第一章 火花⑦
朝の空気は、昨夜よりも冷たかった。夜通し吹き抜けた風が石造りの演習区画から熱を奪い去ったのか、足裏に伝わる感触は乾いていて硬く、まだ陽が昇りきらない中央塔の影が長く地面に伸びている。決勝の日だというのに、どこか祭りの気配とは違う、ざわめきがあった。
いつもならこの時間帯は、調整を終えた生徒や観戦目的の学生たちが整然と移動しているはずだった。しかし今日は流れが歪んでいる。人の輪が一方向へ偏り、低い声が重なり合い、教師の制服が何人も見える。魔術式の光が断続的に瞬いているのも目に入った。
胸の奥が、理由もなくざわつく。
昨夜、自分は負けた。それでも前を向いた。決勝を見届け、群青の少女がどんな勝ち方をするのか、この目で焼き付けると決めた。その決意は確かだったはずなのに、今はそれとは違う、形のない圧迫感が肺を押している。
足が自然と速くなる。
人垣の隙間から、石床の一部が見えた。
そこだけ色が違う。
白灰色の石の上に、濃く沈んだ赤が広がっていた。乾ききっていない光沢が、朝の光を鈍く反射している。
最初は何かの染料かと思った。演習用の魔術液体かと、頭は無理やり別の答えを用意しようとする。
だが、鼻にかすかに届いた鉄の匂いが、それを否定した。
——血だ。
理解した瞬間、耳鳴りが始まった。
さらに視界が開ける。
強化陣が刻まれた演習区画の中心近く、昨夜自分が拳を叩きつけ、何度も踏み込んだ場所とそう遠くない位置に、ひとつの身体が横たわっている。
群青の髪。
石に張り付き、赤で重く濡れている。
制服の胸元は深く裂け、その下に走る傷は一直線ではない。刃が入り、抜かれ、抉るように返された痕。試合の致命打とは違う。強化陣が発動すれば弾かれるはずの深さだ。
なのに、強化陣は作動していない。
床に刻まれた紋様は淡く明滅しているが、その周囲だけが不自然に静まり返り、保護術式の反応が途切れている。まるで、術式そのものが意図的に外されたかのように。
剣が少し離れた場所に転がっていた。
抜かれた形跡はある。鞘は足元から数歩分離れ、擦れた跡が床に残る。だが、激しい戦闘の痕跡はない。石は割れていない。爆ぜた魔術痕もない。踏み荒らされた形跡もない。
一撃。あるいは、二撃。
抵抗する間もなく終わった戦い。
まるで、不意を突かれたかのように。
まるで——昨夜の決定打の続きが、ここで完成させられたかのように。
「——ッ!?」
呼吸が浅くなる。
視界の端で教師が何か叫んでいる。医療班が駆けつけて結界が展開され、淡い光が半球状に広がる。だが誰も彼女に触れない。膝を折りかけた医療担当が、寸前で止まり、上官らしき人物と目を合わせる。
そのわずかな沈黙が、言葉よりもはっきりと事実を示していた。
「……嘘だろ」
レオンの声が、喉を絞るように漏れる。振り返らなくても分かる。彼は現実を拒むように目を見開き、信じられないものを見る顔をしているはずだ。
「昨日……普通に……歩いてただろ……」
言葉が崩れる。
昨日、確かに彼女はここを歩いていた。勝って、何も言わず、静かに退場していった。その背中を、フリントは悔しさと共に見送った。次は勝つと、胸の奥で燃やしながら。
オルタディナは人垣の後方に立っている。赤い短髪が朝日に照らされているが、その光は足元の赤と混じり、境界が曖昧になる。彼女は蒼白にならない。ただ、視線だけが異様に鋭い。感情を排し、状況を分析しようとする目。
「……術式、切られてる」
小さく、呟く。
「内部からじゃない。外部干渉」
その言葉が、冷たく現実を刺す。
金髪の少年の足が、勝手に前へ出る。
結界が弾いた。
透明な壁が胸を押し返し、強い閃光が走る。肩を掴まれ、乱暴に引き戻される。
「近づくな!」
教師の声がようやく意味を持って届く。
近づくな。近づけない。届かない。
昨夜、届かなかった拳の感触が、鮮明に蘇る。勝てるはずだった。形は揃っていた。揺れなければ、届いていた。次は勝つと、夜空に向かって言ったばかりだ。
明日の決勝を見ると、決めたばかりだ。
その明日が、目の前で終わっている。
群青の瞳は閉じられて苦悶の歪みはない。呼吸もなく、胸は動かない。風が髪を揺らしても、反応は返らない。
昨日と同じ、静かな顔。
勝っても何も言わなかった、あの表情のまま。
違うのは、その静けさが未来を持っていないということだけだ。
理解が、ゆっくりと追いつく。
これは重傷ではない。気絶でもない。助けられる可能性を探す段階ではない。
ここで、終わっている。
胸の奥で何かが崩れる。怒りでも涙でもない、空洞が広がる感覚。
シエラクロスは、動かない。そして二度と動かないものとして、そこに横たわっている。
死んでいる。その言葉が、ようやく形を持つ。
その瞬間、昨夜の自分の声が、残酷なほど鮮明に蘇った。
「次は勝つ」
次は。
その“次”が、消えてしまっていた。
拳を握る。震えが止まらない。悔しさとは違う。恐怖とも違う。何か取り返しのつかない線を、越えてしまった感覚だけが、冷たく胸を満たしていく。
群青の髪が、朝の光の下で揺れている。
その色が、やけに遠かった。
———
中央都市ヴァルディアは、決勝を迎えるはずだった朝を、異様な沈黙のまま過ごしていた。当然現在事件の捜査が始まり、代表選発戦は中止となる。この施設内の全員が容疑者として不穏な状況の中で皆が軟禁状態になっていた。ただ沈黙は長く続かない。昼前にはすでに噂が広がり始め、石造りの回廊や食堂、演習区画の外周にまで、さざ波のように波及していた。
「外部犯だってさ」
「いや、内部だろ。術式が切られてたらしい」
「代表選抜絡みじゃないのか? 勝ち上がりに不満持ってた奴が——」
声は低く、しかし確実に熱を帯びていく。真偽の分からない断片が繋がり、形を持たない陰謀論へと変わっていく。強化陣の不具合、魔術式の外部干渉、貴族派閥の対立、他都市からの妨害、あるいは過去の因縁。どれも決定打にはならないが、決定打がないからこそ、人は想像で穴を埋めようとする。
フリントはそのざわめきの中心から、わずかに外れた場所に立っていた。誰も彼に直接声をかけない。準決勝で敗れた当事者であることは周知の事実だ。憐れみとも好奇ともつかない視線が、遠巻きに向けられている。
「……馬鹿らしい」
低く吐き捨てる。
その隣でレオンが苛立たしげに息を吐いた。「でもおかしいだろ。強化陣が切られてたって話、教師も否定してない。外から入った奴がいるってことだろ? あの時間帯に、あそこまで侵入できるって普通じゃない」
「普通じゃないからって、なんでも陰謀にするな」
フリントの声は荒れている。自分でも分かるほどに。
オルタディナは腕を組み、視線だけを落としていた。
「陰謀かどうかは別として、事実は整理できる。術式が作動していない。抵抗痕が少ない。致命傷は一撃、もしくは短時間のうちに複数回。つまり、相手は彼女の反応速度を上回るか、あるいは彼女が“警戒しない相手”だった可能性が高い」
その分析は冷静で、隙がない。
レオンが顔をしかめる。
「知り合いってことか?」
「可能性の話」
「……やめろ」
フリントが遮る。
二人が視線を向ける。
「推測で、あいつの死を組み立てるな。くだらない」
レオンが何か言い返そうとして、言葉を飲み込む。オルタディナは数秒だけフリントを見つめ、それ以上は追及しなかった。
「くだらない、か」
彼女は静かに言う。
「現実は変わらないけどね」
その一言が、胸に刺さる。
フリントは踵を返した。これ以上聞いていられなかった。理屈で整理されるほど、現実は冷たくなる。陰謀だろうが事故だろうが、結果は一つだ。群青の少女は、もう動かないのだから。
自室の扉を閉めた瞬間、外界の音が遮断された。石壁に囲まれた狭い空間。机、椅子、簡素な寝台。昨日と何も変わっていない。変わっていないはずなのに、世界の重さが違う。
ベッドに腰を落とし、手を見る。
昨日と同じ手だ。拳も、関節も、傷も変わらない。なのに、何か決定的に取りこぼした感覚が残っている。
「……俺が、勝ってたらあいつは」
思考が、勝手にそこへ滑る。
もし勝っていたら、決勝は自分が出ていた。彼女は別の場所にいたかもしれない。少なくとも、あの時間帯にあの場所にはいなかったかもしれない。
馬鹿げている。
だが、止まらない。
——君は、彼女には勝てない。
外套の声が蘇る。
あの回廊で告げられた断言。結果だと言った。未来は決まっていると言った。
勝てない。負けた。
そして翌朝、彼女は死んだ。
因果が、無理やり一本の線で繋がる。
「……俺が負けたから、か?」
口に出した瞬間、自分で否定したくなる。そんな因果があるはずがない。だが、もしあの声が“未来”を知っていたのなら。もし勝敗そのものが分岐点だったのなら。
胸が締め付けられる。
負けたことよりも、負けた“意味”が変質する。
悔しさではない。罪悪感に似た何かが、じわじわと広がる。
「ふざけるな……」
誰に向けた言葉か分からない。
自分か。外套の人物か。世界か。
考え続けるほど、頭の奥が軋む。勝ち筋は見えていた。あの0.1秒の遅れ。あの一拍。あの躊躇。
もし、揺れなければ。もし、外套の言葉が脳裏をよぎらなければ。
ベッドに倒れ込む。
天井の石目を見つめる。視界が滲むのは涙ではなく、疲労のせいだと自分に言い聞かせる。眠るつもりはなかった。ただ目を閉じるだけのはずだった。
だが、思考は止まらない。
勝てなかった。守れなかった。
もし、やり直せるなら。
その言葉が浮かんだ瞬間、意識がふっと沈む。
眠りは唐突だった。
深く、底へ落ちる感覚。夢も見ない。ただ落ちる。
そして——
目を開けた。
天井が、違う。
いや、違わない。見慣れた石目だ。
だが空気が違う。時間の密度が違う。耳に届く音が違う。
遠くで、鐘が鳴っている。
それは、決勝の鐘ではない。
もっと前の、あの音。
胸が強く打つ。
昨日の重さが、胸から消えていない。
シエラクロスは、死んだ。
その記憶だけを抱えたまま、世界が静かに、最初の音を鳴らしていた。
———
視界が、ゆっくりと上下に揺れている。
耳鳴りが奥のほうで膨らみ、まるで水の中から音を聞いているように、周囲のざわめきが遠い。石床の冷たさが膝を通して伝わり、強化陣の微かな脈動が足裏から響いてくる。焦げた魔力の匂い。戦闘直後の空気の熱。誰かの息遣い。
何かが、終わった直後の空気だ。
フリントライズは膝をついたまま、しばらく動けなかった。胸が荒く上下し、視界の中央には淡く光る強化陣の紋様が広がっている。その縁がわずかに白い残光を引いているのを見て、ようやくここが演習場の中心であることを理解する。
——違う。
違うはずだ。
さっきまで、朝だった。
冷たい空気の中、石床に広がる濃い赤を見た。群青の髪が重く濡れ、呼吸のない静けさがそこにあった。あの匂い。あの色。あの光景。
だが今、血の匂いはない。
代わりにあるのは、魔力がぶつかり合ったあとの焦げた匂いと、観客席のどよめき。
「……制圧」
静かな声が、上から落ちてくる。
「勝者、シエラクロス」
審判の宣告が、はっきりと耳に入った。
フリントはハッと顔を上げる。円形の競技場。段状に広がる観客席。上空で回転する演算水晶。その光の下、中央に立っているのは——群青の少女。
制服は裂けていない。胸元に血はない。剣を静かに下ろし、呼吸を整えている。銀灰の瞳がこちらへ向いている。
生きている。
その事実が、胸を強く打った。
喉がうまく開かない。
「……は?」
自分の声が、やけに遠い。
何が起きているのか、理解が追いつかない。さっきまで、確かに——。
「おい、大丈夫か?」
横から腕を掴まれる。レオンだ。額に汗を滲ませ、いつもの調子より少し真面目な顔をしている。
「顔色やべえぞ。打ち所悪いんじゃねえか?」
「あ、いや……」
言葉がうまく繋がらない。
「大丈夫……?」
その声は、別の位置から届いた。
フリントの視界が、不意に近距離へ引き寄せられる。
目の前に、シエラクロスの顔があった。息遣いが分かる距離。汗の匂い。細く整った眉。傷ひとつない白い肌。
その表情が、別の光景と重なる。
石床に横たわり、静かに目を閉じていた顔。
同じ輪郭。同じまつ毛。同じ銀灰の色。
「――ッ!?」
反射的に身体が強張る。
「立てる?」
差し出される手。細い指。傷も、血も、何もない。
混乱が一気に押し寄せる。
整理できない。
何が現実で、何が記憶で、何が夢なのか分からない。
フリントは思わずその手を払い、よろめきながら立ち上がる。そして、逆に彼女を見下ろす形になった。
何で生きている?
何で死んでいない?
問いが脳裏で暴れる。
周囲を見回す。観客席のざわめき、審判の退場、演算水晶の回転。すべてが見覚えのある光景だ。だがそれは“さっき”ではない。もっと前だ。もっと手前の時間。
目眩がする。膝の震えは疲労ではない。
「……今、いつだ?」
自分でも意味の分からない問いが口をついて出る。
レオンが眉をひそめる。
「は? 模擬戦してただろ。頭、本当に打ったんじゃねえのか?」
模擬戦。
その言葉が、胸の奥に重く落ちる。
代表選抜前の、試験的な対戦。
フリントは視線を中央へ戻す。シエラクロスは審判に一礼し、観客席へ軽く頭を下げる。その動きは滑らかで、何の違和感もない。やがて彼女は通路へと歩き出す。
その背中が、昨日見た光景と重なる。
だが、あの背中は——
「——ぅ」
視界が揺らぐ。
石床の上に、血の色が一瞬だけ重なって見える。群青の髪が赤に濡れている幻が、瞬きの裏に焼き付く。
「……っ」
呼吸が乱れる。
「おい、本当に大丈夫か?」
レオンの手が肩に置かれる。温度がある。重みがある。現実の感触だ。
夢ではない。
だが、何が夢なのか分からない。
「……今、何時だ」
「昼過ぎだって。模擬戦終わったばっかだろ」
終わった。負けた。
そこから——何かが続いたはずだ。
代表戦まで半月ほど。準決勝でまた戦う。誰かと会う。負ける。そして——。
頭の奥で、あの静かな光景が再生される。
石床。赤。動かない身体。
なのに今、彼女は歩いている。
「……ふざけるな」
無意識に呟く。
「何がだよ」
レオンが怪訝な顔をするが、答えられない。
どう説明する。自分が見た光景を。だがそれが現実だった証拠もない。
オルタディナが少し離れた位置からこちらを見ている。
「様子がおかしいわね」
その声は冷静だ。
「うるさい」
反射的に強く返してしまう。自分でも驚くほど荒れた声だった。
居心地が悪い。視線が刺さる。空気が重い。
「……帰る」
短く言い捨て、フリントは二人から離れた。
通路に入ると、石壁の質感がやけに鮮明に見える。そこで棒立ちになりながら振り返った。灯りの角度、影の落ち方、足音の反響。すべてが現実だと主張している。
ここで、何かがあった気がする。
だが、何もない。
静かな回廊。歪みも、影の違和感もない。ただ、自分の呼吸だけがやけに大きく響いている。
それでも彼女は生きている。
シエラは生きている。
それは確かだ。
だったら、ならば、あの光景は何だ。
夢か。幻か。疲労か。頭を打った衝撃で見た妄想か。
だがあまりにも生々しい。匂いも、色も、温度も、細部まで鮮明すぎる。
もし夢だったのなら、自分は相当おかしい。
もし夢でなかったのなら——。
そこまで考えかけて、思考を止める。
分からない。
考えたところで何も分からない。
ただ一つだけ確かなのは、胸の奥に残った違和感だけだった。




