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第三章 始まりの火花⑥

 倉庫の前に立つと、オルタディナは軽く扉を見上げた。

 この辺りの建物はどれも古いが、この倉庫はその中でもさらに年季が入っている。木製の扉は色が落ち、鉄の補強板には錆が浮いていた。使われていないように見えるが、完全に放置された建物の空気でもない。

 人の気配がある。

 フリントもそれを感じ取っていた。

 オルタディナは懐かしげに少しだけ笑いながら言う。


「ここよ」

「随分あっさり見つかったな」

「言ったでしょ? この街で便利屋やってる人間なんてそう多くない」


 倉庫の扉の前まで歩きながら彼女は続けた。


「それにあの人、あんまり隠れるタイプじゃないのよ」

「便利屋ってのはもっと胡散臭い奴を想像してた」

「まあ胡散臭いわよ」


 フリントは腕を組みながら漏らす声を拾った赤短髪の少女はあっさり言った。


「でも変なところで律儀なの」

「どういう意味だ?」

「依頼は選ぶってこと」


 倉庫の壁を軽く指で叩く。


「金さえ積めば何でもやるって人じゃない。だからまだこの街にいる」


 彼はその言葉を頭の中で反芻する。

 便利屋。依頼屋。

 だが、何でも引き受ける人間ではない。


 もし本当にそうなら——。


 シエラクロスの件で動く可能性もある。と考えながら視線を扉へ向けた。


「中にいるのか?」

「たぶんね。……でも」


 彼女は少しだけ顔を横に向け、フリントを見る。


「先に言っとく」


 そしてオルタディナは静かに言った。


「変なこと言わないでよ」

「変なこと?」

「例えば、いきなり喧嘩売るとか」


 指を一本、いや二本立てる。


「探り入れるとか、そういうの」


 金髪の少年は少しだけ苦い顔をする。


「……お前、俺を何だと思ってる?」

「直情型」


 即答の声にフリントはため息を吐いた。

 否定できないのが腹立たしいと思いながら返す言葉もなく、しばらく沈黙が続く。

 倉庫街の奥は静かだった。遠くで金属が軋む音が聞こえ、風が古い板壁を鳴らしている。

 彼はふと聞いた。


「お前……」


 赤短髪の少女が振り向く。


「なに?」

「クロウのこと、信用してるのか」


 少しだけ間が空いた。

 彼女は倉庫の扉を見たまま答える。


「信用ってほどじゃない」


 それから小さく笑う。


「でも少なくとも、子供を売るような人じゃない」


 フリントは何も言わない。

 オルタディナは続けた。


「この街、そういう大人も多いのよ」


 風が吹く。


「だからまあ」


 少しだけ懐かしそうに言った。


「普通の人よりは信用できる」

「……そうか」


 オルタディナは軽く息を吐いた。そして扉の前に立つ。


「じゃあ、行くわよ」


 フリントは頷く。

 古い木の扉が、ゆっくりと軋んだ。

 古い木の扉が軋んだ音を立てながらゆっくりと開いた。

 倉庫の中は外から見た印象より広かった。天井は高く、梁には古い縄や滑車がぶら下がっている。積み上げられた木箱が壁際に並び、ところどころに古びた棚や工具が置かれていた。窓は小さく、差し込む光も弱い。昼間だというのに内部は薄暗く、乾いた木材と鉄の匂いが混ざった空気が漂っている。

 人の気配がある。そう感じながらフリントは一歩だけ中へ踏み込んだ。

 奥の木箱の上、そこに一人の男が腰掛けていた。

 長い外套。帽子を深く被り、顔の上半分は影に隠れている。片足を組み、腕を膝の上に置いていた。その姿勢は完全に脱力しているように見えるのに、不思議と隙がない。

 扉が開いた瞬間から、男はすでにこちらを見ていた。

 しばらく沈黙が続き、倉庫のどこかで古い板が軋む音がした。

 やがて男が口を開く。


「……依頼か?」


 低い声だった。無理に威圧するような響きではない。ただ静かで、落ち着いている。だが妙に耳に残る声だった。

 金髪の少年は数歩だけ歩み寄る。

 背後ではオルタディナが扉の横に立ち、壁に肩を預けて腕を組んでいた。一先ずは様子を見て必要ならば合いの手を入れるのだろうか?

 男の視線が彼女へ移り、帽子の影の奥で、ほんのわずかに目が細くなる。


「久しぶりだな」


 赤短髪の少女は軽く手を上げた。


「久しぶり」


 それだけだった。

 挨拶としてはあまりに短い。だがその一言で、二人が顔見知りであることは十分伝わった。

 男——クロウ・ヴァーディンはゆっくり視線をフリントへ戻した。


「アイシードの院生か」

「ああ」


 クロウは軽く体勢を変えた。木箱の上で膝に肘を乗せ、顎を指先で支える。


「で? 依頼か」


 短く言う彼に少年は数秒だけ考えた。

 ここで嘘をつく必要はない。


「いや」


 素直に答える姿にクロウの眉がわずかに動く。


「依頼じゃないのに来たのか?」


 その言い方は責めているわけではない。ただ、単純に興味があるという声音だった。

 フリントは肩をすくめる。


「ちょっと聞きたいことがある」

「相談か?」

「そんな大層なもんじゃない」


 金髪の少年は倉庫の中を一度見回した。古い縄。工具。荷箱。戦う場所ではない。だが妙に整理されている。必要なものだけが残されている空間だ。

 それから再び男を見る。


「最近」


 少し言葉を選んでから。


「変わった依頼とか来なかったか?」


 クロウの視線がわずかに細くなる。


「変わった?」

「妙な条件とか、妙な依頼人とか」


 彼は聞きながら覗くように帽子の影の奥で目だけが動いている。観察している。フリントの顔、姿勢、呼吸のリズムまで見ているような視線だった。

 やがて小さく息を吐き、ゆっくり言う。


「便利屋に来る依頼は……だいたい妙だ。荷物運びにしても、護衛にしても、普通の仕事なら普通の商人に頼む。わざわざ俺みたいな所に来る奴は何かしら事情がある」


 金髪の少年は腕を組んだ。


「じゃあ最近、面倒そうな依頼は?」


 クロウは顎に指を当てて少し考えた。


「面倒なのはいつも来る」


 そして小さく笑う。


「だが面倒と危険は別だ」


 フリントの目がわずかに細くなる。

 彼は続けた。


「危険な仕事は断ることもある。依頼主が信用できないとか、内容が割に合わないとか」


 横からオルタディナが口を挟んだ。


「昔からそうだよね?」

「お前が子供の頃からな」


 その一言で、二人の関係性がほんの少しだけ垣間見える。


「じゃあ」


 話を戻しながらフリントは少し声を落とす。

 ここからは慎重にと自分に言い聞かせるように。


「誰かを消してくれって依頼は?」


 倉庫の空気がわずかに静かになった。

 クロウはフリントを見た。

 視線が止まる。

 数秒。

 ややあって男は口を開く。


「ある。この街じゃ珍しくない。金があれば誰かを消したい奴もいる」


 少し間を置く。


「だが」


 帽子の影の奥で目がわずかに光る。


「俺はそういう依頼は受けない」


 少年は静かに聞いた。


「全部か?」

「全部だ」


 クロウは軽く笑いながら即答した。


「割に合わない。面倒だからな」


 その言葉は軽い。だが嘘をついている気配はない。少なくとも今の反応に迷いはなかった。

 男は逆に聞いた。


「で? お前は何を探してる」


 金髪の少年は何も答えず、その意思表示に肩をすくめた。


「まあいい」


 そして木箱から立ち上がる。


「依頼じゃないなら」


 手をひらひら振る。


「情報屋じゃないんでな。それ以上は答えられない」


 駆け引きに負けたとフリントは小さく息を吐いた。


「……そうか」


 クロウはもう興味を失ったように背を向けた。


「他を当たれ」


 短い言葉だった。

 金髪の少年はそれ以上追及しない。

 ここで踏み込んでも意味はないと引き際を感じ取れたからだ。

 倉庫を出ると、外の光が目に入る。昼の倉庫街は相変わらず静かだった。

 しばらく歩いてからオルタディナが聞く。


「どうだった?」


 フリントは短く答えた。


「空振りだ」


 彼女は肩をすくめた。


「そう簡単には当たらないわよ」


 その気休めみたいな返しを聞きながら彼は歩きながら考える。

 アルベルトでもない。セリウスでもない。

 そしてクロウも違う。

 三つ目の線も消えた。


 つまり——。


「……また振り出しか」


 小さく一人呟く。

 倉庫街の奥から風が吹き抜けた。

 調査は、また一つ行き止まりにぶつかっていた。


———


 倉庫の扉がゆっくり閉まり、外の光が途切れ、再び薄暗い空間が戻る。

 先ほどまでそこに立っていた二人の足音は、もう遠くなっていた。

 クロウ・ヴァーディンはしばらくその場に立ったまま動かなかった。外套の裾を指で軽く払うと、ゆっくりと木箱へ腰を下ろす。

 倉庫の中は静かだった。遠くで街の喧騒がかすかに聞こえるだけだ。

 帽子の影の下で、男の口元がわずかに歪む。


「……妙なガキだな」


 誰に向けるでもない独り言だった。

 クロウは先ほどのやり取りを思い出していた。

 学院の制服。金髪の少年。視線の動き。呼吸の間。質問の仕方。

 どれも、どこか不自然だった。

 依頼人の目ではない。情報を集める人間の動きでもない。

 もっと別のものだ。

 彼は軽く首を鳴らす。


「あれは」


 帽子の影の奥で目が細くなる。


「何かを追ってる目だ」


 倉庫の天井を見上げる。梁の上を風が抜け、古い板がわずかに軋んだ。


「だが」


 腕を組み、小さく息を吐く。


「追われてる顔でもある」


 普通なら、ああいう人間はもっと余裕を隠す。探りを入れるにしても、もっと遠回しにやる。

 だがあの少年は違った。

 焦っている。だが慌てているわけでもない。矛盾した匂いだった。

 クロウはふと笑う。


「まだ青二才のガキにしては」


 小さく呟く。


「随分物騒な顔してたな」


 木箱の横に置かれた古い短剣を手に取り、刃を指で弾く。乾いた金属音が倉庫に響いた。

 それをまた無造作に置く。


「……まあいい」


 面倒事に関わるつもりはない。

 便利屋の仕事は依頼があって初めて成立する。

依頼もないのに他人の事情へ踏み込むほど、暇でも善人でもない。

 クロウは立ち上がった。

 倉庫の奥へ歩きながら小さく呟く。


「もしあいつが」


 腕を組み、ほんの少しだけ声が低くなる。


「本当に何かを追ってるなら」


 倉庫の奥で立ち止まる。

 帽子を軽く押し上げ、外の方を見た。


「そのうちまた来るだろ」


 口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「今度は、依頼人としてな」


 倉庫の奥で、古い木箱が閉じられる音がした。


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