第四章 舞い上がる火花⑥
月明かりが、冷たく地面を照らしていた。白い光は均一で、優しくさえあるはずなのに——その夜に限っては、どこか無機質で、現実感を削ぎ落とすような光だった。
金髪の少年は、その光の中に立ち尽くしていた。
視線の先には、オルタディナ。間違いなく、彼女だ。
なのに——。
「(……違う)」
そう思ってしまう。
制服は、血で濡れている。白かった布地が、濃く、まだらに、重く染まっている。
腕も、手も、裾も、赤い。
返り血。それは誰かの“内側”が、外に飛び散った痕跡のように見えてしまった。
恐らくはその中心に、彼女は立っていたと思わせる。
だが——。
「……フリント?」
彼女の声は、いつも通りだった。
少しだけ気だるげで、どこか上から見下ろすような、あの調子。違和感が、全身を這い上がる。
「(……なんだよ、これ)」
理解が追いつかない。
視覚と、聴覚と、記憶が噛み合わない。
喉が乾く。それでも、無理やり声を絞り出す。
「……お前、何して……」
言葉が続かない。何を聞けばいいのか分からない。何を確認すればいいのか分からない。
ただ一つだけ、確かなのは。
「(……嫌な予感がする)」
それだけだった。
オルタディナは、ゆっくりと首を傾げる。まるで、簡単な質問をされたかのように。無邪気な微笑を浮かべて。
「何って……」
一拍。
ほんのわずかな間。
それから、あっさりと。
「大丈夫、私の血は一滴もついてないわ」
その言葉は、あまりにも自然に発せられた。
フリントの思考が、一瞬止まる。
「(……は?)」
何を言っている?
何を基準に“大丈夫”と言っている?
問いが浮かぶ前に、別の言葉が重なる。
「これでしっかりと証明出来る」
淡々と。事実を並べるように。
「もう少し時間があれば確実にあなたを勝たせてあげれたわ」
彼の胸の奥で、何かが軋む。
「(……勝たせる?)」
意味が繋がらない。話が、繋がっていない。
だが、オルタディナは構わず続ける。
「ごめんね? フリント」
その声音は、柔らかい。
普段よりも、むしろ優しいくらいだった。
「私が不甲斐無いばかりにあなたに恥をかかせた。あなたを悲しませた。あなたを不幸にさせた」
言葉が、静かに積み重なっていく。
逃げ場を塞ぐように。
「あなたはそれでも私に気を使って言葉を選ばせた」
その一文で、金髪の少年の背筋に冷たいものが走る。
さっきの会話。廊下でのやり取り。
「(……なんでそれを?)」
思い出す。
あの時、自分は——。
「だからね?」
オルタディナが、一歩、近づく。
靴底が地面を踏む音が、やけに大きく響く。
「私が責任を取った」
言葉が、落ちる。
重く。確定した事実のように。
「ケジメをつけた」
フリントの心臓が、強く打つ。
「(……ケジメ?)」
何に対して?
何を、した?
思考が、拒否する。考えたくない。理解したくない。
だが。
「あなたに迷惑をかけないわ」
彼女の声は、変わらない。
穏やかで、落ち着いていて。どこまでも“普通”だ。
「これは全て私が勝手に判断したこと」
責任の所在を、明確に切り離すように。
「これであなたは彼女にこだわる必要はなくなった」
その言葉が、刺さる。
深く。正確に。
「解放された」
呼吸が、止まりかける。
「(……彼女)」
その単語が意味するものは、一つしかない。
脳が、拒否する。
だが、身体はもう分かっている。
「(……まさか)」
足が、わずかに後ずさる。
「——あ」
赤短髪の少女が、小さく声を漏らす。
その声に、ほんの少しだけ“感情”が混じる。
「ようやく私を見てくれたわね?」
ゆっくりと、口元が緩む。
「フリントライズ」
その瞬間だった。
理解が、繋がる。断片だったものが、一つの形になる。
「(……こいつは)」
違う。
いつものオルタディナじゃない。
同じ声。同じ顔。同じ口調。
なのに——。
「(……中身が違うッ!)」
その感覚が、全身を貫く。
恐怖。それは、明確な“異物”に対する反応だった。
「——っ」
身体が、勝手に動く。後ろへ。距離を取る。視線を逸らさないまま、足だけが離れる。
オルタディナは追わない。ただ、そこに立っている。
その姿が、余計に恐ろしい。
「待ちなさいよ」
声がかかる。
だが、その言葉に命令の力はない。
それなのにフリントは、止まらない。
止まれない。
「(逃げろ)」
頭の中で、警鐘が鳴る。
理屈じゃない。本能が叫んでいる。
「(離れろッ)」
踵を返す。全力で走り出す。背後を振り返らない。
振り返ったら、終わる気がした。
足音が、夜の中に響く。呼吸が荒れる。視界が揺れる。
「(なんだよ、今の……!)」
理解できない。理解したくない。
だが、頭の中ではもう一つの事実が浮かび上がる。
「(シエラ……!)」
言葉。
"解放された”。
"こだわる必要はなくなった”。
その意味。
「(嘘だろ……?)」
足がさらに速くなる。
女子寮の方向へ。無意識に、向かっている。
風が頬を切る。木々の影が流れる。視界がぶれる。
「(間に合えッ!)」
何に?
誰に?
それすら分からない。
ただ、走る。
走る。走る。
そして、止まる。足が、止まる。
その先にあったものが、身体を強制的に止めた。
「——……あ」
声にならない音が、漏れる。
視界の中央。
そこに、横たわっているのはシエラクロス。
動かない。群青の髪が地面に広がり、月明かりを受けて淡く光る。
その美しさが、逆に現実感を奪う。
だが。
その周囲に広がるものが、すべてを否定する。
血。黒く、重く、広がっている。地面を濡らし、衣服を染め、空気に鉄の匂いを満たしている。
「……うそだろ?」
膝が、崩れる。その場に、落ちる。
近づく。
這うように。
手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
「……おい」
声をかける。
返事はない。当たり前だ。
分かっている。
それでも。
「おい……起きろよ……」
肩を揺らす。反応はない。
目は閉じられている。
呼吸は、ない。
「(……死んでる)」
その事実が、ゆっくりと、確実に、心の中に落ちていく。
「……あ」
何かが、壊れる音がした。
頭の中で。理性が、ひび割れる。
「なんでだよ?」
声が震える。
「なんで……」
分からない。
分からない。
分からない。
「なんでまた……!」
叫ぶ。
夜に、響く。
返ってくるものはない。
「ふざけんなよ……!」
拳を地面に叩きつける。
痛みは感じない。
「なんでだよ……なんで……!」
視界が滲む。
涙なのか、何なのか分からない。
ただ、歪む。
世界が。現実が。全部。
「……っ、あ……あああああああああああああああああああああああああ!!」
叫びが、止まらない。
喉が裂ける。
呼吸が乱れる。
それでも、止まらない。
「なんでだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
答えは、ない。
誰も、いない。
ただ、そこにあるのは。
繰り返される“結果”。
逃げられない“終わり”。
「……っ、あ……」
視界が、暗くなる。意識が、揺れる。
呼吸が、うまくできない。
心臓が、暴れる。
「(……もう)」
限界だった。
「……っ」
最後に、もう一度だけ彼女の顔を見る。
静かで。何も知らないまま、眠っているような顔。その姿が、余計に現実を突きつける。
「(……なんで)」
その問いを最後に。
フリントの意識は、音もなく途切れた。




