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第三章 始まりの火花⑧

 準決勝の日は、思っていたよりも早く来た。

 院内の中央競技場には朝から人が集まり始めている。石造りの観客席はすでに半分ほど埋まり、上段では生徒達がざわざわと話し声を交わしていた。選抜戦もここまで来ると、ただの模擬戦ではない。院内の中でも実力のある者しか残っていないからだ。

 フリントは競技場へ続く通路を歩きながら、その音を聞いていた。

 足音。話し声。金属の触れ合う音。遠くで誰かが笑う声。

 全部、前にも聞いた。

 同じ場所。同じ空気。同じ時間。


「……やっぱりか」


 小さく呟く。

 この流れは変わっていない。

 競技場の入口を抜けると、広い闘技場が目の前に開けた。中央の石のリング。周囲を囲む観客席。高い位置にある審判台。すべて見覚えがある光景だった。

 そして、対戦表。

 準決勝。

 フリントライズ対シエラクロス。

 やはり変わっていない。

 金髪の少年はしばらくその名前を見つめていた。

 群青の髪の剣士。

 この後、ここで戦う。そして自分は——負ける。前の二度はそうだった。だが今回は違う。

 フリントは視線を上げ、観客席を見渡した。ざっと見ただけでも多くの生徒が集まっている。剣術科、魔術科、講師の姿も混ざっている。だが彼の視線は試合そのものではなく、人の動きに向いていた。

 アルベルト・グレイン。

 上段の席にそれらしい姿がある。腕を組み、静かに闘技場を見下ろしている。落ち着いた様子だ。焦りも苛立ちも見えない。

 少なくとも、今は普通の観客だ。

 彼は視線を動かす。

 別の席にはオルタディナの姿があった。腕を組み、こちらを見ている。視線が合うと、ほんの僅かに顎を引いた。まるで「ちゃんとやりなさいよ」とでも言うような仕草だった。

 フリントは小さく息を吐く。

 そして、最後に視線を中央へ向けた。

 闘技場の反対側。

 そこに立っている少女を見つける。

 シエラクロス。

 群青の髪が朝の光を受けて静かに揺れている。細身の体。剣を携えた姿勢。特別な動きはない。ただ静かに立っているだけなのに、周囲の空気が自然と彼女の周りで止まっているようだった。

 強い。それは疑いようがない。

 だが今彼が見ているのは、その強さではなかった。

 視線の動き。呼吸の間。立ち位置。

 彼女は観客席を一度だけ見渡し、それから視線を落とした。誰かを探している様子はない。警戒している気配もない。いつも通りだ。

 何も変わっていない。

 それが逆に不気味だった。


「(……ここまでは同じ)」


 フリントはゆっくり歩き出す。闘技場へ降りる石段を下りながら、頭の中でこれまでの未来を思い出していた。

 準決勝。ここで戦う。

 そして自分は負ける。

 試合の流れも覚えている。最初の打ち合い。剣速。踏み込み。最後の一撃。全てだ。

 だが今日は、その記憶をなぞるつもりはなかった。

 金髪の少年は場へ上がる。

 石の床に靴音が響いた。

 反対側ではシエラがこちらを見ていた。銀灰の瞳がまっすぐ向けられている。表情は静かだ。挑発も敵意もない。ただ、相手を測る目。

 以前と同じ。

 いや——少しだけ違う。

 フリントは気付いた。

 前は、この目を「強い相手の目」だと思っていた。

 だが今は違う。

 この目は——まだ何も知らない目だ。

 これから死ぬ未来も。狙われている可能性も。何も知らない。その事実が、胸の奥に妙な重さを残した。

 審判の声が響く。


「準決勝——開始位置へ」


 二人がリングの中央へ歩く。

 距離が縮まる。

 数歩。二歩。一歩。

 群青の少女は剣の柄に手を添えた。

 彼も拳を握る。


「(勝てるか?)」


 自分に問いかける。答えはまだ分からない。だが、もし勝てなくても。今回は終わりじゃない。

 フリントは小さく息を吐く。


「(負けても)」


 視線を上げる。


「(目ぇ離さねえ)」


 そして審判が手を上げた。


「——始め!」


 審判の手が振り下ろされた瞬間、空気が一段重くなった。

 合図と同時に動いたのは、ほぼ同時だった。

 シエラクロスの足が静かに踏み込む。石の床に靴底が触れる音は小さい。それでもフリントにははっきり聞こえた。前と同じだ。無駄のない踏み込み。距離を測る最短の動き。

 フリントは半歩下がり、身体を斜めにずらす。真正面から受けると分かっていても、この一手目だけは反射に近かった。

 鋼が鳴る。

 剣と拳がぶつかるわけではない。だが空気を裂く刃の軌道が頬の横をかすめた。ほんの数センチの差。以前なら、この一撃で完全に主導権を奪われていた。

 観客席がどよめく。

 金髪の少年は距離を取った。


「(……速い)」


 素直な感想。そして称賛に値する言葉を内で漏らす。

 分かっていたはずなのに、身体がついていくのがやっとだ。シエラはすでに二歩目に入っている。踏み込み、斜めの斬撃、流れるような動きで次の角度へ移る。

 剣筋は無駄がない。基礎の塊だ。

 だが——フリントはその軌道を知っていた。

 身体が自然に横へ逃げる。剣先が胸元をかすめるが、致命傷にはならない。さらに半歩踏み込んで距離を潰す。シエラの剣は長い。懐へ入れば一瞬だけ間が生まれる。

 彼女の目がわずかに動いた。

 ほんの一瞬、驚いたような色が浮かぶ。

 そこへフリントの拳が振り抜かれる。

 鈍い音。

 しかし次の瞬間には剣の柄が間に入り、完全には届かない。衝撃は流され、群青の少女は後方へ跳ぶ。距離が開いた。

 観客席がざわつく。


「今の……」

「当たったか?」

「いや、防いだ」


 彼等の声が聞こえてくる中、フリントは肩で息を整えながら構え直す。


「(前よりは動けてる)」


 以前の自分なら、今の一合で終わっていた。剣筋を読めず、踏み込みに反応できず、流れのまま押し切られる。だが今日は違う。

 未来を知っている。それだけで、身体の動きが少し変わる。

 彼女は剣を軽く振って位置を戻す。表情は相変わらず静かだったが、先ほどまでの「完全に測り終えた相手を見る目」ではなくなっていた。

 ほんの少しだけ、慎重になっている証拠だ。


「……」


 彼女は何も言わない。

 だが、視線ははっきりと変わった。

 フリントライズを「ただの相手」ではなく、「戦う相手」として見ている。

 今はそれだけで十分だった。

 再び動く。

 今度は金髪の少年から踏み込む。

 拳が走る。シエラは剣で受け、流し、斬り返す。鋭い軌道。だが彼は身体をひねってそれを避ける。腕がかすめ、制服が裂ける。

 痛みはある。だが、まだ戦える。


「(ここまでは……)」


 呼吸が荒くなる。

 それでも、以前より長く持っている。

 何度も打ち合い、距離が詰まり、また離れる。剣の軌跡が空気を裂き、拳が石床を掠める。観客席のざわめきは次第に大きくなっていた。


「フリント、粘ってるな」

「前の試合より動きいいぞ」

「でも……」


 誰かが言う。


「シエラクロスの流れだ」


 その通りだった。

 打ち合いが続くほど、分かる。

 剣の精度。体重移動。間合いの支配。

 全てが一段上にある。

 拳は何度か掠めるが、決定打にならない。逆に剣は確実に体力を削っていく。

 肩。腕。脇腹。

 浅い傷が増えていく。

 呼吸が重くなる。


「(……やっぱり)」


 胸の奥で理解する。

 今の自分では、まだ届かない。

 彼女は剣を構え直した。距離を測るように一歩踏み出す。視線がまっすぐ向く。

 決めに来る。

 フリントは拳を握る。


「(ここだ)」


 以前の未来を思い出す。

 この次の踏み込み。斜めの斬撃。

 そして——終わる。

 シエラが動く。フリントも踏み込む。

 剣が振り下ろされる。拳が突き出される。

 一瞬。交差する。

 そして。衝撃。

 金髪の少年の身体が吹き飛んだ。

 石床に背中を打ちつける。肺から空気が抜ける。視界が揺れる。天井が回る。

 次の瞬間には剣先が喉元に止まっていた。

 静寂。

 審判の声が響く。


「——勝者、シエラクロス」


 観客席が大きくざわめく。

 フリントは仰向けのまま、息を整えた。胸が上下する。視界の端で群青の少女が剣を下ろすのが見えた。


「……」


 彼女は何も言わない。ただ一瞬だけ彼を見て、それから背を向けた。

 試合は終わった。

 結果は同じ。

 フリントはゆっくり起き上がる。

 身体は痛い。だが、頭は妙に冷静だった。


「(……よし)」


 今回は違う。

 ここからだ。

 立ち上がった頃には視線はすでに、リングを降りていく群青の背中を追っていた。


「(今度は)」


 拳を握る。


「(目ぇ離さねえ)」


 シエラクロスが闘技場の通路へ消えていく。

 フリントはその後を、静かに追い始めた。


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