第六章 弱まる火花
視界が戻ったとき、フリントはもう何も言わなかった。
模擬戦の場。ざわめき。目の前に立つシエラクロス。
すべてがいつも通りに揃っている。
ただ一つ違うのは——フリントの中身だった。
「(……またか)」
それ以上の言葉は出てこない。
怒りも、焦りも、もう薄い。代わりにあるのは、重く沈んだ疲労とどうしようもない倦怠感だった。
彼女の死を認識して意識を落とす。目が覚めた瞬間に訪れる分かり切った敗北。
それを、もう何度繰り返したか分からない。
終わったあとも誰の顔も見なかった。
何も言わず、何も聞かず、そのまま背を向けてその足で自室へ戻る。
扉を開けて中に入って閉め、鍵をかける。それだけの動作に妙に時間がかかった。
ベッドに倒れ込み。身体が沈む感覚にそのまま動けずにいた。
「(……何もしたくねえ)」
正直な本音だった。
もう何も考えたくない。何も動きたくない。全部どうでもいい。だが、その思考の奥で別のものが蠢く。
「(……でも)」
完全には、止まれない。
何かしないと、そんな言葉浮かぶ。
そして消えない。呪いのように。
「(……どうにかしないと、死ぬ)
シエラクロスが。
その未来だけはどの周回でも未だ変わっていない。変わったのは死に方だけだ。
つまり何もしなければ死ぬ。何かしても死ぬ。そうなればまたやり直しが始まる。
八方塞がりだ。
「(……なんなんだよ)」
金髪の少年は両手で頭を抱える。
指先に力が入り、髪を掴む。思考がぐちゃぐちゃになる。
「(やれば死ぬ、やらなくても死ぬ)」
じゃあ、どうすればいい。
「(……分かる訳ねえだろ)」
吐き出すように思う。
答えなんてない。ずっと見つからないままだ。
しかも更なる問題に直面をしている。
「(……時間も、分かんねえ)」
タイムリミット。彼女が死に、フリントライズがやり直すまでの時間。彼が唯一この地獄から抜け出す為の手段を探す為の猶予。それすら曖昧になっている。
これまではあった。
決勝前。ある程度の目安があったが今は違う。いや、条件が変わった。
早まった。ズレた。少年が培ってきた予測が崩れている。
「(……何がきっかけになるか、分からねえ)」
それが一番厄介だった。
構えていればいい時間がない。いつ来るか分からない。どこで来るか分からない。かと言って下手に違う動きをした分だけ未来が分岐する。
思考が、また沈む。
まるで。
「(……俺が動くたびに)」
未来が歪んでいる。自分の選択一つでルートが変わる。場所が変わる。
そして死に方も変わる。
そこまで来るともう一つの疑念が浮かんできてしまう。
「(……俺が、追い込んでるのか?)」
群青の少女を自分の行動で関わった分だけ死へのルートを増やしているのではないか。
外からの企み、内部での崩壊。
その両方を、引き寄せているのではないか。
だったら——と思考が静かに形を変える。
「(……寧ろ俺がいなければ)」
関わらなければ。見なければ。追わなければ。
助けなければ——。
「(……どうなるんだ?)」
フリントはゆっくりと顔を上げる。部屋の天井がやけに遠く感じて目を細める。
そしてこの不条理に対して一つの可能性が浮かんでしまった。
「(……逃げたら、解決するのか?)」
その選択肢は真正面からじゃない。壊すでも守るでもない。つまり見えない場所まで離れることがシエラクロスの死を認知できない、或いはフリントライズと言う人物がこの都市から去れば全てが始まらないで済むのではないか?
「(……仮にそうだと、それなら)
少なくとも。自分の中では起きた事にはならない筈だ。
見なければ。知らなければ終わるかもしれない。
このループが。
「(……それでいいのか?)」
すぐに別の声が返す。
答えは出ない。そんなに簡単な問題で済むならここまで苦労をしていない。寧ろ上手く成功する楽な抜道があるとはあまり思えない。
だが——。
「(……もう、分かんねえんだよ)」
何が正解かも、何をすればいいのかも全部分からない。
だから。
「(……逃げるってのも、アリか)」
自嘲のように思う。
まともな選択じゃない。それは分かっているが、これ以上は彼も限界だった。
フリントは再びベッドに沈み、目を閉じる。
何も考えたくないのに思考だけは止まらない。
逃げるか。残るか。何も分からないまま。その問いだけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
———
それからの数日間、フリントは目立たないように振る舞い続けた。
特別なことは何もしない。ただ、周囲に溶け込むようにいつも通りをなぞる。講義には出席し、必要な場面では最低限の反応を返す。誰かと会話をしても深く踏み込まない。曖昧な返事で終わらせる。関係を広げないようにしかし不自然に見えないように。
外から見ればただ少し元気のない院生。それだけの存在に自分を落とし込む。
その裏で準備だけは着実に進めていた。
自室に戻るとまずは荷物の選別から始めた。持っていける量には限りがある。無駄は削る。日持ちする食料、水、最低限の衣類。それらを小さな袋にまとめる。重さを確認し、何度か入れ替えを繰り返す。持ち運べる範囲に収めなければ意味がない。
机の引き出しを開け、そこにしまっていた金を取り出す。もともとはクロウへの依頼に使う予定だったものだが、結局使わずに残っていた。紙幣と硬貨をまとめ、袋の奥へと押し込む。
そうして準備の手順は淡々としていた。感情を挟む余地はない。ただ必要なことを順番にこなしていくだけの作業だった。
この中央都市を離れる。
それがフリントの出した結論だった。
学院も、演習区画も、これまで何度も繰り返してきた場所も、すべてが同じ結末へと繋がる。どれだけ行動を変えても、結果は変わらない。形だけが歪み、原因だけが入れ替わり、それでシエラは死ぬ。
その繰り返しに終わりが見えなかった。ここにいる限り、抜け出せない。ならば、場所そのものを捨てるしかない。
フリントの中ではそれが自然な発想として定着していた。
タイムリミットはもう信用できない。以前なら決勝前という目安があったが、今はそれすら崩れている。いつ死ぬか分からない。どこで死ぬかも読めない。
だからこそ、猶予があるうちに動く必要がある。
荷物をまとめ終えたフリントは、部屋を一度見渡した。見慣れた空間だったが、そこに対する感情は薄い。ここで何かを取り戻せるとは思っていない。ただ、繰り返しの一部として存在しているだけの場所だった。
扉に手をかける。
廊下の様子は事前に確認してある。人が少ない時間帯を選び、目立たずに抜けるための最低限の配慮だった。
扉を開けると外は予想通り静かだった。足音が響かないように歩き方を調整しながら、出口へと向かう。視線は前方に固定し、周囲を意識しすぎない。過剰な警戒はかえって目立つ。
ただ歩くだけ。
それだけでいいはずだった。
だが、背後からかかる気配に足がわずかに鈍る。
声はなかった。ただ、存在を感じる。誰かがこちらを見ているという確信だけがじわりと背中に広がる。
振り返るより先にその人物は距離を詰めてきた。
腕を掴まれる。引き止められる力は想像以上に強く、フリントはそのまま足を止めるしかなかった。
視線を向けるとそこにいたのはオルタディナだった。
「どこに行くつもり?」
表情は厳しい。何かを確かめるような目つきで金髪の少年を見ている。その視線の奥にある感情までは読み取れないが、少なくとも軽いものではないことだけは分かった。
それもそうだ。逃げようとする意志はそのまま動きに現れているはずだ。それを見抜かれているのならばこの静かな剣幕の問いも頷ける。
少年は何も言わなかった。
言葉を返せばそこから何かが始まる。そう直感していた。関わらないためにここまで準備してきたのだ。今ここで足を止めるわけにはいかない。
「……少し出掛けて来るだけだよ」
そう誤魔化しながら掴まれた腕を振りほどこうとする。
だが相手も簡単には離さない。
「もっとマシな嘘をついて。どう見ても気軽な雰囲気じゃないでしょ?」
互いに離す力と離さない力が一瞬だけ拮抗する。
そのわずかな時間の中で、フリントの中に別の感覚が入り込んできた。
「(——ッ)」
記憶だった。
夜の廊下。血に濡れた姿。歪んだ言葉。目の前にいるのは、あの時とは違うはずなのに、重なって見える。
身体が反射的に拒絶する。思考よりも先に恐怖が動く。
「は、離せって!!」
力任せに腕を振り、掴まれていた手を強引に引き剥がした。
何とか距離ができるが、おかしいくらいに呼吸が乱れ、視界が揺れる。
「ふ、フリント……?」
オルタディナは一瞬だけ動きを止めた。そこには拒否をされたような感覚を抱いた彼女の揺れた瞳がある。そのわずかな隙を逃さずフリントは体を反転させた。
そのまま走り出す。
背後の様子は確認しない。ただ離れることだけを優先する。
廊下の静けさの中で足音だけが大きく響く。規則的だったはずの呼吸が崩れ、うまく整わない。それでも止まらない。
理屈ではなく、本能に近い判断だった。
優しさや怒りといった感情を見分ける余裕はもう残っていない。彼にとっては、すべてが同じものとして処理される。
関われば、何かが起きる。その先にある結果を知っている以上、近づくこと自体が危険だった。
だから逃げる。それだけの単純な行動にすべてを委ねるしかなかった。




