第六章 弱まる火花⑥
そこから二人は道なき道をひたすらに抜けていった。
踏み固められた街道ではなく、獣道ですらない草の生い茂る平原を枝を払い、足を取られながらも進み続ける。追撃の気配は完全には消えていない。遠くで何かが動く気配。風に紛れて混じるわずかな違和感。それらを振り切るようにただ前へと進むしかなかった。
立ち止まれば追いつかれる。そうでなくとも今は立ち止まる理由がなかった。
どれほど時間が経ったのかは分からない。夜の空は変わらず暗く、月の位置すら意識する余裕はない。ただ足を動かし続けた結果としてようやく視界の先に見慣れた影が浮かび上がる。
石造りの外壁。都市の輪郭。
辿り着いたのは結局のところ——ヴァルディアだった。
少年は短く息を吐く。
安堵ではない。ただ現実を受け入れたようなそんな吐息だった。
「(……やっぱり、ここか)」
仕方がない、とすぐに思考は割り切る。
あの休憩所の時点ですでに先手を打たれていた。あれだけの規模で網を張られている以上、見知らぬ土地へ向かったところで同じことの繰り返しになる可能性は高い。
それならば。
「(……知ってる場所の方がまだマシだ)」
少なくとも地理が分かる。どこに何があるかを把握している。
そして何より——。
「(……クロウの用意した隠れ蓑)」
このやり直しではあまり接点はないが、オルタディナ経由だ。信用はある。完全か安全ではないにしても追跡を遅らせる程度の効果は見込めるだろう。あの男のやり方を思い出せばそれなりの対策が施されていることも想像できた。無策で逃げるよりははるかに現実的である。
二人は都市の喧騒を避けるように裏手へと回り込み、人目につかない路地を縫うように進む。灯りの届かない細い道を抜け、廃屋に近い建物が並ぶ区域へと足を踏み入れる。
やがて辿り着いたのは小さな小屋だった。外観はみすぼらしく、手入れもされていない。壁は黒ずみ、屋根はところどころ崩れかけている。人が住んでいる気配はなく、近寄る者すらいないような場所だった。
だがその下に潜り込めば外からはほとんど視認されない。
意図的に作られた“隠れ場”。
二人はそこに身を滑り込ませる。
ようやく足が止まり、緊張が遅れて身体にのしかかる。
フリントはその場に腰を下ろし、背を壁に預ける。呼吸は荒く、肺の奥がまだ熱を持っている。身体のあちこちに鈍い痛みが残り、力を抜いた瞬間にそれが一斉に浮かび上がってくる。
そんな隣ではオルタディナも同じように腰を下ろしていた。
彼女もまた無傷ではない。戦闘の痕跡がそのまま残り、呼吸の浅さからも疲労が明らかだった。それでも崩れ落ちることなく、最低限の姿勢を保っているあたりが彼女らしいといえばらしかった。
だが言葉はない。沈黙が自然と生まれる。先ほどまでの目まぐるしい展開が嘘のように時間がゆっくりと流れていき、風が隙間を抜ける音だけがかすかに耳に届く。
今回の状況はどこか異質だった。これまでの流れであればすでに“次”に移行しているはずだったのだ。
シエラクロスの死を認識した直後、意識が途切れて再び模擬戦の場へと引き戻される。その繰り返しはほとんど間を置かずに始まる。まるで強制的に巻き戻されるかのように途切れることなく次の局面へと移行していた。
だが今回は違う。あの瞬間を越えても意識は途切れなかった。流れが断ち切られたまま、こちら側に留まっている。まるで本来終わるはずだった舞台の幕が下りた後も、なお続きが存在しているかのような、そんな奇妙な感覚だった。
余韻とも違う。継続とも違う。ただ、“終わりの外側”に取り残されているような、不安定な状態。
その異常さが余計に思考を鈍らせる。
何が起きているのか。この状態が何を意味しているのか。
考えるべきことは山ほどある。
だが言葉にならない。整理が追いつかない。結果として沈黙だけがその場を満たしていく。
彼はゆっくりと目を閉じかけ、そして止める。
このまま沈んでしまえば、また思考を手放すことになる。次を始める必要はあるが、このこれまでと違う展開を放って行くのはきっと駄目だ。
それだけは避けなければならない。
必ずこれには意味がある。
「(……進め)」
胸の奥で自分に言い聞かせる。
どんな状況であれ、止まるわけにはいかない。今回はそれがはっきりと分かっている。
だからこそ、フリントはゆっくりと顔を上げた。
隣にいる少女へと視線を向ける。
何から話すべきかなど分からない。
だがそれでも、沈黙を続けることだけは選べなかった。
ゆっくりと口を開く。
そして少しだけ掠れた声で。
「……助けてくれて、ありがとう」
オルタディナはその言葉に対してすぐに何かを返すことはなかった。
ただわずかに顎を引き、静かに頷く。それだけの仕草だったが軽く受け流したわけではないことははっきりと伝わってきた。言葉にせずとも確かに受け取ったという意思がそこにあった。
再び沈黙が落ちる。
小屋の下に溜まる空気は重く、どこか湿り気を帯びているように感じられる。外から吹き込む夜風が朽ちかけた板をわずかに軋ませ、その音だけが断続的に響く。先ほどまで命のやり取りが行われていたとは思えないほどにこの場所には異様な静けさが満ちていた。
その静けさがかえって二人の思考を縛り付ける。
金髪の少年は膝の上に置いた手を見つめたままゆっくりと指を握り込んだ。関節がきしむ感覚がやけに鮮明で、そこに意識を向けていないとすぐに別のことを考えてしまいそうだった。
何か言わなければならない。
そう分かっている。
だが言葉が出てこない。
整理が追いついていないのではない。むしろ逆だ。言うべきことはすでに決まっている。ただそれを口にすることの重さを理解しているからこそ、踏み出せずにいるだけだった。
ややあって、その沈黙を破ったのはオルタディナの方だった。
「……ごめん」
短く、しかしはっきりとした声。
その一言は思っていた以上に重くフリントの胸に落ちる。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れた。問い返すというより理解が追いつかずに出た反射。だが、 その意味を考えるよりも早く少女は続ける。
視線をわずかに落としながら。
「シエラクロスを助けられなかった。間に合わなかったわ」
淡々とした口調だったがその奥にある悔恨は隠しきれていない。
少年はその言葉でようやく意味を理解する。
あの場面。彼女から見ればシエラはフリントを守っていた存在だ。
つまり味方。その味方を助けられなかった。だから謝っている。
それはあまりにも彼女らしい思考だった。
だがそれだけでは終わらない。赤短髪の少女小さく息を吐き、言葉を重ねる。
「あんたの事情をよく知りもしないで、一方的に糾弾していたわ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「さっきのことも……私が思っていたより、ずっと深刻だったのに、簡単に話せとか言って……」
そこで一度言葉が途切れる。
唇を噛み、わずかに視線を逸らす。
「……軽率だった」
その一言にははっきりとした反省が込められていた。
彼は何も言わない。言えなかった。ただその姿を見ている。これまでの時間が静かに頭の中で繋がっていく。
少女と過ごした時間。強くなるために受けた助言。荒っぽく、それでいて的確な指導。不器用な言葉の裏にあった、確かな意思。
いつもどこかでこちらを見ていた。
気に掛けていた。
それは間違いない。
あの時、シエラを手にかけた場面すら彼女なりの結論だったのだろう。やり過ぎていたとしてもその根底は変わらない。
フリントライズのために。
そうして今も目の前にいる少女は謝り、反省し、それでもなお何かをしようとしている。
その姿を見て金髪の少年の中で何かが静かに定まっていく。
ここで言わなければならない。そう思った。
これまで何度も避けてきた。
言えばどうなるか分からない。理解される保証もない。むしろ壊れる可能性の方が高い。
それでも、このままでは進めない。
フリントはゆっくりと顔を上げ、オルタディナの方へ視線を向ける。
逃げ場を作らないようにまっすぐに。
「……なあ、オルタディナ。俺はお前に話すことが、話さなければならないことがあるんだ」
「話さなければならないこと?」
少年は一度息を整える。
「ああ、何で俺がこんな状態なのか。何で俺がシエラに拘るのか。全てがそれから始まるんだ」
彼女は息を呑む。予想もアテもつかないような話であるのだろう。不安を覚えてはいるが、目を背けない。
「俺はな、オルタディナ……」
胸の奥に溜まっていたものを、押し出すように。
「一度終わったはずの時間を何度も繰り返してる」
「——っ」
言葉が静かに落ちる。
赤短髪の表情がわずかに変わる。だが口は挟まない。
まだこれで話は終わりじゃない。とフリントは続ける。
「シエラが死に、意識を失った瞬間にその世界が全部途切れるんだ。景色も音も時間も全部だ。そこで全てが終わったはずなのに……次に気が付いたら、それらの出来事が最初から無かったかのように戻されている」
ゆっくりと、始まりからこれまでの記憶を確かめるように。
「最初から、模擬戦で彼女に打ち負かされたあの日からやり直して繰り返している」
その言葉は決して誇張ではなかった。
ただ事実をそのまま並べているだけ。
「この話をしているなら分かるだろ? まだ俺は繰り返し続けている。失敗をし続けて何回繰り返したかも、もう正確には分からねえ」
そこで一度、言葉を切る。
視線を逸らさずに。
「でも、ひとつだけ確かなことがある」
少しだけ声に力がこもる。
「何をしてもシエラクロスは必ず死ぬ」
その一言が重く沈む。
空気が、わずかに揺れる。
風の音がやけに遠く感じられる。
フリントはさらに苦しい表情を浮かべながら言葉を重ねる。
「俺が何もしなくても死ぬし、助けようとしても死ぬ。場所も違うし、状況も違う。でも……結果だけは変わらない」
それはこれまで積み重ねてきた現実だった。
覆らなかった事実。
「だから俺は……」
言葉が、一瞬詰まる。
だがそれでも続ける。
「どうすれば変えられるのか、ずっと探してる」
それが今の自分だと。彷徨い続ける亡霊だとそう言い切る。
小屋の中に再び沈黙が落ちる。
だがそれは先ほどまでのものとは違っていた。
ただ重いだけの沈黙ではない。何かが確実に動き始めた後の静けさだった。
金髪の少年はゆっくりと息を吐く。
これまで隠してきたものを、すべて吐き出した。その結果がどうなるかは分からない。
だが——彼はそこから言葉を止めなかった。




