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第一章 火花⑥

 夜の訓練場は、昼の熱をすべて吐き出してしまったみたいに静かだった。中央塔の長い影が屋外演習区画を斜めに切り取り、石造りの床は昼間の衝撃を忘れたように冷えきっている。風が抜けるたび、どこか遠くで金属同士が触れ合うような乾いた音が鳴り、それが余計に空間の広さを強調していた。

 フリントライズは、その冷たさを足裏で確かめるように立っていた。ガントレットは外してある。革紐の跡が手首に赤く残り、指先に触れる夜気が妙に生々しい。金属越しではなく、直接風に触れているせいで、現実が輪郭を持って迫ってくる。

 負けた。たった一拍の遅れで、決定打を差し込まれた。その事実が、皮膚の上からじわじわと染み込んでくるようだった。

 敗北は受け入れられる。勝者が強かったのなら、そういう日もある。だが今日の敗北は、ただの実力差として飲み下せる種類ではなかった。あの瞬間、確かに勝ち筋が見えた。形は揃っていた。踏み込みの角度も、体重移動も、拳の軌道も、あれ以上ないほど自分の中で整っていた。勝てる、と確信できた。根拠のない勢いではない。身体の全てが一本の線に収束し、相手へ届くと疑わなかった。

 だからこそ、最後の最後で切れた感覚が許せない。

 自分の中の何かが、ほんの僅かに躊躇った。拳を止めたわけでもない。足を引いたわけでもない。ただ、世界の速度に対して自分の反応だけが半拍遅れた。誤差にすらならないほどの誤差。しかし、あの群青の少女はそれを拾い上げ、刃に変えた。


 ——気にすんなよ。運が悪かっただけだ。


 回廊で言われた言葉が、不意に蘇る。レオンはいつもの軽さを抑えた顔で、無理に笑おうとしていた。普段なら大げさに肩を叩くところを、あえて触れず、距離を保ったまま言ったのが逆に優しかった。


 ——お前、勝ってたよ。あれはマジで勝ち筋だった。次やれば取れる。


 慰めだと分かっている。それでも、その不器用な真っ直ぐさが胸に刺さった。勝ち筋“だった”。過去形でしか語れない現実。あの一撃はもう戻らない。


 その隣で、赤い短髪の少女は腕を組んだまま淡々と言った。


 ——手元が狂ったようなものね。


 責めるでもなく、励ますでもなく、ただ事実を置くだけの声。


 ——彼女は精密機械みたいなものよ。その狂った誤差を見逃さなかった。ただそれだけ。


 冷たい言葉だった。だが嘘はなかった。だからこそ彼は痛かった。情け容赦のない分析は、言い訳を許さない。寧ろもっと指摘する部分はあってもおかしくないのにフリントを責めるよりシエラがすごかった方を押す。しかし運でも偶然でもない。揺れたから負けたになってしまう以上刺さる意見だ。

 フリントは息を吸い込み、構えた。空を相手に踏み込む。拳を放つ。受ける剣も、逸らす刃もないのに、身体は勝手に“相手がいる”速度で動く。拳の風切り音が石壁に反響して遅れて返る。肩の奥が軋む。まだ衝撃の残滓が筋肉に残っている。それでも動ける。痛みは足枷ではない。むしろ、生きている証みたいに熱を持っている。

 もう一度、踏み込み。踵が床を捉え、強化陣が微かに反応する。もう一度、拳。腰を回し、重心を沈め、立て直す。身体は軽い。調子は良い。今なら何度だってやれる。

 なのに、頭のどこかで、しつこく引っかかる。

 手元が狂ったようなもの。

 違う。それだけで片付くはずがない。


 ——君は、彼女には勝てない。


 外套の声が重なる。

 回廊の影、霞んだ輪郭、性別も分からない低い声。あの言葉が、決定打の瞬間と重なって離れない。

 フリントは歯を食いしばり、最後の踏み込みだけを何度も再現する。勝ち筋が見えた瞬間の身体の形を、今度は一分も一秒も遅れずに通し切るために。揺れるな。迷うな。考えるな。直線で貫け。そう命じるほど、逆に“考えたくない何か”が内側から滲んでくる。


 ——次やれば取れる。


 本当にそうか? 次はあるのか?

 またあの一拍で揺れるんじゃないか。運に期待はしない。だが、運に切り捨てられたらどうなる。自分の直感が、ほんの僅かでも曇ったら——。


「ッ」


 拳が止まる。

 その静止の中で、ふとレオンの声が重なる。


 ——なあ、あの一瞬さ。俺、鳥肌立ったんだよ。お前、完全に持っていってた。


 持っていっていた。確かに、あの場の空気は自分に傾いていた。観客の熱も、強化陣の震えも、自分の鼓動と同じ速度だった。

 オルタディナの声も続く。


 ——あそこまで追い詰めたのは、あなたしかいない。


 それは慰めではない。評価だ。

 フリントはゆっくり息を吐いた。拳を握る。もう一度、踏み込む。さっきよりも深く、強く。地面を叩く衝撃が足裏から上がってくる。揺れたなら、揺れない自分になる。誤差があるなら、誤差ごとねじ伏せる。

 悔しさは燃料だ。負けたからこそ、勝ちたいという欲が濃くなる。勝てる形は見えた。あの距離まで詰めた。あの圧まで持ち込んだ。なら次は届く。届かせる。

 星が雲の切れ間から顔を出す。遠い光が、夜の上空で瞬いている。

 届かない。

 だが、確かにここまで光は届いている。

 明日は決勝だ。自分はそこに立てない。だが、見る。最後まで見る。群青の少女がどんな勝ち方をするのか、その静かな確定を、自分の目で焼き付ける。それが次の自分の燃料になる。


「次は勝つ」


 誰に聞かせるでもなく、夜気に溶かす。

 敗北の夜だというのに、胸の奥には確かな火が戻ってきていた。拳を握ると、その熱がまだ残っていると分かる。揺れはあった。だが折れてはいない。

 フリントライズは、夜の静寂の中で、もう一度だけ踏み込んだ。


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