発戦で負けた直後のままなのだ。
それでも避けられない戦いが待っている。
負けられない。
もし夢が未来の暗示だったとするならば——。
フリントは拳を握った。
「……次は絶対俺が勝つ」
声は低い。
混乱の中でも、その芯だけは揺れない。
何が起きているのか分からない。
負けたままで終わるか。それとも、勝つか。
外套の声がなくても、自分は揺れた。あれは言葉のせいではない。
自分の弱さだ。
ならば——。
「今度は、揺れねぇ」
それが呟きなのか、宣言なのか、自分でも分からない。だが、その瞬間だけは、頭の中の混乱が一瞬だけ静まった。
遠くで鐘が鳴る。次の講義の合図だ。世界はいつも通りに進んでいる。
しかしフリントライズにとっては、今が本当の始まりだった。




