第四章 舞い上がる火花④
試合場を出た後も、フリントの足取りは妙に軽かった。
軽い、というよりも——実感がない。負けたはずなのに、どこか現実感が薄い。
歓声も、観客のざわめきも、背中に投げられる視線も、すべてが膜を隔てた向こう側の出来事のように感じられる。
気付けば、学院の廊下を無意識に歩いていた。
足音だけが規則的に響く。やけに乾いた音だった。
「(……負けた)」
頭の中で、ようやく言葉になる。
だが、それに続くはずの感情が来ない。
悔しさ。怒り。焦り。どれも薄い。代わりにあるのは、理解できないものに対する鈍い違和感だった。
「(……違う)」
足を止める。壁に手をつき、ゆっくりと息を吐く。
違う。負けたこと自体は問題じゃない。
問題は——。
「(なんで、あんなに強くなってる?)」
あの動き。あの速度。あの“無駄のなさ”。
これまでの周回で見てきたシエラとは、明らかに別物だった。
「(……成長? いや、そんなレベルじゃねえ)」
一日や二日で辿り着ける領域じゃない。まるで長年過酷な鍛錬を行なって来たみたいに付け焼き刃の少年とは積み上げた時間が違う。そして経験値が違う。
何故。
「(なんで、今回だけ)
思考が堂々巡りを始める。
周回ごとに“条件”が変わるのは分かっている。犯人が変わるように、環境も、選択も、結果も変わる。
だが。
「(強さまで変わるのかよ……)」
そこに、ルールはあったか?
フリントは壁から背を離し、ゆっくりと顔を上げた。
視界の端に、人影が映る。
「……フリント」
オルタディナだった。
いつものように腕を組んでいる。だが、その視線はわずかに揺れていた。
金髪の少年は何も言わない。
ただ、見ている。
オルタディナは一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、それから口を開いた。
「……ごめん」
その一言は、普段の彼女からは想像できないほど小さかった。
「私が見てた限り、あなたの動きは悪くなかった。むしろ、前より良くなってた」
視線が、ほんの少しだけ逸れる。
「でも……」
言葉が途切れる。
フリントは、無言のまま続きを待つ。
「……勝たせてやれなかった」
その言い方は、どこか自分を責めているようだった。
彼の中で、何かが引っかかる。
その感情の行き場が見つからないまま、口が開いた。
「……は?」
低い声だった。
赤短髪の少女がわずかに顔を上げる。
「何言ってんだよ」
フリントは一歩、近づく。
「俺が負けたのは、俺が弱かったからだろ」
言葉は冷たく、硬い。
「お前のせいじゃねえよ」
正論だった。
だが、その言い方には棘があった。
オルタディナの表情が、ほんの一瞬だけ固まる。それでも、何か言おうと口を開く。
「でも——」
「でもじゃねえよ」
遮る。
思っていたよりも、強い口調だった。
自分自身が、一瞬だけ驚く。だが、止まらない。
「ちゃんとやっただろ。教えることも、やることも、全部」
視線を逸らす。
「それで勝てなかっただけだ」
言葉が、自分の中に落ちていく。
「(……違う)」
何かがズレている。
だが、それを修正する余裕がない。
「……ええ、そうね」
オルタディナの声が、静かに返ってくる。
その声には、いつもの鋭さがなかった。
「その通りよ」
短い肯定。
それ以上は何も言わずに沈黙が落ちる。フリントは、そこでようやく自分の言い方に気付く。
だが、もう遅い。何かを取り繕う言葉は出てこなかった。
「……じゃあな」
それだけ言って、背を向ける。呼び止める声は、なかった。
そのまま足音だけが、再び廊下に響く。その音が、やけに重く感じられた。
⸻
夜。
部屋の天井を見上げながら、フリントは動かずにいた。
灯りは消している。そんな暗闇の中で、ただ思考だけが動いている。
「(……強くなってる)」
何度も繰り返す。
シエラクロスは、確実に強くなっている。
理由は分からない。だが、それは“事実”だ。
「(周回の影響……?)」
考える。
金髪の少年自身は、ループの記憶を持ち越している。だからこそ、強くなれた。
なら。
「(あいつも、どこかで……?)」
浮上した予想を首を振ってすぐに否定する。
そんな様子はなかった。相対した時に見せたあの目は、何も知らない者の目だった。
だが、それでも考えられずには、疑わずにはいられなかった。
「(……じゃあなんだ?)」
答えが出ない。考えれば考えるほど、分からなくなる。
状況が変わる。死ぬ場所が変わる。流れが歪む。そこまでは理解している。
だが——。
「(強さまで変わる理由がない)
そこに“必然”が見えない。
偶然にしては、出来すぎている。
「(……いや)」
ゆっくりと目を閉じる。
違う。もしかしたら。
「(まさか全部、“調整されてる”のか……?)」
その発想が、頭の奥で引っかかる。
世界が。未来が。"そうなるように”動いているとしたら。
シエラが死ぬ未来に収束するために。必要な要素が“補正”されているとしたら。
「(……馬鹿げてる)」
思考を振り払う。
そんなもの、証明できるはずがない。
だが。
「(……でも)」
フリントは、ゆっくりと起き上がる。
ベッドの端に腰掛ける。拳を握る。
「(あいつは、死ぬ)」
それだけは、変わらない。
どの周回でも。どのルートでも。
「(確実に、死ぬ)」
だから。考えるべきは一つ。
「(どうやって、止める?)」
視線を床に落とす。
そしてこれまでの周回を思い返す。
張り込み。尾行。接触。前回は、それで“ある程度”は追えた。
だが、結果は——。
「(……死んだ)」
奥歯を噛み締める。同じやり方でいいのか? それとも、変えるべきか?
「(張るか……?)」
自問する。だが、すぐに迷いが生まれる。
動けば、未来は変わる。変えれば、別の何かが動く。犯人が変わるように。
「(……でも、何もしなけりゃ確定で死ぬ)」
それも事実だ。
なら。
「……やるしかねえか」
小さく、言葉が漏れる。
完全な答えは出ていない。理解も、追いついていない。
それでも。
フリントは、ゆっくりと立ち上がった。
夜はまだ、深い。
だが、その中で。次の一手だけは、確かに形になり始めていた。




