第六章 弱まる火花③
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都市の外へと続く道を、フリントはほとんど意識の外で走り続けていた。
肺は焼けつくように痛み、吸い込む空気はどこか薄く頼りない。喉は乾き切り、呼吸のたびにかすかな擦過音が自分の内側から響いてくる。足は重く、地面を蹴っている感覚すら曖昧になっていたが、それでも止まらなかった。止まれば、何かに追いつかれる——そんな単純な恐怖ではない。もっと曖昧で、もっと逃げ場のない感覚。まるで“ここにいること”そのものを否定されるような、そんな嫌悪感が背中を押していた。
それでも、思考だけは奇妙なほどに澄んでいた。
「(……なんでだ)」
何度も何度も繰り返す問い。
オルタディナが追ってくる理由は分かる。あの性格だ。あそこまで感情を露わにした以上、簡単に引くとは思えない。放っておけないと判断すればどこまでも追い詰めてくる。それはこれまでの周回でも何度か見てきた反応だった。
しかし。
「(……シエラは、なんでだよ)」
その一点だけがどうしても理解できない。
関わらないと決めたはずだった。関われば歪む。だから避けた。距離を取った。彼女のルートに踏み込まないように選択肢を削り続けてきた。
それなのに、あの場面で、ああして、割り込んできた。
しかもためらいなく。刃を振るってまで。
「(……ありえねえだろ)」
思考が鈍く沈む。また知らない道筋。また、 想定外の分岐。何もしていないはずなのに、何も起こさないようにしているはずなのに、それでも現実は別の形でねじ曲がる。
「(……間違えたのか)」
そう考えるしかない。
ただ、その“間違い”がどこにあったのかが分からない。
どの瞬間が分岐だったのか。何を避ければよかったのか。何をしなければこの結果にならなかったのか。
「(……分かるわけねえだろ)」
吐き捨てるように思う。
思考の奥で別の感覚が浮かび上がる。
「(……見られてるみてえだな)」
自分の行動がどこかで。
選択の一つ一つが監視されているかのような感覚。
逃げ道を選べば塞がれる。関わらなければ向こうから寄ってくる。回避したはずの出来事が形を変えて目の前に現れる。
「(……ふざけんなよ)」
だがその苛立ちすらすぐに疲労に押し潰される。
やがて足が鈍り、走る速度が落ちる。息が続かない。身体が言うことを聞かなくなる。
気付けば、空は完全に夜へと沈んでいた。
⸻
平原の道に出たとき、フリントはようやく足を止めることを許した。
都市の灯りは背後で小さく揺れている。完全に消えたわけではないが、もう手の届く距離ではない。その距離がわずかな安堵を生んでいた。
視界の先に、ぼんやりとした灯りが浮かぶ。
休憩所だった。
平原を横断する街道の途中に設けられた、簡易的な休息の場。旅人や商人が道中で身体を休めるために作られた場所であり、長居をすることを前提としていない構造をしている。
近づくにつれてその全貌が見えてくる。
地面はざっくりと整地されているが、完全に均されたわけではなく、ところどころに草が残り、踏み固められた土の色がまだらに浮かんでいる。広さだけは無駄にあり、開けた空間が夜の中にぽっかりと口を開けているような印象を受ける。その中央付近に木製の簡素な屋根がいくつか並び、その下にベンチが置かれている。柱はやや傾いているものもあり、長年使われてきた痕跡がそのまま残っていた。雨風をしのぐ最低限の役割は果たしているが、居心地の良さとは無縁の造りだ。
周囲には灯りとして松明が点々と設置されているが、その光は弱く、範囲も狭い。光と影の境界がはっきりしており、少し離れればすぐに闇が広がる。
フリントはその中へと足を踏み入れる。
もう限界だった。
屋根付きのベンチに辿り着き、腰を下ろした瞬間、全身から一気に力が抜ける。背もたれに体重を預けると骨の一本一本が軋むような感覚が伝わってきた。
深く息を吐く。肺の奥に溜まっていた熱がゆっくりと外へ逃げていく。だが、呼吸はすぐには整わない。吸っても吸っても足りないような感覚が続き、胸の奥がひりつく。喉は乾ききり、舌の感覚も鈍い。身体がようやく“止まった”ことを認識し始めている。
夜風が、肌を撫でる。都市の中とは違う開けた空気。少し冷たく、乾いている。その感触が、火照った身体には妙に心地よかった。
視線を巡らせる。
人は少ない。しかし完全に無人ではない。
離れた位置に旅人らしき男が一人、荷物を枕にして横になっている。粗末な布を被り、眠っているのかそれともただ目を閉じているだけなのか判別がつかない。
少し離れた場所では、商人と思しき二人組が低い声で何かを話している。内容までは聞こえないが、断片的な単語と小さな笑いが夜の静けさに溶けている。
さらにその外れ、灯りの届くぎりぎりの位置には鎧を身につけた兵士が一人立っていた。槍を持ち形式的に周囲を見回しているが、その視線には明らかな退屈が滲んでいる。こんな時間に、こんな場所へ配置されるのは外れもいいところだ。
人数にして4人。それでもこの広さの中では互いの存在は希薄だった。
干渉もなく、視線も交わらない。ただそれぞれがそれぞれの理由でこの場所に留まっているだけ。
静かだった。
風の音が平原を撫でる。草が擦れる音がかすかに耳に入る。遠くで虫が鳴いている。気付けば少し人も増えて雰囲気が賑やかになり、そのすべてが妙に現実的で、それでいてどこか遠い。
フリントは、ゆっくりと目を閉じる。
「(……抜けた)」
そう思った。
完全ではない。まだ都市の影響圏の内側だと分かっている。それでもあの場所からは離れた。同じ空間にいない。それだけで胸の奥に張り付いていた圧がほんのわずかに緩む。
「(……これで、終わるかもしれねえ)」
そんな考えが、浮かぶ。
だがその直後に別の感情が押し返す。
「(……そんな簡単に終わるか?)」
これまで何度も裏切られてきた予測が頭の中で警鐘を鳴らす。
それでも今だけは、その可能性に縋りたかった。
呼吸が少しずつ整っていく。鼓動が落ち着いていく。身体の震えが、ようやく収まっていく。
ほんのわずかな安堵。
だがその隙間に——違和感が入り込む。
気配。この静かな空間の中で明らかに異質な存在感。
フリントはゆっくりと目を開け、視線を上げる。
そこに立っていたのは——シエラクロスだった。
「……おまえっ」
「やっと見つけた」
群青の髪が休憩所の灯りに淡く照らされている。
息を乱している様子はない。走ってきた形跡もない。ただ、最初からそこにいたかのように自然にその場に立っている。
都市の中で見た姿と何一つ変わらない。
それが逆に現実味を奪う。
逃げたはずだった。離れたはずだった。
それでも。また、目の前にいる。
まるで——どこまで行っても逃がさないとでも言うように。
———
休憩所の屋根の下に静かな時間が流れていた。
夜風は絶え間なく吹き抜け、柱の隙間を通りながら低い音を立てる。遠くで鳴く虫の声が一定の間隔で空気を震わせる。それ以外にはっきりとした音はない。人の気配は確かにあるはずなのに、互いに干渉しない距離がその存在感を希薄にしていた。
フリントはベンチに腰を下ろしたままわずかに前傾姿勢を取っていた。両肘を膝に乗せ、指先を組み、視線を落としている。呼吸は先ほどよりも落ち着いてきたが完全に整ったわけではない。胸の奥に残る鈍い痛みが走り続けてきた疲労を遅れて伝えてくる。
その隣に、シエラクロスが座っている。
一定の距離を保ったまま同じ方向を向いて。
何も言わない。視線も合わせない。ただそこにいる。
それだけでこの空間の温度が微妙に変わっている。
フリントは何度か言葉を探した。
だが、出てこない。
何を聞けばいいのか、何から聞くべきなのか、それ以前に——どこまで聞いていいのかすら分からなかった。
沈黙が重く積もる。
その中で思考だけがゆっくりと巡り始める。
「(……なんでここにいる)」
まず浮かんだのは単純な疑問だった。
どうやって見つけたのか。
距離はあった。時間もそれなりに経っている。走り続けていたとはいえ、一直線に来たわけではない。道も複数ある。偶然で辿り着ける距離ではない。
「(……追ってきたのか?)」
だとしたらその手段は何だ。
気配を辿ったのか。位置を把握していたのか。そもそも最初から逃げ切れる前提が間違っていたのか。
思考がそこから広がる。
「(……オルタディナは)」
あの場に残ったはずだ。
あれだけの距離を作ったとはいえ、完全に撒いたとは思えない。シエラが足止めしていたのは分かる。だがそれでも時間は限られている。そして彼女と一戦交える為に取られた時間があるにも関わらず追い付いている。物理的にも相当な無理や無茶を押し通してじゃなければ説明が付かない。
そしてそもそも気になるのは。
「(……どうなった)」
負けたのか、引いたのか。それとも別の手段でこちらを追っているのか。
答えはどこにもない。横を見れば当の本人がいるはずなのにその口は閉ざされたままだった。
「(……なんで何も言わねえんだよ)」
その沈黙が余計に不気味だった。問い詰めるでもなく、責めるでもなく、説明するでもない。ただそこにいるだけ。
それが一番理解できなかった。
フリントはわずかに視線を横へ動かす。
暗がりの中、シエラの輪郭が灯りにぼんやりと浮かび上がる。
そこで違和感に気付いた。
「(……傷?)」
よく見れば、彼女の服にはいくつかの汚れがついていた。土の跡、擦れた痕、ところどころに黒ずんだ部分がある。よく目を凝らせば腕や首筋にも薄く線のようなものが走っている。
切り傷。浅いが確実に斬撃の跡。
「(……やり合ったのか)」
確信に近い理解が胸の奥に落ちる。
重症ではない。だが、ただの牽制では済まない程度には激しい戦闘があったことは間違いない。
オルタディナとシエラクロス。あの二人が正面からぶつかった。その結果がこれだ。
フリントの中にわずかな感情が生まれる。
心配だった。
自分でも意外なほどに自然に。
「……お前」
口を開く。
声が少し掠れる。
「怪我……してるだろ」
それは問いというより確認に近かった。
シエラは少しだけ間を置いた。
視線は前に向けたまま。
やがて、静かに口を開く。
「……大丈夫」
短い答え。
だがそれで終わらなかった。
「……彼女は強かった」
淡々とした言い方だった。
事実を述べるだけの声音。
「止めようとした。だけど下がらせるだけで精一杯だった」
その言葉の中にわずかな疲労が滲んでいる。
完全に勝ったわけではない。押し切ったわけでもない。あくまで時間を作っただけ。
「……でも」
一瞬、言葉が切れる。
「……あれは、諦めてない」
断言だった。
感情は薄いが確信は強い。
「どう動くかは分からない。でも……また来る」
その一言で空気がわずかに重くなる。
追ってくる。また。この距離まで。
フリントはわずかに息を吐いた。
「……そうか」
短く返す。
それ以上の言葉は出てこない。
理解はしている。あの執念なら来るだろう。それでもどこか現実感が薄い。この状況そのものがすでに現実から外れているように感じていた。
沈黙が戻る。
風の音がまた耳に入る中、フリントは視線を落としたまま考える。
まだ聞いていないことがある。いや、本来なら最初に聞くべきだったこと。
「(……なんで助けた)」
どうして自分を助けたのか。どうしてあの場で割り込んできたのか。
そして——。
「(……なんで追ってきた)」
ここまで来て何をするつもりなのか。
その答えがどこにもない。だが口に出すのをためらう。
聞いた瞬間何かが決定的に変わる気がした。逃げ道がなくなるような、そんな予感があった。
だから、言えない。
フリントが言葉を選びあぐねているその一瞬の隙を突くようにシエラが先に口を開いた。
「……フリント」
静かな声だった。
だがその一言だけで空気が変わる。
フリントの思考が止まる。
彼女は視線をわずかにこちらへ向ける。が、すぐには言葉を続けなかった。
何かを言おうとして止まる。ほんのわずかな間だが、その沈黙には明確な意味があった。迷っているのではない。躊躇している。口に出してしまえば取り返しがつかない何かを、ぎりぎりのところで押しとどめているような、そんな張り詰めた気配。
フリントはその様子を黙って見ていた。
呼吸はすでに落ち着いているはずなのに胸の奥だけが妙にざわつく。
やがてシエラはゆっくりと唇を開いた。
その動きは小さく、ほとんど音を伴わない。だがわずかに震えているのが分かる。綺麗に整った唇が、血の気を帯びないまま、かすかに揺れる。
それでも、言葉は落ちてきた。
「……無理しなくて、いいんだよ?」
静かな声だった。
あまりにも、静かすぎた。
風の音に紛れてしまいそうなほどに弱く、それでいて確かに耳に届く。
その一言が空気の質を変える。フリントの思考が一瞬だけ空白になる。
理解が追いつかない。意味を咀嚼するよりも先に、その言葉そのものが奥底に沈んでいた何かに触れた。
「(……なんだ?)」
胸の奥で何かがわずかに軋む。
「(どうして、そんなことを言う?)」
疑問が浮かぶ。
見透かされたような感覚。
だがそんなはずはない。
何も話していない。何も説明していない。それなのにどうして。
「(……分かるわけねえだろ)」
反射的に思考が拒絶する。
オルタディナは違った。
あいつは、聞く。
分からなければ問い詰める。逃げれば追いかける。強引にでも引き戻そうとする。そのすべてが“理解しようとする行為”だった。
だから、分かる。あいつの行動は理解できる。
だが——。
「(こいつは、違う)」
聞かない。確かめない。それなのに、まるで最初から知っているかのように言葉を投げてくる。
それが、理解できない。
「……」
フリントは、ゆっくりと顔を上げる。
視線がシエラへと向く。その目の奥にはさっきまでとは別の色が宿っていた。
戸惑いでも、困惑でもない。
もっと冷たい、何か。
「投げ出して、逃げて、目を背けてもいい……」
言葉を繰り返す。噛みしめるように。
そしてそのまま視線を逸らさずに問いかける。
「……と、お前はそう言うのか?」
声は低く抑えられている。
だがその奥にある感情は隠しきれていない。
両の手は無意識のうちに強く握り締められていた。指先に力が入り、関節が白く浮き上がる。爪が掌に食い込む感覚すら、はっきりと伝わってくる。
それでも力は抜かない。むしろさらに強く握り込む。
「(……違う)」
確信に近い違和感が胸の奥で広がる。
何かが決定的に違う。目の前にいるのはシエラクロスのはずだ。
これまで何度も見てきたはずの、あの存在。
それなのに。
「(……こんな言葉、言う奴じゃねえだろ)[
これまでの彼女ならこんな言い方はしない。
こんな風に相手の内側に踏み込むような言葉は選ばない。もっと無関心でもっと距離を取っているはずだ。
それが今は違う。
「……」
シエラはすぐには答えなかった。
フリントの問いを受け止めたまま、わずかに視線を揺らす。その動きは小さいが、はっきりとした迷いがあった。
何かを言おうとして、止める。
その繰り返し。
まるで自分の中にある言葉と、それを口に出していいのかという判断が、噛み合っていないように見える。
フリントはその様子を見ながら、思考をさらに深く沈めていく。
「(……やっぱり、おかしい)」
これまでの周回を頭の中でなぞる。
関わったとき、関わらなかったとき。
距離を詰めたとき、距離を取ったとき。
そのすべてで少しずつ結果が変わっていた。
だが、根本は変わらなかった。シエラクロスという存在の“あり方”は、大きくは揺れなかったはずだ。
だけど。
「(……今は、違う)」
明確にズレている。しかもそれは偶然の範囲を超えている。
「(……俺が、外れようとするほど)」
思考がひとつの形を取り始める。
「(……歪んでいくのか?)」
本来の道筋から外れるほどにその影響が周囲へと波及する。
人の行動が、思考が、在り方そのものが。
「(……こいつも)」
視線をシエラへと戻す。
「(……その一部かよ)」
これまでの積み重ねがここで形を変えて現れている。
そう考えるとすべてが繋がる気がした。
関わらないことで避けたはずの影響が、別の形で発現する。逃げようとすれば別の方向から干渉される。
「(……ふざけんなよ)」
心の奥で低く呟く。
どこまで行っても逃がさない。そんな意思すら感じる。
フリントは、ゆっくりと息を吐いた。握り締めていた拳にさらに力が入る。
そのままシエラを睨むように見据える。
これまでを振り返ればそうだ。すべてが少しずつ、確実に、歪んでいる。




