第四章 舞い上がる火花③
準決勝は、あっという間に来た。
気付けばその日だった、という感覚に近い。講義も、訓練も、調査も、全部を詰め込んで動いていたせいで、時間の流れが妙に早かった。
闘技場へ向かう通路を歩きながら、フリントは軽く息を吐く。
身体は仕上がっている。少なくとも、前よりは。
拳を握る。違和感はない。無駄な力も入っていない。踏み込みの感覚も、重心の位置も、全部が以前より整理されている。
「(……及第点、か)」
思い出す。
数日前の訓練の終わり。
オルタディナは腕を組みながら、フリントの動きを見ていた。
「……まあ、いいんじゃない」
素っ気ない言い方だった。
だがその目は、以前とは少し違っていた。
「最低限、形にはなってる。及第点はあげるわ」
それだけ言って、背を向けた。
だが——その時、ほんの一瞬だけ。
振り返りかけたのを、フリントは見ていた。
何か言おうとして、やめたような動き。
いつもなら余計な一言を必ず挟むはずの彼女が、そのまま黙って去っていった。
「(……なんだったんだ、あれ)」
金髪の少年は眉をひそめる。
あれ以降、赤短髪の少女の態度は微妙に変わっていた。
距離が近いわけではない。むしろ普段通りに見える。
だが、時々視線が合う。そしてすぐ逸らされる。何かを考えているような間があるが特に何かある訳でもなく終わる。そんな距離感。
「(……まあいいか)」
深くは考えなかった。
今はそれどころじゃないから思考を切り替えていくしかない。
それよりももう一つ。クロウの報告だ。
倉庫街でのやり取りを思い出す。
『詳しくは掴めてねえ』
そう前置きして、彼は言った。
『だが動きはある』
中央都市の上層。アイシードの関連機関。研究部門のさらに上。金の流れ。外部の人間を使う経路。全てが完全に繋がっているわけではない。
だが、断片的に見えてきた。
『……綺麗じゃねえな』
訝しげな表情でそう言った。
『表に出てる連中と、裏で動いてる連中が噛み合ってねえ。だが、繋がってはいる』
それだけで十分だった。
「(……やっぱりか)」
アイシードの中に、何かがある。
ただし、それは単純な一本線じゃない。
複数の意図。複数の思惑。それらが複雑に絡んでいる。
だから——未来が固定されない。
だから——景色が変わる。
フリントは小さく息を吐く。
「(多分全部潰すのは無理だ)」
一つ一つ追うには時間が足りない。
だから今回の方針は決めている。
準決勝で勝つ。
その上で決勝後に動く。
「(セリウス)」
あの男は直接の犯人ではない。だが、装置と構造を知っている。
そしてアイシード側の人間。情報を持っている可能性は高い。
「(最悪アポを取る)」
決勝前の当日。
短時間だけでもシエラクロスが死ぬ場合には詰め寄って無理矢理にでも聞き出して。
「(擦り合わせる)」
便利屋の情報。自分の見てきた流れ。
それをぶつける。
何か引っかかればいい。
フリントは闘技場の入口で足を止めた。
観客席のざわめきが耳に入る。視線を上げると広がる試合場のリング。
そして反対側に立つ群青の少女。シエラクロス。
変わらない。何も知らないまま、そこにいる。
金髪の少年はゆっくりと歩き出す。
「(……今回は)」
拳を握る。
「(勝つ)」
それだけだ。それが全ての前提になる。
審判の声が響く。
準決勝。同じ舞台。同じ相手。
だが——中身は違う。
フリントはリングの中央へ向かいながら、静かに息を整える。
観客席のざわめきは、どこか遠くで鳴っている音のように感じられた。耳に届いているはずなのに、意味を持たない。ただ、空気が震えているだけだ。
視界の中心にあるのは一人——シエラクロス。その存在だけが、この場の全てを支配している。
白線で区切られた試合場の中央、彼女は微動だにせず立っていた。無駄な構えはない。剣先はわずかに下げられ、しかしその軌道はいつでも相手の喉元へ跳ね上がる位置にある。重心は安定しているが、固定されてはいない。踏み込むための余白が常に残されている。
——隙がない。
そう理解した瞬間、フリントはゆっくりと息を吐いた。
肩の力を抜く。握った拳の中で、微かに汗が滲む。
「(……前と同じ、じゃない)」
同じ構え、同じ立ち位置。だが、違う。言葉にできない“圧”が、目の前の少女から静かに滲み出ている。
そこへ審判の合図が響いた。
試合が開始される。
その音が鳴り終わるよりも早く、フリントは一歩踏み出していた。
だが、全力ではない。半歩だけ前へ。相手の間合いに触れないぎりぎりの距離で止まる。
しかしシエラは動かない。視線だけが、フリントを捉えている。まばたきすらしない、冷たい観測。
フリントはさらに半歩、重心を前に移す。
踏み込む“ふり”だけを見せる。足首の角度、腰の沈み込み、肩のわずかな捻り——それらを組み合わせて、次の瞬間に飛び込むという“予兆”を作る。
だが、シエラは反応しない。
剣先も、重心も、何一つ揺れない。
ただ、そこにいる。
「(……見えてる、のか?)」
一瞬、疑念が脳裏をかすめる。しかしすぐに否定する。これは読みの問題じゃない。もっと単純で、そして厄介な事実。
「("必要がない”って顔だな……)」
フェイントに反応する必要がない。その程度の揺さぶりでは、自分は崩れない——そう言っているように感じられた。
フリントはもう一度、同じように足を運ぶ。今度はわずかに深く。踏み込みの直前で止める。視線を剣に落とし、次の瞬間に斬り込むような錯覚を作る。
それでも、シエラは動かない。
静寂が続く。観客のざわめきすら、この二人の間には入り込めない。
ただ、互いの呼吸と、靴底が床に擦れる微かな音だけが存在していた。
「(……通じてない)」
理解した瞬間、胸の奥がわずかに冷える。
これまでの周回でも、シエラは強かった。だが、ここまで“反応を返さない”相手ではなかった。
最低限の揺れ、ほんのわずかな視線の動き、あるいは重心の変化――そういった“人間らしい反応”があったはずだ。
だが今は、それがない。
まるで、完成された何かと対峙しているような感覚。
「(……だったら)」
その瞬間、脳裏に別の光景が浮かぶ。
訓練場。汗と砂の匂いが混じる空間で、オルタディナが腕を組んで立っていた。
『小手先のフェイントで揺れる相手なら、とっくに誰かが勝ってるわよ』
淡々とした声。だが、その視線は鋭くフリントを射抜いていた。
『あの女に通じるのは、“崩す”じゃない。“押し切る”よ』
——押し切る。
その言葉が、今の状況と重なる。
金髪の少年はゆっくりと姿勢を変えた。半端な距離を捨てる。足を踏み込み、明確に間合いへ入る。
シエラの視線が、わずかにだけ鋭くなる。
次の瞬間、フリントは一気に踏み込んだ。
鋭い一撃。躊躇のない直線。防御される前提の斬撃ではなく、“当てに行く”軌道。
金属音が響いた。シエラの剣が、最小限の動きでそれを受け流す。
衝撃を殺し、軌道を逸らす。無駄のない防御。
だが、攻撃は止まらない。
二撃、三撃と連続で斬り込む。角度を変え、リズムを変え、わずかにタイミングをずらす。
それでも、シエラはすべてを受けきる。
だが——。
「(いけるッ!)」
確かな感触があった。
完全に捌かれているわけではない。ほんのわずかだが、押し込めている。防御に回らせている。
彼はさらに踏み込む。間合いを詰め、圧をかける。逃げ場を削る。
剣がぶつかり合うたびに、空気が震える。火花が散る。靴底が床を削る音が響く。
一見すれば、フリントが主導権を握っているように見えた。
「(……おかしい)」
斬撃を重ねながら、フリントの中に違和感が広がる。
手応えがない。
当たっている。防がれている。押している。それなのに、“効いている”感覚がまるでない。
まるで、壁を叩いているような感触。
「(……なんだこれ)」
さらに一撃を叩き込む。
今度は力を込める。軌道も鋭くする。
それでも、同じだ。
シエラは一歩も下がらない。防御は崩れない。呼吸も乱れない。
「(防戦一方……なのに)」
視線を上げる。
群青の少女の表情は、変わっていなかった。
焦りも、苛立ちも、ない。
ただ、静かに受け続けている。
「(……測られてる?)」
その考えが浮かんだ瞬間だった。彼女の足が、わずかに動いた。
それは“後退”ではない。前へ出るための、ほんの小さな準備動作。
フリントの脳が、即座に危険を察知する。
次の瞬間。
鋭い一閃。これまでとは比べ物にならない速度で、剣が振るわれる。
咄嗟に受ける。だが、衝撃が違う。腕に重い負荷が走る。体勢がわずかに崩れる。
「(……っ!?)」
一歩、下がる。その隙を、シエラは逃さない。
二撃目。
角度が変わる。先ほどとは違う軌道。読みづらい変化。なんとか防ぐ。だが、押される。
三撃目。
さらに速い。さらに重い。少年は歯を食いしばる。
「(……なんだ、これ……!)」
頭の中で、過去の記憶がフラッシュする。
これまでの周回で見てきたシエラ。その動き、その癖、その間合い。
全部、頭に入っている。
それなのに。
「(全部、違う……!)」
動きが洗練されている。無駄が削ぎ落とされている。
何より——。
「(強くなってる……!)」
確信だった。
以前の周回よりも、明らかに上。比較にならないほど、完成度が高い。何回も戦い、何回も敗北した本人が感じる違和感に間違いはなかった。
理由は分からない。だが、事実だけがそこにある。残酷な事実が。
「(調べたはずだろ……!)」
癖。弱点。崩し方。全部、事前に叩き込んできた。彼女の速さ、正確さ、膂力。全てを上回るつもりで指南もしてもらって足掻いて足掻いて土台を完成させた。
だが、それらが一つも通用しない。
隙がない。崩れない。読みが成立しない。
「(……足りない)」
理解する。今の自分では、届かない。
剣が弾かれる。体勢が崩れる。そのまま踏み込まれる。防御が間に合わない。
衝撃。
視界が揺れる。床に膝をつく。
歓声が、ようやく耳に戻ってくる。
そこで試合終了の合図が響いた。
フリントは、その場に座り込んだまま動けなかった。
呆然としながらただ一つだけ、頭の中で反響している。
「(……なんでだよ)」
理解できない。
対策も、準備も、してきた。
それなのに。どうして、シエラクロスはこんなにも強くなっているのか。
その答えは、まだ見えないまま——ただ、敗北という結果だけが、静かに突きつけられていた。




