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第六章 弱まる火花④

 ——では、どうすればいい?


 その問いが浮かんだ瞬間、金髪の少年の中で答えはすでに半分以上決まっているようなものだった。

 暗闇の中、気配だけがじわりと広がっていく。どこにいるのかははっきりと分からない。だが、“いる”という確信だけが確実に周囲を満たしている。息を潜めているわけでもない。むしろ、こちらに気付かせることすら計算に入れているようなそんな圧のかけ方だった。

 逃げ道はない。

 そう判断するには十分すぎる状況だった。


「(……戦うのか?)」


 頭の中で形式的に選択肢が並ぶ。

 だが即座に否定される。

 前回ですら勝ち目はなかった。あの時は視界も開けていたし、位置も把握できていた。それでも押し切られた。力の差は明確だった。

 今回はそれ以上に条件が悪い。

 視界はほとんど効かない。光源は落とされ、周囲の把握すら困難だ。相手の位置も数も曖昧なままでは戦う以前の問題だった。


「(……無理だ)」


 あまりにも単純な結論。逃げることすら難しい。いや、ほとんど不可能に近い。

 暗闇の中で、囲まれている。進めば当たる。動けば気付かれる。そもそも、どの方向に抜け道があるのかすら分からない。

 それでも。


「(……何とかしねえと)」


 そう思考が続く。

 だがその直後に、別の感覚がそれを押し潰す。

 諦め。

 それは静かに、しかし確実に広がっていく。


「(……意味あんのか)」


 胸の奥で、低く呟く。

 何度も繰り返してきた。抗った。足掻いた。選択を変えた。

 だがその結果はどうだった?


「(……変わらなかっただろ)」


 シエラクロスは死ぬ。場所が変わっても、手段が変わっても、理由が変わっても、その一点だけは動かない。


「(……じゃあ)」


 抗う意味はあるのか。

 この瞬間、この状況で、無理に動く意味があるのか。

 答えは、出ている。

 視線を横へ向ける。シエラがわずかに前へ出ていた。

 構えは崩していない。視線は闇の中へ向けられ、わずかな気配の変化すら拾おうとしている。呼吸も浅く、しかし乱れてはいない。完全に戦闘態勢だった。


「(……分かってる)」


 この状況でも。いやこの状況だからこそ。フリントを逃がそうと考えている。

 自分を盾にしてでも。

 そのために思考を巡らせている。


「(……違う)」


 胸の奥で否定が浮かぶ。

 前提が違う。根本的に。


「(……狙いは俺じゃねえ)」


 奴らの目的は最初から一つだ。

 シエラクロス。それ以外はどうでもいい。フリントライズという存在は、ただの副産物に過ぎない。

 たまたまその場にいた目撃者。

 必要だからではない。邪魔だからでもない。ただ、“処理するべき存在”として。

 それだけの理由で。


「(……だったら)」


 どう足掻こうが結論は変わらない。シエラが標的である以上彼女は狙われる。自分が何をしようがその事実は動かない。

 むしろ。


「(……下手に動いた方が、ズレる)」


 余計な介入は状況を歪める。

 これまで何度も見てきた。変えようとした結果、別の形で同じ結末に辿り着く。

 ならば何もしない方が、その方がまだ次に繋がる。

 そういう判断だった。

 金髪の少年はゆっくりと息を吐く。

 指先から力が抜けていく。握っていた拳が、わずかに緩む。


 ——どうせ、またやり直す。


 その事実がすべてを軽くする。今ここで何をしようがどうせ終わる。だったら無駄な足掻きに意味はない。

 それよりも次を考えた方がいい。

 どうすればいいのか、どこでズレたのか、何をすればこの構造を崩せるのか。そちらの方がずっと建設的だ。

 目の前の現実から意識が少しだけ離れる。それは逃避に近い思考だったが、今のフリントにとってはそれが最も合理的な選択でもあった。

 だからこそ。

 この状況に対して彼は半ば諦めていた。

 気配がゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。

 最初は曖昧だったそれが時間の経過とともに輪郭を持ちはじめる。風の流れがわずかに変わり、草が擦れる音が不規則に混じり、地面を踏む圧が重なっていく。それら一つ一つは微細で、単独では気にも留めないようなものだったが、重なり合うことで明確な“意図”を帯び始めていた。

 囲まれている。

 そう理解するのに時間はかからなかった。

 数は一つではない。複数。しかもただの素人ではない。配置の取り方が自然すぎる。逃げ道を塞ぐように間合いを広げ、無駄な音を立てず、だが存在だけは確実に伝えてくる。こちらに気付かせることすら織り込み済みのような、そんな圧のかけ方だった。

 夜の休憩所には、本来あるはずの穏やかな空気はもう残っていない。風の音や虫の鳴き声は確かに存在しているはずなのに、それらがすべて遠のき、代わりに張り詰めた緊張だけがその場を支配していた。

 フリントの呼吸がわずかに浅くなる。

 隣にいるシエラもまた同じようにその気配を感じ取っていた。わずかに重心を落とし、身体の向きを変え、視線を闇へと向ける。その一連の動きには迷いがない。だが、その内側にある疲労の蓄積までは隠しきれていなかった。オルタディナとの戦闘を経て、休む間もなくここまで来ている。その身体が万全であるはずがない。

 それでも彼女は立つ。

 前へ出るために。

 そのときふと、シエラが振り返った。

 それはほんの一瞬の動きだったが、フリントの視界にはやけに鮮明に焼き付いた。

 その表情を見た瞬間、息が詰まる。

 そこにあったのは緊張でも覚悟でもなかった。

 むしろその逆だった。

 どこか柔らかく、穏やかで、まるでこの場にあるはずのない温度を帯びているような表情。言葉はないのに、確かに伝わってくるものがあった。大丈夫だと、心配するなと、そう告げているかのようなそんな顔。

 

 ——どうしてそんな風に振る舞える?


 この状況で、この圧の中で、他人を気遣う余裕がどこにある。

 何故そこまでして助けようとする? 何を見て、何を知って、そこまで踏み込める?

 問いは瞬時にいくつも浮かび上がったが、それを口にする暇は与えられなかった。

 次の瞬間、シエラの身体が動く。

 踏み込みに迷いはなく、群青の髪が夜の空気を切るように揺れ、そのまま暗闇の中へと滑り込んでいく。音を最小限に抑えたその動きは単なる突撃ではなく、明確な意図を持ったものだった。

 だが、それでも状況は変わらない。

 数は圧倒的に不利であり、彼女の体力もまた限界に近い。オルタディナと正面からぶつかり、その余力を削られた状態で、さらに複数を相手にする。それがどれほど無謀な行為であるかは考えるまでもない。

 普通であればできるかどうかを考える。勝てるかどうかを測る。逃げられるかどうかを判断する。だが彼女はそうしていない。

 そのことに彼はようやく気付く。

 彼女はできるかどうかで動いていない。ただそれをやると決めているだけだ。それだけで前へ出ている。例えその先にあるものが自分の破滅であったとしても。

 少年の口元がわずかに歪む。

 それは目の前で無謀な行動を取る彼女を嘲るものではなかった。

 むしろその逆だった。

 胸の奥から、鈍い感情が込み上げてくる自分に対する、嫌悪と情けなさ。今この瞬間、何もせずに立ち尽くしている自分自身への。

 これまで何度も繰り返してきた。抗い、足掻き、選択を変えてきた。

 だがその過程でいつの間にか変わってしまっていたものがある。失敗を知り、結果を知り、未来を知ることで行動の基準が変わっていた。

 安全な選択。無駄を省いた判断。だがそれは同時に踏み込まない理由にもなっていた。

 彼女は違う。ここで終わるかもしれない。やり直しはない。

 次は——ない。

 それでも、立っている。それでも、前へ出る。   

 それでも、戦う。

 フリントには次がある。

 やり直しができる。時間がある。猶予がある。繰り返すことができる。

 それなのに今、この瞬間の自分はどうだ。

 諦めかけていた。抗う前に意味がないと決めつけていた。変わらないとそう断じていた。

 だが、それは違う。まだ終わっていない。この繰り返しを抜け出すための意志は消えていない。

 ただ見失っていただけだ。

 そして何よりも目の前にいる彼女はまだ諦めていない。その事実が何よりも強く胸を打つ。

 先に折れていい理由などどこにもない。

 握り締めた拳に再び力が込められる。先ほどまでのそれとは違う、明確な意思を持った力だった。

 負けていられない。

 その感情がゆっくりと形を持つ。

 勝ちたい。追い越したい。あの背中を。

 そして、証明したい。最強が誰なのかを。

 そのためにここまで来たはずだった。だったらここで止まる理由はない。不条理であろうと、理不尽であろうと、それが何だというのか。それを理由にして、動きを止めるためにここまで来たわけではない。

 すべてを受け入れた上で、それでもなお抗うためにここにいる。

 少年はゆっくりと顔を上げる。視線の先には暗闇の中で戦うシエラの姿がある。

 その背中を見据えたまま、身体に残っていた躊躇を押し殺し、足に力を込める。

 そして、前へと踏み出した。

 だが——時すでに遅かった。

 人は立ち止まることがある。それを責めることはできない。疲れれば足は鈍るし、恐怖や迷いに捕まればどうしても一歩が出なくなる瞬間はある。誰にでもあるごく当たり前の弱さだ。

 しかし、すべてがそれを許すわけではない。

 止まる者を待ってくれるものも確かにある。手を差し伸べる誰か、呼び止めてくれる誰か、引き戻そうとしてくれる存在もいる。

 ただし敵は違う。世界も違うし何より時間は決して立ち止まらない。

 置き去りにされる。ただそれだけだ。

 立ち止まった分だけ押し流される。その差はほんの一瞬かもしれない。だがその一瞬が——取り返しのつかない結果を生む。

 今回の失敗はそこにあった。

 踏み出すべき瞬間に踏み出せなかったこと。守ろうと動いた存在をただ見てしまったこと。その一瞬の躊躇がすべてを決定づけた。

 金髪の少年はそれを理解してしまった。

 遅れて。あまりにも、遅れて。

 視界の中でシエラの動きが変わる。囲まれた中でそれでもなお最短で突破口を見出そうとしていた彼女の軌道がほんのわずかに乱れる。

 一瞬の隙。それはわずかに過ぎる時間だった。

 だがそれで十分だった。

 闇の中から刃が伸びる。

 音はない。風を切る気配すらほとんど感じられない。ただ確実にそこにあった。

 シエラの身体がわずかに揺れ、遅れて血が弾ける。

 淡い月明かりの中でそれは異様に鮮やかだった。

 白い髪に暗い色が滲む。空気の中に鉄の匂いが混じる。

 彼女の動きが止まる。それでも完全には崩れない。

 まだ、立っている。

 だが——次の瞬間、別の刃が走る。

 今度は避けきれない。

 細い身体が後ろへと引かれるように傾く。

 まるで花弁が風に揺られるように、静かであまりにもあっけなく摘み取られる。

 抵抗もなく、抗いもなく、ただそこにあった命が丁寧に奪われていく。

 音は、ほとんどなかった。

 叫びもない。ただ空気がわずかに震えるだけ。その静けさが逆に現実味を奪う。

 ゆっくりと彼女の身体が崩れる。膝が折れ、支えを失った身体が地面へと近づいていく。その過程すらどこか現実から切り離されたように見えた。

 落ちていく。花が地面に落ちるように。静かに。

 あまりにも、静かに。

 フリントの視界がその光景で埋まる。

 思考が、追いつかない。理解が、拒絶する。それでも、目は逸らせない。その結果だけがはっきりと刻まれる。


「——っ!!」


 喉の奥から音にならない声が漏れる。

 拳が強く握り締められ、爪が食い込み、皮膚が裂ける感覚すらある。

 それでも力は緩まない。胸の奥に複雑な感情が一気に流れ込む。

 後悔。怒り。無力感。

 そして——はっきりとした自己嫌悪。

 自分が止まったからだ。あの一瞬で踏み出さなかったからだ。助けようと動いた彼女をただ見ていたからだ。

 それがすべての原因だった。

 その感情が金髪の少年を内側から締め上げる。だがその時間は長くは続かなかった。

 次の瞬間、空気が変わる。

 気配が一斉にこちらへと向く。それまでシエラへと向けられていた意識がゆっくりと、しかし確実に移ってくる。

 闇の中に潜んでいた視線がひとつに収束する。

 フリントへと、標的が変わる。

 理由は単純だった。

 目撃者。それだけで十分だ。敵意が明確な形を持って少年へと向けられる。

 逃げ場はもうどこにもなかった。

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