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第三章 始まりの火花⑨

 準決勝が終わった後、学院の空気はどこか浮ついていた。勝者と敗者がはっきり分かれる日だ。観客席にいた生徒たちはそれぞれの試合の話で盛り上がり、闘技場の周辺にはまだ人の流れが残っている。

 その中でフリントは一人だけ、試合の余韻に浸ることもなく歩いていた。

 負けた直後とは思えないほど表情は落ち着いている。呼吸も整っていた。身体の痛みは残っているが、頭の中はむしろ冴えていた。

 視線はただ一つ。群青の髪の少女の背中。

 シエラクロス。

 彼女は闘技場を出たあと、他の試合参加者と軽く言葉を交わしながら中央通路を歩いていた。勝者として当然の対応だろう。教師に声をかけられれば立ち止まり、何か聞かれれば短く答える。その様子は落ち着いていて、特別浮かれているわけでもない。

 いつもの彼女だった。

 金髪の少年は距離を取りながらその後ろを歩く。あからさまに追えばすぐに気付かれる。だから通路の人混みに紛れ、歩調を少しずつ変えながら視線だけを外さない。

 シエラは学院の中央棟を横切り、しばらくして訓練区画の方へ向かった。途中で何人かの生徒とすれ違う。中には声をかける者もいた。


「おめでとう!」

「やっぱ強えな」

「決勝も頑張れよ!」


 彼女はその度に小さく頷くだけだった。

 大きく笑うこともなければ、長く会話することもない。軽く礼を返し、すぐ歩き出す。まるで余計な時間を使う気がないかのようだった。

 フリントはその姿を見ながら考える。


「(……普通だ)」


 不自然な動きは何もない。

 誰かと密談する様子もない。尾行に気付いている気配もない。

 ただ、いつも通りのシエラクロス。

 それが逆に厄介だった。

 時間はゆっくり過ぎていく。

 午後の授業時間が終わり、学院の空気が夕方へ変わっていく頃、彼女は訓練区画を離れ、寮の方角へ向かった。日が傾き、石畳の影が長く伸びている。

 フリントは少し距離を広げた。

 寮の周辺は人の出入りが多い。目立つ動きをすればすぐに不審がられる。だから柱の影や植え込みの近くを使い、遠目から動きを追う。

 やがて群青の少女は女子寮の入口に到着した。

 門の前で立ち止まり、軽く空を見上げる。それから制服の袖を整え、何事もない様子で建物の中へ入っていった。

 扉が閉まる。そこで追跡は終わりだった。

 何故なら女子寮の内部には入れない。

 フリントは通りの反対側に立ち、建物を見上げた。窓の数は多いが、どれがシエラの部屋かは分からない。無理に近づけば警備に止められる可能性もある。


「(ここまでは同じ)」


 夕方までの行動は、前の二周と変わらない。

 準決勝が終わり、寮へ戻る。それだけだ。

 問題は——その後。

 彼は一度自室へ戻った。夕食の時間も、夜の巡回も、普段と同じ流れで過ぎていく。だが頭の中では時計が別の速さで進んでいた。

 前の未来。シエラは夜に寮を出る。

 理由は調整。決勝前の身体調整のため、中央棟の特別調整室へ向かう。

 そこから先で、何かが起きる。

 金髪の少年は窓際に座り、夜の学院を眺めていた。灯りの数が少しずつ減っていく。寮の通路を歩く足音も減り、やがて静寂が広がる。

 深夜。時計が大きく一つ鳴った。

 フリントは立ち上がる。

 窓から外を見る。

 そして——女子寮の入口の扉が静かに開いた。

 群青の髪の少女が出てくる。

 シエラクロス。

 制服ではなく軽い訓練着。剣を携え、周囲を一度だけ確認してから歩き出す。警戒しているというより、ただ習慣的に周囲を見る動きだった。

 窓から離れ、部屋の扉を静かに開けて廊下へ出る。音を立てないように階段を下り、建物の裏側から外へ回る。

 すでにシエラは少し先を歩いていた。

 夜の学院は静まり返っている。魔光灯が等間隔で地面を照らし、石畳に淡い影が落ちている。風は弱く、木の葉がわずかに揺れているだけだった。

 フリントは距離を保ったまま後を追う。

 彼女の足取りは迷いがない。中央棟へ向かっている。

 予想通りだ。前の未来と同じ。

 それでも、今回は違う。

 金髪の少年は一度だけ拳を握った。


「(……ここからだ)」


 シエラは中央棟の階段を上り始める。

 三階。特別調整室のある階。

 彼女の後ろを、影のように静かに追い続けた。

 中央棟の三階へ続く階段は、夜になると足音がやけに響く。石段は昼間と同じはずなのに、周囲の静けさが違うだけで別の場所のように感じられた。魔光灯の青白い光が壁を照らし、影が長く伸びている。

 迷いなく群青の少女は階段を上っていく。足取りは一定で、振り返る様子もない。決勝前の調整。それが彼女の中では当たり前の習慣なのだろう。

 フリントは数歩遅れて階段を上り、三階の踊り場で歩みを速めた。

 距離を詰める。

 そして廊下の中央で声をかけた。


「……シエラ」


 長い群青の髪が揺れる。

 彼女は立ち止まり、静かに振り返った。驚きは小さい。むしろ「こんな時間に誰だろう?」という程度の反応だった。

 金髪の少年を見ると、少しだけ眉が動く。


「フリントライズ?」


 声は落ち着いている。試合後の敵意も、勝者の余裕もない。ただの疑問だった。


「……? こんな時間に何してるの?」


 フリントは肩をすくめる。


「そっちこそ」


 軽く顎で廊下の奥を示す。


「調整か?」


 シエラは短く頷いた。


「決勝前だから」


 それだけ言うと、再び歩き出そうとする。だがフリントは一歩前へ出て、その進路をわずかに塞いだ。

 シエラは不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの?」


 彼は少し考えるように視線を逸らし、それから言った。


「……今日はやめとけ」


 群青の少女の表情が少しだけ変わる。


「何を?」

「調整」


 短く言った。

 廊下は静かだった。遠くの魔光灯が小さく唸る音だけが聞こえる。

 

「どうして?」

「身体休めた方がいい」


 適当に言葉を選ぶ。


「明日決勝だろ」


 シエラはしばらく黙っていた。フリントの顔をじっと見ている。その視線は試合の時とは違い、相手を測るような静かな観察だった。

 やがて小さく息を吐き。


「……フリント」

「何だよ」

「それ、説得になってない」


 淡々とした声だった。

 金髪の少年は舌打ちしたい気分になったが、顔には出さない。

 彼女は続ける。


「決勝前なんだから調整して万全にする方が正解」

「……あぁ」

「だから今日だけやめる理由がない」


 正論だった。

 フリントは腕を組み、少し言いにくそうな表情で苦しい


「……調子悪そうに見えた」

「そう?」


 シエラは自分の手を軽く握り、開く。感覚を確かめるような動きだった。


「別に普通だけど」

「無理してるかもしれないだろ」

「それならなおさら調整する」


 会話が止まる。

 フリントは視線を横へ逸らした。説得する理由が弱すぎる。下手に踏み込めば、逆に怪しまれる。

 シエラはしばらく金髪の少年を見ていたが、やがて小さく肩をすくめた。


「心配してくれてるなら、ありがとう」


 そう言って廊下の奥へ歩き出す。

 フリントは止めなかった。

 特別調整室の扉が開き、群青の少女は中へ入る。青白い光が一瞬廊下へ漏れ、すぐに消えた。

 扉が閉まり、廊下に静寂が戻る。

 彼はその場で壁に寄りかかり小さく舌打ちをする。


「(……不発)」


 予想していたとはいえ、何も変えられなかった。

 説得は通らない。彼女はいつも通り調整する。


 ならば——。


 フリントは廊下の窓の方へ歩き、外を見た。夜の学院は静まり返っている。灯りは少なく、遠くの塔だけがぼんやり浮かんでいた。


「(出てくるまで待つ)」


 それしかない。

 時間が過ぎる。どれくらい経ったか分からないが廊下の静けさは変わらず、調整室の中からはほとんど音が聞こえない。

 その時だった。

 階段の下から足音が聞こえる。

 ゆっくり、一定のリズムで上がってくる方へフリントは視線だけを動かした。

 階段の影から現れたのは、見覚えのある人物。

 アルベルト・グレイン。

 上級生の剣士。

 準決勝を勝ち上がり、シエラクロスと同じく決勝へ進む男。

 彼は三階に上がると、廊下の先に立っている金髪の少年を見てわずかに目を細めた。


「……お前は、フリントライズか?」

「よお」


 アルベルトは少し首を傾げる。


「こんな時間にどうした」

「散歩だよ。散歩」


 適当に答える。

 アルベルトはその言葉をそのまま受け取った様子ではなかった。視線がわずかに鋭くなる。


「ここは散歩する場所じゃない」

「そうか?」


 フリントは笑う。


「静かでいいと思うけどな」


 アルベルトの視線が廊下の奥へ向く。特別調整室の扉。

 そして再び彼を見る。


「……誰か待っているのか?」


 金髪の少年は答えず、沈黙が少しだけ続く。

 アルベルトは小さく息を吐いた。


「決勝前だ無茶はするな」


 それだけ言って歩き出そうとする。

 フリントは半歩横へ出て、その進路を少しだけ塞いだ。

 アルベルトの眉がわずかに寄る。


「何だ」

「いや、上級生と話す機会ってあんまないからさ」

「……」

「用があるなら言え」

「別に。決勝どう思ってるのか聞こうと思っただけだ」

 

 上級生の剣士は答えない。

 その視線には、明らかな警戒が混じっていた。

 不自然な絡み方だ。当然だろう。

 少年自身もそれは分かっていた。

 そんな睨み合いで膠着している時。特別調整室の扉が開いた。

 青白い光が廊下に漏れる。

 そこから群青の少女が外へ出てきた。

 彼等二人を交互に見て、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。


「……アルベルト?」


 アルベルトは一瞬だけ視線をシエラに向け、それから軽く頷いた。


「調整だ」


 短い答えに彼女ら小さく頷いた。


「そう」


 それだけ言うと、フリントの横を通り過ぎて廊下を歩き出す。来た時と同じ足取り。静かで迷いがない。

 その背中を横目で追い、上級生の剣士は調整室の扉へ向かった。

 二人はちょうど廊下の中央で入れ替わる形になるが言葉は交わさない。ただ、すれ違うだけ。

 そしてアルベルトは特別調整室の中へ入った。

 扉が静かに閉まり、廊下には再び金髪の少年と群青の少女の足音だけが残った。


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