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第四章 舞い上がる火花⑤

 夜の空気は、昼間の熱をすべて奪い去ったように冷えていた。

 学院の一角、調整室へと続く通路の影に、フリントは身を潜めている。視線は入口へ固定され、呼吸は意識的に浅く保たれていた。灯りは最低限。人の出入りも、昼間とは比べ物にならないほど少ない。

 だが、この時間帯こそが“動く”。

 これまでの周回で、それは何度も確認してきた。


「(……来るはずだ)」


 シエラクロスは、試合後に調整へ来る。

 それはほぼ確定の行動だった。

 身体のメンテナンスか、あるいは何か別の理由か。そこまでは掴めていない。

 だが、“来る”という事実だけは、何度も見てきた。

 だから、ここで張る。

 それが今回の選択だった。


「(……来い)」


 時間が過ぎる。遠くで風が鳴る。どこかで扉が閉まる音がする。それだけだ。人影は、現れない。

 彼は腕時計を見る。

 予定していた時間は、とうに過ぎていた。


「(……遅い)」


 眉を寄せる。

 遅れることはあっても、“来ない”ことはなかった。少なくとも、これまでの周回では。


「(……いや、まだだ)」


 自分に言い聞かせる。

 ルートは変わる。時間も多少はズレる。そういうものだ。だから、待つ。さらに時間が過ぎる。

 冷気が肌に染み込む。体温がじわじわと奪われていく。

 それでも、フリントは動かない。


「(……おかしい)」


 時計の短針が二周程動いた辺りで違和感を覚える。

 さすがに、遅すぎる。来る気配がない。気配そのものが、存在しない。


「(……なんでだ?)」


 思考がざわつく。

 シエラが来ない。それは、ただの“遅れ”ではない。恐らくだが行動そのものが変わっている可能性が浮かんでしまった。


「(……またかよ)」


 胸の奥に、嫌な感覚が広がる。

 この感覚には、覚えがある。未来が歪んでいるときの感覚だ。


「(……じゃあ、どこだ?)」


 視線をわずかに動かす。周囲に気配はない。静まり返っている。

 その時だった。

 足音。規則的な、硬い音。

 フリントの視線が入口へ向く。

 そこへ現れたのは——アルベルトだった。

 白い制服を整えたまま、いつも通りの姿。緊張した面持ちで、周囲を確認しながら調整室へ入っていく。


「(……アルベルト)」


 息を潜める。

 彼の行動自体は、特別おかしくはない。試合後の調整。誰でもやる。

 だが。


「(今回のルートじゃ……)」


 一瞬、記憶を辿る。

 この時間帯でのアルベルトの行動は、これまでの周回では微妙に違っていたはずだ。


「(……ズレてる)」


 小さく、確信する。

 時間の配置が変わっている。

 それはつまり——。


「("別の流れ”が来てる?)」


 更に短針が少し進み、アルベルトは調整室から出てきた。

 特に変わった様子はない。そのまま、足早に去っていく。

 影から覗くフリントは、動かずにただ見送る。


「(……違うな)」


 今回の主役じゃない。少なくとも、ここでは。

 再び静寂が戻る。

 

「(……来ない)」


 シエラクロスは、来ない。

 確信に近い違和感が、胸の奥で膨らむ。


「(きっとここじゃない)」


 ゆっくりと、息を吐く。


「(……今回は場所が違う)」


 前回は女子寮だった。それ以前は、調整室だった。

 つまり。


「(これも死ぬ場所が変わる)

なら。


「(動くしかねえか)」


 フリントはゆっくりと立ち上がる。

 身体が冷えているのを感じる。だが、それを無視して歩き出す。

 向かう先は——女子寮方面だ。



 高台。

 女子寮を見下ろせる位置。木々の影に身を隠せば、下からはまず見えない。フリントはそこへ陣取ると、深く息を吐いた。


「(……ここで張る)」


 夜はまだ長い。徹夜になる可能性もある。だが、それでも構わない。


「(今回は、逃さねえ)」


 視線を下へ向ける。

 女子寮の灯りはまばらだ。消灯時間を過ぎている。静まり返った建物。だが、その静けさが逆に不気味だった。


「(……来るなら、ここだ)」


 そう思った時だった。

 視界の端に、動く影が映る。彼は即座に意識を集中させる。


「(……誰だ?)」


 人影。女子寮の近く。ゆっくりと歩いている。

 背格好。髪の長さ。


「(……あれ?)」


 見覚えがある。

 あの人物、彼女はフリントライズがこの周回で散々時間を共にしたであろう存在であった。


「(オルタディナ……?)」


 ただ確信には至らない。

 暗い。月は雲に隠れ、視界がぼやけている。だが、その歩き方。あの無駄のない重心移動。間違いない。


「(なんであいつがこんな時間に……)」


 疑問が浮かぶ。

 だが同時に、別の考えがよぎる。


「(……聞くか)」


 シエラの動き。彼女なら、何か知っている可能性がある。同じ女子寮の空間を共有でき、直接的な接点は持たないが見かけたら脳裏に残る程度には印象深い環境が出来上がっている筈だ。

 その確信にはあまり前向きに考えたくないが、一先ずフリントは木の影から一歩だけ前に出る。

 声をかけられる距離。

 だが、まだ距離はある。


「(……届くか?)」


 一瞬、迷う。

 しかし、あまり時間はない。


「——おい、オルタディナ」


 声を出した、その瞬間だった。

 雲が流れ、遮られていた月がゆっくりと顔を出す。

 白い光が、地上へ降り注ぐ。

 その光が——彼女を照らした。


「——っ……」


 言葉が、途切れる。

 視界が、はっきりと像を結ぶ。

 そこにいたのは、間違いなくオルタディナだった。


 ただその姿は——。


「なっ……」


 赤く、染まっていた。

 制服の白が、まだらに濡れている。暗闇の中では黒に近く見えたそれが、月光を受けてはっきりと色を持つ。

 血。腕にも、裾にも、手にも全てに返り血らしきものがあった。

 まるで、誰かを——。

 金髪の少年の思考が、止まる。呼吸が、止まる。理解が、追いつかない。

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 その視線が、フリントを捉える。

 一瞬の沈黙。風が、木々を揺らす。葉の擦れる音だけが、やけに大きく響く。


「……フリント?」


 いつも通りの声。だが、その足元に広がる“色”が、すべてを否定していた。

 フリントの喉が、かすかに鳴る。

 言葉が出ない。

 ただ一つだけ、頭の中で形になる。


「(……なんでだ?)」


 訳がわからない中での純粋な問い。

 だが、その答えは。

 まだ、どこにもなかった。

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