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第六章 弱まる火花②

 都市の外縁に辿り着いたとき、フリントは初めて息を吐いた。胸の奥に溜まっていた空気がようやく抜ける。石造りの壁が途切れ、門の外に続く道が夜気の中へと溶けていく。見張りは少なく、往来もほとんどない。選んだ時間は間違っていなかった。ここまで何も起きていない。余計な接触も、余計な選択も、すべてを避けてきた。だからこそここに立っていられる。

 あと数歩で、外へ出られる。

 その単純な事実が異様なほどの現実感を伴って胸に落ちた。


「(……いける)」


 やり直しが始まってからまだ大した日数は経っていない。シエラの死に関わるような要因を意識的に遠ざけてきた。観測もしない、介入もしない。関わらないという選択を徹底して守った。その結果としてここまで何も歪んでいないのなら逆にそれが証明になる。何もしなければ何も起きない。ならばここで物理的にこの都市から離れればあの結末そのものから切り離されるはずではないか?

 理屈は粗い。根拠もない。

 それでもここまで来た今となってはその粗さすら支えになる。

 門へ足を踏み出そうとした、その瞬間だった。

 視界の先に影が差し込む。

 反射的に足が止まり、心臓が一拍遅れて強く打つ。呼吸が浅くなって身体が強張る。

 視線の先、門の正面。逃げ道を正確に塞ぐ位置にひとつの人影が立っていた。

 ——オルタディナ。

 さきほど学院で振り払ったばかりのはずのその姿がまるで先回りしていたかのようにそこにある。


「(……なんでだよ)」


 思考が一瞬で冷える。偶然ではない。きっと意図してここにいる。金髪の少年がここへ来ることを読んでいたかのように逃げ道を選んで塞いでいた。

 彼女は動かない。夜風に髪がわずかに揺れるだけで足の位置も、構えも、微動だにしない。顔を上げてこちらを見るその瞳には、普段の軽口や余裕は欠片もなかった。あるのは押し殺した決意とそれでも隠しきれない焦燥だった。


「……通す気はないのか?」


 低く発した声は思ったよりも掠れていた。自分でも気づかないうちに喉が乾いている。それだけ様々な感情が入り乱れていて、恐れや不安を抱えているのだ。

 赤短髪の少女は一歩も引かない。


「ないわね。あんたがその顔で外に出るっていうなら、なおさら」


 静かな言い方だった。だがその奥にある硬さは石のように動かない。

 フリントは目を細める。


「関係ねえだろ。俺がどこ行こうが」

「関係あるわよ。ここまで来て、そうやって全部投げて逃げるのを見過ごせるほど、私は器用じゃない」

「投げてねえし、逃げてもねえ」


 反射的に返す。だがその言葉の薄さは自分でも分かる。

 オルタディナは一歩踏み出す。距離が詰まる。


「じゃあ何してるのよ。荷物抱えて、夜中に門の前に立って、どこ行くつもりなの?」


 問いはまっすぐだった。逃げ道を残さない。

 フリントは答えない。答える必要がないと思った。言葉を返せばその分だけ絡め取られる。


「……どけ」


 それだけを繰り返す。

 だが彼女は動かない。


「嫌よ」


 短く、はっきりとした拒絶だった。

 その一言が彼の内側で何かを決定的に切り替えた。

 もう言葉では通じない。ここまで来て止められるわけにはいかない。


「(……なら無理やりでも行く)」


 思考は単純になる。正面突破。それ以外の選択肢はない。

 金髪の少年は踏み込んだ。肩からぶつかるように、力任せに押し切る。勢いで間合いを潰し、押し退ける。そういう雑なやり方しかもう残っていなかった。

 だが、触れた瞬間に世界が裏返る。

 重心が抜け、足が宙に浮く。そして視界が横に流れて次の瞬間には、背中が石畳に叩きつけられていた。

 肺の中の空気が強制的に押し出される。呼吸が止まり、痛みが遅れて全身に広がる。理解が追いつく前に腕を押さえられる。関節を極められ、力を入れる方向すら奪われる。


「——っ……」


 声にならない息が漏れ、心を折られる。

 あまりにも一方的だった。

 踏み込んだ瞬間にすべてを読まれていた。勢いも、力も、全部を利用されて、そのまま地面に転がされた。


「やめなさいって言ってるでしょ!」


 上から叩きつけられる声。怒鳴り声に近いが、そこには明確な焦りが混じっている。

 フリントは歯を食いしばり、抵抗しようとするが、腕が動かない。体重をかけられている位置が的確でどこに力を入れても逃げ場がない。


「(……こんなに差があんのかよ)」


 自嘲が胸の奥に滲む。

 分かっていたはずだ。実力差なんて最初から。それでも、ここまで何もできないとは思っていなかった。

 ただ押さえつけられているだけ。それだけの現実が妙に重くのしかかる。


「何から逃げてるのよ!」


 オルタディナの声が落ちる。問い詰めるように、逃げ道を潰すように。

 更に続けて——。


「言いなさいよ! 何があったのか、全部!!」


 フリントは目を閉じる。

 言葉を返す気力がない。

 だが、沈黙は許されない。


「何も言わないで分かるわけないでしょ!? あんた、ここ数日ずっとおかしいのよ! 急に距離置いて、顔色悪くして、何もかも避けて——それで急にいなくなろうとしてる! そんなの、放っておけるわけないでしょ!」


 言葉が重なる。畳みかけるように続く。

 その一つ一つが耳に深く刺さる。

 だが少年の心は反抗していた。


「(……うるせえ)」


 思考の奥で、鈍く反発する。

 何も知らないくせに。何も見ていないくせに。あんな凄惨な出来事が何度も何度も続き、どれだけ頑張って足掻いても道が見えない地獄のような繰り返しの日々を。もしかしたら地獄の方が生温いかもしれない世界を。


「分かるわけねえだろ……」


 ぽつりと、漏れる。

 自分でも驚くほど弱い声だった。

 オルタディナが一瞬だけ言葉を止める。

 フリントは視線を逸らしたまま続ける。


「分かるわけねえだろ……こんなの……」


 胸の奥で何かが軋む。

 押し込めていたものが、限界を迎えている。


「何やっても、変わんねえんだよ……」


 声が震える。

 抑えようとしても、抑えきれない。


「守れねえし、助けられねえし……関われば関わるほど、訳分かんなくなって……!」


 言葉が崩れる。まとまらない。それでも止まらない。


「もう、どうすりゃいいか分かんねえんだよ……!」


 視界が歪む。

 涙なのか、ただの疲労なのか、それすら分からない。


「だから……」


 喉が詰まる。

 それでも、吐き出す。


「逃げるしかねえだろ……!」


 その一言で、すべてが崩れた。

 抵抗する力が抜ける。身体から力が抜け落ち、地面に沈むように感じる。


「もう嫌なんだよ……」


 かすれた声が、夜気に溶ける。


「何回も……何回も……同じの見て……」


 言葉は途切れ途切れになる。

 だが、その中にあるものははっきりしていた。

 どうにもならない現実に、押し潰されているという事実。

 フリントはそのまま動かなくなった。押さえつけられたままただ崩れている。その姿を見下ろすオルタディナの顔からは、さっきまでの怒りが少しだけ引いていた。

 代わりに残っているのは、言葉を失ったような沈黙だった。

 崩れたままの空気が、その場に沈みきっている。

 吐き出された言葉の残滓は簡単には消えない。フリントの荒い呼吸がそれをかき混ぜるように断続的に響いている。押さえつけられたままの身体はもはや抵抗の意思すら失いかけていた。力を入れる場所も分からず、ただ地面に沈んでいるだけの存在に近い。

 オルタディナはその上に立っていた。完全に押さえ込んでいるわけではない。だが離す気配もない。どうすればいいのか判断しきれないまま、半端に力を残している。先ほどまでの激しい言葉とは裏腹に、今の彼女の中にあるのは明確な迷いだった。

 この状態のフリントに何を言えばいいのか分からない。そもそもが理解が追いついていない。ただただ彼が相当に追い詰められていて、その中に自身も含まれているのかもしれないと過った瞬間に言葉が出なくなる。

 そうして逡巡が場をさらに重くしていた。


 ——しかし、その均衡を外側から断ち切る気配が走る。


 足音ではない。もっと速く、鋭い動き。

 気配が差し込んだ瞬間、オルタディナの意識がそちらへと向く。

 反応がほんの一瞬だけ遅れ、その隙を突くように影が視界に飛び込んできた。

 細い体躯を包む衣のような群青の髪を靡かせ、神秘的だが、今は鋭く銀灰の瞳を細めてまるで御伽話の世界から飛び出してきた妖精、或いは神話。そんな雰囲気と一緒にそこへ現れたのは見まごうことのないシエラクロスだった。

 彼女は歩いて来たのではなかった。

 踏み込み、距離を一気に詰める加速でそのまま間合いに入る。

 そして無言のまま剣を振るう。

 鋭い一閃。迷いのない軌道。

 オルタディナは反射的に身体を引く。完全に受けることはせず、最小限の動きでその斬撃を外へ逃がす。金属が擦れるような音がわずかに響き、彼女の足が半歩後ろへとずれたが、その一撃は決定打ではない。

 ただ目的はそこではなかった。

 シエラの目的は間合いを剥がすこと。フリントから引き離すこと。

 それだけを狙った一撃だったからだ。

 次の瞬間にはシエラはもう別の位置にいる。フリントの前へと滑り込むように回り込み、そのまま背中で彼を覆う形を取る。

 一切の無駄がない動きだった。

 細い背中が視界を遮る。

 それだけで空気が変わり、押さえつけられていた圧が外れてフリントの腕から拘束が解ける。

 オルタディナが踏み込み返そうとした。そのわずかな瞬間を完全に切り取るようにシエラはそこに立つ。

 守るための位置。通さないための立ち方。

 言葉がなくてもその意思は明確だった。

 赤短髪の少女の目が鋭くなる。


「……何してるの?」


 声は低いが明確な警戒、敵意が滲む。


「どきなさい。今はあんたの出る幕じゃない」


 一歩踏み出して距離を詰める。

 だがそれに対してシエラもわずかに体重を前へ移す。ほんの僅かな差で間合いは保たれる。互いに踏み込めばぶつかる距離。

 その位置を彼女は譲らない。


「……聞こえてる?」


 オルタディナの語気が荒くなる。


「どけって言ってるのよ!」


 それでもシエラは何も言わない。

 ただ見ていた。

 視線を逸らさず、相手の動きを捉え続ける。その沈黙が言葉以上の圧となる。

 フリントはその背中を見ていた。

 さっきまで押し潰されていたはずの身体がわずかに自由を取り戻している。それでもすぐには動けない。呼吸が整わない。思考も追いつかない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。

 守られている。その事実が遅れて意識に浮かび上がる。


「(……なんでだよ)」


 思考が鈍く動く。

 関わらないと決めたはずなのに。

 関わらせないとそう思っていたはずなのに。

 それでも目の前の彼女は迷いなく踏み込んできた。

 しかもためらいなく刃を振るってまで。

 シエラの頭がわずかに傾く。振り返るほどではない。ほんの少しだけ、視線の角度が変わる。

 その瞬間横顔が見え、目が合う。

 一瞬だけ。

 だが、その一瞬で十分だった。

 言葉はないが、その視線にははっきりとした意味があった。

 ——行け。

 そう言われた気がした。

 少年の身体が先に反応する。

 思考よりも速く、足に力が入る。

 立ち上がり、視界が揺れる。それでも止まらない。シエラの背中の脇を抜けるようにしてその場から離れる。

 振り返らない。振り返ればすべてが崩れる気がした。

 背後でオルタディナの声が弾ける。


「——待ちなさい!」


 鋭い踏み込みの気配。

 だがそれはすぐに止まる。

 金属が擦れる音がわずかに響かせながら。


「……どきなさいって言ってるでしょ!」


 苛立ちがはっきりと怒声に変わる。


「なんであいつを逃がすのよ!」


 問いは鋭く投げられる。

 しかし返ってくるのは沈黙だけだった。

 シエラは一歩も引かない。剣を構えたままその場に立ちはだかる。

 通さないために。追わせないために。理由も説明もなくただそれだけのために。

 オルタディナの視線が揺れる。

 踏み込めばぶつかる。だが、その先にあるものを考えた瞬間、動きが止まる。

 わずかな逡巡。その一瞬が決定的な差になる。

 フリントの足音は、すでに遠ざかっていた。追いつけない距離ではない。

 それでも——踏み出せない。

 目の前に立つこの存在がそれを許さない。


「……あんた、本気でやってるの?」


 低く問う声にもシエラは答えない。ただ黙ってそこに立ち続ける。

 背中ですべてを遮るように。

 その沈黙が、何よりも強い拒絶だった。

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