第六章 弱まる火花⑨
思考はやがてひとつの結論へと収束していった。散らばっていた要素がゆっくりと形を成していく。
何度も繰り返してきた中で見えてきたもの。歪めてしまった選択。遠回りしてきた判断。そのすべてを一度切り離し、改めて見つめ直した時に残るものはあまりにも単純だった。
——最初に立っていた場所。
何も知らず、何も背負わず、ただ目の前の相手に挑もうとしていたあの瞬間。
あそこに答えがある。
フリントは静かに目を閉じる。
胸の奥に沈んでいた焦燥や恐怖、積み重なった失敗の記憶。それらが一度ざわめき、そしてゆっくりと沈んでいく。
「(……戻るだけだ)」
余計なものを背負いすぎていた。
シエラクロスの死。繰り返される結末。変えられなかった未来。それらすべてを抱え込んだまま戦おうとしていた。
だから歪んだ。だから届かなかった。
だが本来は違うはずだった。
フリントライズという存在はそんなものを抱えて立つ人間ではない。
ただ純粋に、強さを求めて、高みを目指して、目の前の壁を越えようとする存在だったはずだ。
「(……だったら)」
答えはひとつしかない。
シエラクロスに勝つ。それだけだ。
それがブレない指標。それ以外はすべて余分なものだ。
負けられない戦いだとか、彼女の死をどうにかしなければならないだとか、そんなものは考える必要がない。
考えた時点で歪む。あの高さを越えることだけを考えろ。あの剣を打ち破ることだけを考えろ。
それができた時、すべては自然と変わる。
「(……それが、俺だ)」
フリントはゆっくりと目を開ける。
そこにあるのはこれまでとは違う静かな決意だった。
周回の記憶を活かすことも、先回りして状況を変えることも、もう必要ない。
いや、むしろ邪魔だ。
変化球はいらない。小細工もいらない。
ただ、真っ直ぐに真正面からぶつかって叩き潰す。
それで届かないならその時はその時だ。
だけど逃げない。歪めない未来を掴む為に。
「(……あいつに、勝つ)」
それだけを胸に刻む。
そこへふと、あの声が脳裏に過る。
——彼女には勝てない。
そう言ったあの黒い外套の人物。
あの時確かに未来を断定するような口調だったが。
「(……関係ねえ)」
もしあれがすべての始まりだったとしても。
もしあの言葉が自分を歪めた原因だったとしても。
次は、違う。
もう揺らがない。仮に再び現れたとしても、同じ言葉をぶつけられたとしても。
「(……聞く価値もねえ)」
そう断じることができる。
なぜならあんな得体の知れない存在の言葉よりも——もっと確かなものがある。
すぐ隣で、何度もぶつかり合って、それでもなお変わらず言い続けた言葉。
「あんたは最強よ」
その声の方がずっと重く、ずっと信用できる。
フリントはわずかに顔を上げた。
視界の先にいる赤短髪の少女。何も言わず、ただこちらを見ているその存在が確かにそこにある。
「(……ああ)」
静かに、心の中で頷く。
これでいい。次で、終わらせる。それだけだ。
余計なことは考えない。遠回りもしない。
ただ最初の自分に戻る。あの時のように何も知らないままそれでも頂点を目指していた自分に。
その場所へもう一度立つ。
胸の奥に熱が灯る。それは焦りでも恐怖でもない。
ただ純粋な衝動。前へ進むための確かな火だった。
少年はその熱を抱いたまま、静かに息を整える。
次で最後だと、その想いだけを胸に秘めてフリント・ライズは次のやり直しへと意識を向けた。
結論を胸に刻み終えたとき、次に訪れるものは決まっていた。
——意識の喪失。それはこれまで幾度となく繰り返してきた“移行”の合図。
シエラクロスの死を認識した直後に訪れる断絶。音も光もすべてが途切れ、次の瞬間には何事もなかったかのように過去へと引き戻されるあの感覚。
早い話が眠りに落ちればいい。それだけで次のやり直しが始まる。
ただ——。
「(……今回は、少し違うか)」
フリントは、ゆっくりと視線を落とす。
これまでは、自室で眠りに落ちることが多かった。あるいは、戦闘の最中に意識を奪われ、そのまま次へと移行することもあった。場所や状況はまちまちだが、どこか“流れに任せた”形で終わっていた。
しかし今回は違う。自分の意思で終わりを選べるその事実が、逆に足を止める。
隣にはオルタディナ。その存在はこれまでのやり直しとは決定的に異なっていた。
追っ手から逃げ延びた先で真実を打ち明けて、そしてそれを受け止め、共に考えてくれた。
この短い時間の中であまりにも多くのものを共有してしまった。
少年はわずかに息を吐く。
「(……ここで終わるんだよな)」
この時間は続かない。ここにいる彼女はこのやり直しの中だけの存在であり、次に目を覚ました時には何も知らない“最初の状態”に戻っている。
つまりこの会話も、この決意も、この空気も、何もかもがなかったことになる。
それは頭では分かっていた。何度も経験してきたはずだった。
だが。
「(……今回は、違う)」
胸の奥に残る感覚がそれを否定する。
これまでとは違う重みがあった。
言葉を交わした。理解し合った。同じ視点で同じ未来を見ようとした。
その事実が確かにここにある。
だからこそ、どう切り出せばいいのか分からなくなる。
「……」
フリントは何度か口を開きかけては閉じる。
言うべきことは単純だ。
眠る。それだけでいい。
しかしその一言を口にすることですべてが終わることを理解している。
それが妙に重かった。
「(……なんて言うんだよ)」
軽く済ませることはできる。「じゃあ寝るわ」で終わらせることもできる。
だがそれでいいのかという思いが残る。
彼女は自分を助けた。命を張って。その上で理解しようとしてくれた。そして答えに辿り着く手助けまでしてくれた。
それなのに。
このまま何も言わずに終わるのは——。
「(……違うだろ)」
彼は隣にいる少女へと視線を向ける。
オルタディナは特に何かを言うでもなく、静かにそこに座っていた。
その横顔はどこか落ち着いていて。まるでこの後の流れすら理解しているかのような、そんな静けさを帯びていた。
それが余計に言葉を詰まらせる。
「(……こいつは)」
どこまで分かっているのか、どこまで察しているのか。それすら分からない。
ただ一つ確かなのは。
「(……ここで終わりだ)」
このやり直しの世界での彼女との関係は——ここで途切れる。
次に会う時、彼女は何も知らない。この時間を共有した記憶もすべて消えている。
金髪の少年はその事実を改めて噛み締める。
胸の奥がわずかに軋む。それが何なのかは、はっきりとは分からない。
だが確かにそこにある。
「……」
沈黙が落ちる。先ほどまでとは違う終わりを意識した静かな時間。
彼はその中で言葉を探し続ける。
どう切り出せばいいのか、どう伝えればいいのか。
答えは出ない。
それでもこのまま終わらせるわけにはいかなかった。
———
オルタディナの中で、フリント・ライズという存在は最初から“異物”だった。
アイシードで初めてその姿を視界に捉えた時、真っ先に浮かんだ印象は単純だ。
——田舎から出てきた変わり者。
洗練されていない立ち振る舞い。周囲の空気に馴染まない距離感。どこか場違いな、だが妙に臆することのない態度。それは決して洗練されたものではなかったが、同時に作られたものでもなかった。
だからこそ余計に目についた。
自分とは明らかに違う世界で生きてきた人間。純真無垢という言葉がこれほど似合う存在も珍しいとさえ思った。
真っ直ぐで、濁りがない。だからこそ——眩しかった。
その眩しさは決して好意だけを生むものではない。むしろ正反対の感情を同時に引き寄せる。
相容れない。根本的に違う。そう直感させる何かがあった。
幸せを知っている人間の目。苦労を知らない者の無防備さ。恵まれているからこそ持てる余裕。何かに縋る必要のない生き甲斐を持った者の在り方。後ろに忍び寄る脅威など知らずに済む環境。安心で、安全で、平和で。背負うものも、抱えるものもないままただ前だけを見ていられる人生。
それらすべてが、自分とは無縁のものだった。
だからこそ。
『(……合わない)』
最初からそう結論付けていた。
関わるべきではない。交わる必要もない。そう思っていたはずだった。
だが——気付けば視界に入る日が続いていた。
特別に意識しているわけではない。遠目にただ様子を見るだけ。それ以上の接点はない。だがそれでも目に入る。
嫌でも。
良くも悪くも、フリント・ライズという存在は目立っていた。
それは強さだけではない。在り方そのものが周囲と噛み合っていない。
だからこそ浮く。浮くから、目につく。その繰り返しだった。
観察するつもりはなかった。だが結果としてそうなっていた。
そして見ているうちに分かってくることもあった。
——強さに対する執着。
それは確かに本物だった。
貪欲で、直線的で、迷いがない。技術的には未熟な部分も多い。だがそれを補って余りある“勢い”があった。
我流。その一言で片付けるには荒削りすぎる。むしろ野生に近い。獣が本能で動くような無駄を削ぎ落とした直感的な戦い方。それは確かに脅威だった。
だが同時に——。
『(……勿体ない)』
自然と、そんな評価が浮かぶ。
あれは完成形ではない。未完成のまま無理やり押し切っているだけだ。
もっと綺麗に、もっと洗練された動きができるはずだ。
そういう“余地”が見えてしまう。
だが本人はそれを選ばない。
いや——選ばないというより、拒んでいるようにも見えた。
知っているはずの動きをあえて捨てている。整えられた型を壊し別の強さを求めている。
その在り方に、違和感を覚える。
『(……何か矯正した?)』
ふとそんな疑問が浮かぶ。
自然な成長ではない。何かを無理やり捻じ曲げたような戦い方。それがどこか歪に見えた。
理由は分からない。だがその違和感は消えない。
気付けば頭の中で彼の動きをなぞっている自分がいた。
ここは違う。そこは遅い。今の踏み込みは無駄が多い。
そんな風に勝手に指摘し、勝手に分析している。
意識しているわけではない。ただ自然とそうなっていた。
『(……暇ね)』
結局のところ、それが理由だと自分に言い聞かせる。
退屈だった。刺激が足りない。だから目につくものに意識が向くだけでそれ以上でも、それ以下でもない。そう割り切ろうとする。
だがそれでもなお、視線は逸れなかった。
嫌でも目に入る。目立つから。浮いているから。
そして——どこか気に食わないから。
苛立ちがわずかに胸の奥に残る。その理由を深く考えることはなかった。
ただ観察し続ける。無意識に、まるで自分でも気付かないうちに絡め取られていくように。
この感情が何を意味しているのか、オルタディナ自身にも分からなかった。ただひとつ確かなのは、それがこれまでの自分には存在しなかった種類のものだということ。
胸の奥にわずかに引っかかるような違和感。
嫌悪とも違う。興味とも違う。だが無視できない。
『(……何よ、これ)』
内心でそう呟き、すぐに思考を切り捨てる。
そもそも自分にそんなものが芽生える余地などあるのか。
捨てられた存在。その事実は何一つ変わらない。
貴族としての価値だけではない。人としての尊厳すら、切り捨てられた過去。必要とされなかった側の人間が何かを抱く資格などあるのか。
擦り切れ、閉ざした心。
そこに何かが芽吹くなど——。
『(……くだらない)』
そう吐き捨てて思考を打ち切る。
理由が分からないのなら考える必要はない。
ただいつも通りに過ごせばいい、とそう割り切る。
ただそれでも視線は逸れなかった。
アイシードの院内。修練場。整備された広い空間の中で各々が鍛錬に励む中、その中に紛れるようにして彼はいた。
フリント・ライズ。
相変わらず周囲とは少しだけズレた動きをしていた。
洗練されていない。整っていない。
しかし目を離しづらい。
気付けばまた視線を向けている。観察するつもりなどないのに。
『(……暇なのよね)』
そう自分に言い聞かせる。
退屈だから見ているだけ。それ以上でもそれ以下でもない。そう割り切っているのに視線は外れない。
その日も同じだった。修練を一通り終え、適当に流して一息つく。呼吸を整えながら意識はどこか散漫になっていた。
だからこそ——完全に油断していた。
『強そうだなお前』
唐突に、声が落ちてきた。
オルタディナは一瞬反応が遅れながらも視線を上げる。
そこにいたのは——あの金髪の少年。
『(……ッ!?)』
内心で思考が止まる。ドキッ、と何か後ろめたいことがバレてしまった時のように鼓動が速くなるのを自覚した。
まさか。
まさか向こうから話しかけてくるとは思っていなかった。
確かに視線を向けていた自覚はある。だがそれに気付いたとしても。普通はこんな接触の仕方はしない。
距離の詰め方。言葉の選び方。そのすべてが、どこか粗雑で。
まるで——。
『(……路地裏で絡んでくるゴロつきみたいなやり方ね)』
場は整えられた修練場だというのにそんな錯覚すら覚えるほどにその言い方は場違いだった。
だからこそ、警戒が遅れた。完全に想定外だった。
『……は?』
思わず、声に出る。
しかしそれ以上の動揺は見せない。
視線を細め、相手を射抜くように見返す。
『……あんた、目がないわね?』
淡々とした声音。
ただその奥には明確な棘がある。
『どこをどう見て、そんな根拠がある訳?』
冷たく切り捨てる。それが当然の対応だった。
だがその言葉を発しながらも思考は別の方向へと動いていた。
『(……気付いてたの?)』
自分の視線に。観察に。
それとも——ただの勘か。
どちらにせよこの男は自分が思っていたほど単純ではない。
その確信だけが静かに胸の奥に残った。
——が、そんな警戒は杞憂に終わったのかもしれない。
フリント・ライズと言う男はこちらの反応など意に介した様子もなく、肩の力を抜いたまま続けた。
『何か目つきが他の奴と違うんだよ。修羅場を潜り抜けて生き抜いて来たような、そんな感じだ』
あまりにも直線的で、直感的で、遠慮のない物言いだった。
一瞬、言葉の意味を受け取り損ねるがすぐに理解する。
——早い話、目つきが悪いと言いたいらしい。そうオルタディナには受け取れた。
『(……何よそれ?)』
内心で呆れが先に立つ。
あまりにも単純で、あまりにも雑な評価。さっきまで一瞬でも警戒していた自分が馬鹿らしくなる。深読みしたことすら少しだけ恥ずかしく思えた。
『(……馬鹿馬鹿しい)』
ただの直感。ただの印象。それをさも核心を突いたかのように言ってのけるその神経。
失礼にも程がある。
だが——。
『(……)』
ほんのわずかだけ、彼の思考が引っかかる。
一目見ただけでそこまで踏み込んだ言葉が出てくるのか。偶然にしては妙に具体的すぎる。
根拠はない。理屈もない。それでも何かを“感じ取っている”ような言い方だった。
『(……見る目がない訳じゃないのかもね)』
そんな考えが一瞬だけ過るが、それを表に出すつもりは一切なかった。
むしろ逆だ。苛立ちの方が勝る。
『うざ! あんたが私の何を知っているのよ?』
吐き捨てるように言い放つ。言葉に棘を乗せることをまるで躊躇わない。
なのに少年は本気で分かっていない顔をしていた。
『あれ? 何か俺変なこと言ったか?』
その反応が余計に癇に障る。
『(……こいつ、本気で言ってるのね)』
悪意がない。だからこそタチが悪い。
そこで堪忍袋の緒が切れたのは言うまでもないだろう。
『うるさい田舎者! あんたは黙ってそこの木人でも一生殴ってなさい!』
言葉は完全に感情任せだった。自分でも少しだけ過剰だとは分かっている。しかし抑える気にもならない。
彼はというと、まるで意に介していない様子で隣にいた少年へと顔を向ける。
『なあレオン? こいつ何でこんな怒ってんだ?』
あまりにも他人事のような言い方だった。
レオンと呼ばれた少年は苦笑いを浮かべながら肩を竦める。
『そりゃ怒るだろ……』
至極当然の返答。そのやり取りすらどこか軽い。
深刻さがない。空気を重くすることを知らないようなそんな軽さ。
『(……意味分からない)』
呆れと苛立ちとそしてほんの僅かな引っかかり。それらが混ざり合う。
理解できない。価値観が違う。生きてきた世界が違う。
だから合わない。
そのはずなのに。
気付けばまた視線を向けている自分がいる。
『(……馬鹿みたい)』
そう思いながらも目を逸らさない。
この時、オルタディナはまだ知らなかった。このどうしようもなく噛み合わないやり取りとこの苛立ちすら覚える出会いがやがて、自分の中で何かを変えていくことになるとは。
もしかしたら——この瞬間から物語は、静かに動き始めていたのかもしれない。
———
正直に言えば——あんな出会いからここまで辿り着くなんて思いもしなかった。
修練場でのあのやり取りは今思い返してもくだらないものだ。苛立ちと呆れだけを残して終わるはずだった。関わる価値もない、交わる必要もない、そう切り捨てていた相手。
それなのに今、こうして胸の奥をかき乱しているのは、その“どうでもよかったはずの相手”だった。
やり直し。シエラクロスの死。繰り返される時間。
どれもまともに受け取れば悪い冗談にしか聞こえない。いや、冗談であってほしいと願う類の話だ。現実味の欠片もない滑稽ですらあるはずの内容。
それでも——あんたは嘘をついていない。そう断言できてしまうのが何より厄介だった。
あんたは不器用だ。器用に取り繕うことも出来ないし、都合よく言葉を選ぶことも出来ない。だからこそ分かる。あんたが本気で話している時の声と、逃げるために誤魔化した時の声の違いくらいは。
逃げた時のことを思い出す。
あの時は確かに腹が立った。初めてだったからだ。あんたが言葉で嘘をついたのは。だから余計に分かりやすくて、だからこそ余計に腹が立って、あんな風に怒鳴りつけてしまった。
でも、今なら分かる。
あれは嘘じゃない。壊れそうな何かを守るための、必死な誤魔化しだったのだと。
そして何より——あの時のあんたの顔。
あんな姿、見たことがなかった。
いつもは鈍感で、何も考えていないように見えて、どこか抜けていて、それでも前に進むことだけはやめないあんたが。
あの時は違った。必死だった。
何かに追い詰められて、考えて、考えて、それでも答えが出なくて、削れて、摩耗して、立っていることすらやっとのような、そんな姿だった。
その光景が今も脳裏に焼き付いている。
——調子が狂う。
そうとしか言いようがなかった。
いつものあんたじゃない。それだけでこんなにも落ち着かないのか。こんなにも、不安になるのか。
——安心出来ない。
その事実にようやく気付いてしまった。
——どうしてよ?
理解できない。ただの同級生だ。ただの関係だ。そう割り切っていたはずなのに。どうしてそんな風に思う?
また置いていかれるのではないか? そんな感覚が胸の奥でざわついている。
取り残される側の感覚なんて嫌というほど知っているはずなのに。
——違う。
違う。それだけじゃない。それだけでこの感情を説明するには足りない。
もっと別の、もっと厄介な何か。
それが胸の奥で形になりかける。
きっと私は——。
あんたのことが——。
「何か言いたい事あるの?」
気付けば言葉で遮っていた。これ以上踏み込めば戻れなくなる気がしたから。
自分でも分かっている。ここで何を言っても意味がない。ここにいるあんたとは、もう二度と会えない。
次のやり直しに進めばこの時間は消える。
この会話も、この空気も、この距離も。
全部、なかったことになる。
では、その後はどうなる? フリントライズという存在はどうなるのか?
この世界は。消えるのか? それともただ塗り替えられるだけなのか?
分からない。分かるはずもない。
だがひとつだけ確実なことがある。
——今ここにいるあんたは、消える。
この時間を共有したあんたは、もう存在しない。
それだけで十分だった。
だから、ここで余計なことを言うわけにはいかない。
あんたに背負わせるものをこれ以上増やすわけにはいかない。
ただでさえあんたは抱えすぎている。ここで私が何かを言えば、それは間違いなく“重荷”になるだろう。足枷になり、あんたの進む道を歪める。それだけは絶対に許せなかった。
だから——この気持ちは、ここで終わり。私の中にだけ、留めておく。誰にも渡さない。不思議とそれは嫌な感情ではなかった。
苦しいのに、締め付けられるのに、それでもどこか温かい。
辛さも、愛しさも、寂しさも。全部ひっくるめてここにある。
これは私だけのもの。あんたが何度も繰り返した中にいた“私たち”とは違う今この瞬間にいる私だけが抱いたもの。
そう思えば思うほど——別れが、重くなる。
「(……やめなさいよ)」
目頭が熱くなる。視界が滲みそうになる。
それでも、顔には出さない。
出してはいけない。目を細めて、必死に押し殺す。
大丈夫。これは間違いじゃない。後悔もしない。これが、正しいとそう言い聞かせる。
そして、口を開く。
「無理に話さないでいいから」
声は驚くほど落ち着いていた。
「早くシエラクロスに勝って来なさい」
それが、今言えるすべてだった。
フリントがこちらを見る。
「オルタディナ……」
名前を呼ばれる。
そのたった一言で、胸の奥が大きく揺れる。
「(……ほんとに、ずるい)」
そんな風に呼ばれたら。
もっと欲しくなる。
もっと、この時間を引き延ばしたくなる。
でも——終わる。
だからこそ最後にちゃんと送り出す。
「全て……終わらせて」
息を整え、震えそうになる声を抑え込む。
「最強になりなさい」
言い切る。
それが私にできる最後のこと。
その瞬間、張り詰めていたものが音もなく崩れた。
ぽたり、と。
抑えきれなかった涙が一筋だけ頬を伝って落ちた。
それでも——顔は上げたまま。
最後まで、崩れずにいるために。
カッコ悪いな、私。
こんな顔で見送るつもりじゃなかった。いつもみたいに、軽く鼻で笑って、少しだけ棘のある言葉で背中を押してやるつもりだった。あんたが振り返らないように、余計な未練を残さないように、強く、冷たく、らしく。
それなのに喉の奥に引っかかるものがあって上手く息が通らない。胸の内側が妙に熱くて視界の端が滲みそうになるのを必死に押し留める。
「(……ちゃんとしなさいよ)」
自分で自分を叱りつける。こんなところで崩れてどうする。最後くらい、綺麗に終わらせなさいと。
その時だった。
視界の中で彼の影がわずかに近付く。
気付いた時には、もう遅い。
頬に触れる、温もり。驚くほど慎重で、だが不器用な手つきで、フリントは私の涙を拭っていた。
一瞬、思考が空白になる。何をされたのか理解するよりも先に触れられたという事実だけが残る。
「(……あんた)」
何をしているのかと、咎める言葉が浮かんで消えた。
彼の顔を見る。
金髪の少年もまた穏やかではない表情をしていた。
口元を固く結び、何かを言おうとしているのが分かる。視線がわずかに揺れているのも珍しい。普段なら迷うことなどないくせに。
言葉を選んでいるのだろう。
何を残すべきか。何を伝えるべきか。
その逡巡があまりにも分かりやすくて——少しだけ可笑しくて、同時にどうしようもなく苦しい。
「(……馬鹿ね)」
そんなに悩まなくてもいいのに。
どうせこの時間は消える。この会話も、この感触も、この距離も、全部。
それでも、あんたは向き合う。最後まで、逃げずに。
それが——フリントライズだ。
やがて彼は迷いを断ち切るように顔を上げる。
視線が真っ直ぐにぶつかる。
もう、揺れていない。
「行ってくる」
それだけだった。
余計な言葉は何もない。けれどそれで十分だった。それ以上を望むこと自体が野暮だと思えるくらいにすべてがそこに込められている。
その瞬間だった。
彼の輪郭が、わずかに揺らいだ。
「(……来たわね)」
空気が変質する。
空間そのものが緩やかに解けていくような感覚。
彼の存在が少しずつ曖昧になっていく。形を保てなくなったかのように輪郭が滲み、今にも崩れそうなほどに不安定になる。
まるで光の粒子に分解されていくような錯覚。
世界が彼を押し出している。
この時間から、この場所から、次のやり直しへと。
「(……終わるのね)」
これは終焉の気配だ。
夢のように曖昧で、掴もうとすればするほど指の隙間から零れ落ちるような、そんな終わり。
けれど。
「(……まだ、マシか)」
ほんの僅かに救いを感じてしまう。
取り残される訳ではない。置いていかれる訳でもない。この世界ごと終わる。あんたが進む先へ私もまた“消える”という形で繋がっている。それだけで少しだけ安心できる自分がいる。
記憶を持ったまま進むあんたと。何も知らずにすべてを忘れてやり直す私。
不公平で、残酷で、どうしようもなく歪な構造。
それでも——。
「(……また、会えるかもしれない)」
同じ場所で。同じ時間で。何も知らないままでもまたあんたと出会えるなら。それはきっと悪くない。
いや——きっと、特別なことだ。
フリントライズの姿はもうほとんど形を保っていない。
声も届いているのか分からない。
それでも言葉にはしない。
もう十分だ。これ以上は、いらない。ただ心の中で静かに呟く。
次こそは——いいえ、違う。
「(……次は、ちゃんとやりなさいよ)」
もっと上手く。
もっと賢く。
もっと、あんたらしく。
そして——。
もっと、私らしく。
胸の奥に残る熱をそっと抱き締める。
これは消えない。この瞬間に抱いた感情だけは誰にも奪えない。そう信じたかった。
視界が静かに崩れていく。
世界がほどけていく。
最後にほんの少しだけ口元を緩めた。
誰にも見せない自分だけの表情で。
「……頑張って」
小さく、息に紛れるほどの声で。
そして、それは誰に向けたものでもない。
あんたにでもない。
過去でも、今でもない。
これから先、何も知らずに同じ道を歩く“私”へ。
「未来の私」
その言葉をそっと重ねる。
消えゆく世界の中で誰にも届かないまま、確かに残る祈りとして。




