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第六章 弱まる火花⑤

 絶望的な展開だった。

 状況は覆らない。覆せる余地すら最初から残されていなかったのだと、今になってはっきりと理解できる。囲まれ、逃げ場はなく、守るべき存在は既に目の前で失われている。ここから先にあるのはただ順番が回ってくるだけの結末に過ぎない。

 フリントは、迫り来る気配を前にしてなお、その場から動かなかった。

 動けなかったのではない。動かなかった。

 ほんの少し前までの自分なら無駄だと分かっていても抗っていたかもしれない。あるいは、逆に最初から諦めて目を逸らしていたかもしれない。

 だが今は違う。

 そのどちらでもない場所に立っている。

 胸の奥に残るのはただひとつの明確な認識だった。


「(……逃げたのは俺だ)」


 ゆっくりと息を吐く。

 自分がどこで間違えたのかはもう分かっている。

 踏み出すべき瞬間に踏み出さなかった。

 守ろうとした存在をただ見てしまった。

 それだけのこと。それだけのことが取り返しのつかない結果を招いた。

 その事実を今は受け入れるしかない。

 だが——。


「(……次は、間違えねえ)」


 静かに決意が固まる。

 繰り返すことができるという前提があるからこそ、そこに甘えていた自分がいた。失敗してもやり直せる。だから今は無理をする必要はない。そんな考えが、無意識のうちに行動を鈍らせていた。

 だがそれは違う。

 やり直せるからこそ、その一回一回に意味を持たせなければならない。

 その場で踏み出さなければ何も変わらない。


「(……次は)」


 同じことは繰り返さない。そう心に刻む。

 視界の中で気配がさらに近づいてくる。

 複数の存在が確実に距離を詰めている。闇の中で位置は見えないが、その圧だけで十分だった。逃げ場はない。抗う術もない。

 だからこそフリントはゆっくりと目を閉じた。

 迫り来る気配を前にして恐怖がないわけではない。だがそれ以上に受け入れている。

 ここで終わることを。

 そしてその先にある“やり直し”を。

 これまで何度も繰り返してきた流れ。

 シエラクロスが死ぬ。その事実を認識した直後に意識が途切れ、次の周回へと移行する。それが条件だった。

 だから今回も同じはずだ。

 このまま意識は遠のく。暗闇に沈み、次の瞬間にはまたあの場所へ戻る。

 そう、分かっている。

 だから最後に一つだけ。


「(……次は、ちゃんとやる)」


 その決意を胸に刻みながら金髪の少年はすべてを手放した。


「——?」


 ——はずだった。


 だがいつもの感覚が、来ない。

 意識が、遠のかない。

 暗闇に沈んでいくあの独特の感覚。音が消え、身体の感覚が薄れていき、やがてすべてが切り替わるあの瞬間。

 それが、訪れない。


「(……は?)」


 思考がわずかに揺れる。

 目は閉じている。だが周囲の気配は消えていない。

 むしろはっきりと近づいてきている。


「(……なんでだ?)」


 違和感が急激に膨れ上がる。これまでと同じ条件は満たされているはずだ。

 シエラクロスは死んだ。それをこの目で認識した。ならば次に起こるべきことは決まっている。

 なのに——。


「(……なんで、戻らねえ)」


 意識はここにある。

 消えない。途切れない。ただその場に留まり続けている。

 理解が追いつかず、胸の奥で別の感情がゆっくりと広がっていく。

 それはこれまでとは質の違うものだった。

 恐怖。

 もっと根源的で、もっと逃げ場のないもの。


「(……まさか)」


 嫌な予感が形を持つ。

 これまでの前提が崩れ始めている。


「(……終わらねえのか?)」


 その疑問が頭の中に強く残る。

 答えはまだどこにもなかった。


 ——ただ。


「——?」


 その異変はあまりにも唐突だった。

 闇に包まれた空間の中で確かに迫ってきていたはずの気配が、次の瞬間にはわずかに揺らぐ。均衡が崩れたわけではない。ただ、ほんの一部が欠けたような、そんな違和感。

 そして——低く押し殺されたような声が空気を裂いた。

 呻き声。あるいは悲鳴に近いもの。

 だがそれは長く続かない。途切れるように、押し潰されるように、音はそこで終わる。

 フリントの思考が一瞬遅れてそれを認識する。

 意味が分からないと。

 この場には自分とシエラクロス以外はすべて敵しかいないはずだった。互いに連携し、配置され、逃げ場を塞ぐために動いている連中。その中で内側から崩れるような音がする理由がない。

 同士討ちか。いやそれにしては気配の動きが違う。

 統制が乱れたというよりも、“一点”だけが切り取られたような感覚。


「(……なんだ、今の)」


 疑問が浮かぶ。

 だがそれに答えが与えられるよりも早くフリントは行動に移っていた。

 ゆっくりと目を開ける。

 もし視界が変わっていなければ自分はまだここにいる。やり直しは発動していない。つまりこの場で何かが起きているということだ。

 まぶたの裏に残っていた暗闇が徐々に現実へと切り替わる。

 幸いだったのは先ほどまで目を閉じていたことだ。視界を遮断していた分、暗闇への適応が早い。開いた瞬間にはすでに夜目が効き始めていた。

 ぼんやりとした輪郭がすぐに形を持つ。闇の中に潜んでいたはずの気配がわずかに乱れているのが分かる。

 一箇所。そこだけが不自然に空いている。

 地面に倒れた影がひとつ。その周囲の空気がわずかに引いている。

 押さえつけられるように気配が散る。

 その中心に——ひとつの影が立っていた。

 細い体躯。だがその立ち方は場のすべてを制圧しているかのように安定している。

 足元には、崩れた刺客の一人。動かない。完全に無力化されている。

 何が起きたのかを理解するのに時間はかからなかった。

 圧が、違う。

 それまで周囲を支配していた“複数の圧”が、その一点に吸い寄せられるように集まり、逆に押し返されている。

 主導権が奪われていのだ。

 たった一人でそれを成し遂げている存在がそこにいた。

 少年の喉がわずかに震える。

 そして言葉が勝手に漏れる。


「——おまぇ」


 視界がはっきりと定まる。

 そこには赤い短髪が夜の中で揺れていた。

 灯りの乏しい空間の中でもその色だけははっきりと浮かび上がる。鮮やかというよりも、どこか乾いた血のような色合い。それが静かな怒気を纏うように揺れている。

 その少女は振り返らない。ただそこに立っている。崩した敵を踏み越え、次の動きに備えるようにわずかに重心を落としながら。

 場の空気が変わっていた。先ほどまでフリントへと向けられていた敵意が今は明確にその少女へと移っている。

 それでも彼女は動じない。むしろそれを当然のように受け入れている。

 その姿を見た瞬間、彼の中でひとつの理解が形を持つ。

 この流れを崩したのは間違いなく——オルタディナだと。

 しかし目の前で起きている現実をフリントの思考はすぐには受け入れきれない。赤い短髪の少女——オルタディナがその場の均衡を崩していることに。

 それでもすでに彼女は動いていた。

 次の刺客も踏み込む。

 先程の一人は不意打ちだった。完全に意識の外から叩き落とした一撃。だからこそ成立した。

 今は違う。相手も状況を理解している。闇の中から伸びてくる刃は鋭く、間合いも正確だった。単なる数で押してくる連中ではない。一人一人が、確かな技量を持っていることが伝わってくる。

 だがオルタディナは一歩も退かない。

 受けるのではなく、流す。真正面からぶつかるのではなく、わずかに角度をずらし、刃をいなす。その一瞬のズレで体勢を崩させ、追撃に移る前に別の気配へと意識を切り替える。

 複数を相手にした動き。

 一対一の強さとは違う、“崩さない”ための立ち回り。

 無理に倒しにいかない。だが完全に主導権を渡すこともない。絶妙な距離感を保ちながら常に次の一手へと繋げていく。

 その動きに無駄はなかった。


「(……やっぱり、すげぇな)」


 フリントの中でそんな感想が浮かぶ。

 実力は本物だった。いやそれだけでは足りない。

 才能。その言葉がこれほどしっくりくる存在もない。

 積み重ねではない。磨き上げた技術でもない。生まれ持った感覚とそれを即座に戦場で使いこなす適応力。

 まさに権化だった。

 一人を完全に制圧することはしない。だが、その代わりに全体を崩させる。踏み込ませず、詰めさせず、間合いの主導権を渡さない。その中でわずかに圧をかける。ほんの少しだけ前へ出ることで相手の意識を引き、勢いを削ぐ。躊躇を生ませる。それだけで時間が生まれる。その刹那の隙に彼女の視線が一瞬だけ動く。

 周囲を俯瞰するようなわずかな仕草。次に何をするべきかをすでに組み立てている。

 判断は迷いなく下された。一人の刺客の懐へと踏み込み、そのまま蹴り上げる。体勢を崩された相手が後方へと弾かれる。その動きと同時に彼女の身体が反転する。

 次の瞬間にはフリントのすぐ隣に立っていた。

 あまりにも自然な流れで。まるで最初からそこにいたかのように。

 金髪の少年は、息を呑む。

 だがその驚きに浸る暇すら与えられなかった。


「早く逃げるわよ」


 短く、しかしはっきりとした声。

 そこに迷いはない。


「合図したら閃光弾を打つわ」


 状況を把握し、必要な行動だけを提示する。

 そんな彼女に彼は反射的に返す。


「……準備よくねえか?」


 その言葉にわずかに眉を寄せながらもオルタディナは視線を前から外さない。


「いいから。さ、行くわよ」


 それ以上の説明はない。だがそれで十分だった。

 彼女の手が腰に装着されたポーチへと伸びる。取り出されたのは小さな球状の物体。

 次の瞬間、それが闇の中へと放たれる。

 一拍。

 そして——閃光が弾けた。夜の平原にあり得ないほどの光が広がる。

 視界が白く染まり、空間の輪郭が一瞬で消し飛ぶ。

 暗闇に慣れた目にはそれは致命的だった。

 刺客たちの動きが一斉に鈍る。

 ほんの一瞬だが、それで十分だった。


「行くわよ!」


 その声と同時に彼女が走り出し、フリントも遅れて踏み出す。身体がようやく動き、止まっていた時間が再び流れ出す。

 二人はその隙を縫うようにして休憩所を抜けた。

 背後で気配が動く。

 追撃の気配。だが先ほどまでの圧はない。

 わずかな遅れが距離を生む。それを逃さずさらに速度を上げる。平原へと飛び出し、夜の空気が頬を切り、その中で少年の視線がわずかに後ろへと向く。

 そこにあったのは——地面に横たわる群青の少女の姿だった。

 動かない。静かでまるで最初からそこにあったかのように姿が遠くなっていく。

 胸の奥が強く軋み、苦い感情が込み上げる。


「(……すまねえ)」


 声にはならない。だが確かにそう思った。

 次は、迷わない。同じことは繰り返さない。

 その誓いを強く胸に刻みながら。フリントライズ前を向いたまま走り続けた。


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