第三章 始まりの火花⑩
廊下に残る二つの足音。
シエラクロスは先を歩いている。来た時と同じ、一定の歩幅。調整を終えた直後だというのに、疲れた様子は見えない。むしろ呼吸は整っていて、身体の動きも軽い。
フリントは少し遅れて後ろを歩く。
距離は近いが、追うというより同じ方向に進んでいるだけの形だった。
数歩。沈黙が続く。
やがて彼女が足を止めた。
不意だった。彼も半歩遅れて止まる。
シエラは振り返る。その目は、さっき調整室の前で見たものと同じ、静かな観察の色を帯びていた。
「……ねえ?」
短く呼ぶ。
フリントは眉を上げ、呼ばれた声に反応する。
「何だ?」
彼女は一歩だけ距離を詰めた。
「どうしてさっき、あんなこと言ったの?」
「……あんなこと?」
「調整やめろって」
言葉は淡々としているが、視線は真っ直ぐだった。
金髪の少年は少しだけ視線を逸らす。
「別に」
「理由はあるでしょ?」
間を置かず返ってくる。
どう答えたら良いのか悩みながら絞り出た言葉は弱々しかった。まるでこれまでに積み重ねた出来事までも引っ張り出すように。
「……気になっただけだ」
「何が?」
「お前が……」
死んでしまうんじゃないか? なんて口には出来ないのに喉の直ぐそこまで出て来ている。
そんな神妙な姿を見てシエラの眉がわずかに動く。
「——調子悪くねえのかと思って」
しかし、どうにか——どうにかなのかも分からないが、彼女にとってこれ以上にない突拍子の無い理由を口にするのは避けられた。
沈黙。ほんの一瞬だけ、シエラの視線が揺れた。
だがすぐに元に戻る。
「……何それ」
小さく言った。
「変な人」
それを聞いて金髪の少年は苦笑した。
「そうかよ」
彼女は腕を軽く組む。
「試合で負けた相手に、いきなり体調気遣われるとか普通じゃない」
「まあな」
「それとも」
少しだけ首を傾ける。
「……明日の決勝、私に万全で来てほしいとか?」
「そんな殊勝な理由じゃねえよ」
フリントは即答し、シエラは数秒、彼の顔を見ていた。それは探るように。確かめるようにだ。
やがて小さく息を吐く。
「……別に、悪くはないけど」
「何が」
「そういうの」
それ以上は言わなかった。
そして彼女はくるりと背を向け、再び歩き出す。合わせて彼も何も言わず、少し後ろを歩く。
女子寮の前まで戻る。昼間と同じ場所。
門の前でシエラは足を止める。振り返りはしない。
「……フリント」
「何だ」
「心配はいらない。調子は悪くないし、いつも通り」
少し間を置く。
「明日も——」
そこで言葉を切る。
続きは言わなかったが意味は分かる。
フリントは軽く頷いた。
「分かってる」
「じゃあ——」
「……?」
「なんでそんな悲しそうな表情をしているの?」
「——ッ!」
知らない内に胸に抱えている不安が表に出てしまったのを彼は後悔する。
困ったように眉毛を曲げる群青の少女。その顔を見てしまったフリントの心に罪悪感が押し寄せた。
何も悪くないお前を救おうとしているのに何で俺にお前が何も知らないのに気を使ってしまうんだよと。
ただ優秀で強く、追いかけている憧れの存在がいる純粋な人が何で不幸になってしまうのか?
そんな理不尽に腹が立つ。煮えくりかえる。悲しくなる。
しかし、この感情をこれ以上悟らせる訳にはいかない。話して信じてもらえるか分からない以上に全てが解決してもこれを負い目に思って欲しくない気持ちが金髪の少年の中に芽生えているから。
「私、何かした?」
「何もしてねえよ。気のせいだ」
「……そう」
シエラはそれ以上何も言わず、寮の中へ入っていった。
扉が閉まる。それで終わりだった。
フリントはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
夜の空気が静かに流れる。魔光灯の光が石畳を照らし、影が揺れる。
「(……問題ない筈なのに)」
今日見た限りでは。
行動はいつも通り。調整も普通。誰かと接触した様子もない。
アルベルトとも、ただ入れ替わっただけ。
セリウスも関係ない。クロウの線も、今のところ繋がらない。
「(問題ない——)」
頭ではそう判断できる。
それでも。胸の奥に、引っ掛かりが残る。
「(……何だ)」
視線を中央棟の方へ向ける。
あの場所。あの時間。あの流れ。
全部、前と同じだ。
だからこそ。
「……同じすぎる。いや、最後にちょっと違ったが」
小さく呟く。違和感はない。
だが、それ自体が違和感だった。最後にまた変わったアクションは発生したが、それがどう明日に変化を起こすかは分からない。
金髪の少年はゆっくりと息を吐いた。
考えても答えは出ない。今の情報では、これ以上は進めない。
なら、やることは一つだ。
「……やれることやるしかねえか」
小さく言って、踵を返し寮へ戻る。
廊下は静まり返っていた。夜更けの時間だ。足音だけが響く。誰もいない。
自室の扉を開ける。
中は暗い。フリントは灯りをつけず、そのままベッドに腰を下ろした。
天井を見上げ、目を閉じる。
——明日が決勝。
そして、始まることなくシエラクロスは——死ぬ。それだけは変わっていないような気がした。
拳を握る。
——もしそうだとしても。
ゆっくり息を吐き、思考を止める。
無理に考えても意味はない。
今は休む。それが、明日動くために必要なことだった。
静かな部屋の中で、彼は眠りにつく。
まだ終わりは始まってない。




