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第ニ章 火花はまだ消えていない⑤

 陽が落ちた後のアイシード施設。何度も通うフリントの最初の感想は昼間とは別の場所のように静まり返っている競技場だった。喧騒はとうに消え、石造りの廊下には魔光灯の淡い光だけが落ち、壁に埋め込まれた灯りがゆっくりと揺れて床に長い影を作っている。誰かの足音も、話し声もない。ただ遠くのどこかで風が抜ける音だけが聞こえる。

 フリントライズは、その静かな廊下を歩いていた。眠れなかった。敗北の理由は、いくらでも思い浮かぶ。最初の一手を読まれていたのかもしれない。速度の差を見切られていたのかもしれない。あるいは単純に、あの剣士がそれ以上だっただけかもしれない。だが、それだけではない。胸の奥に残る別の感覚が、どうしても消えない。

 夢。

 あまりに鮮明だった光景が、何度も頭の中に浮かんでは消える。石床。赤。動かない群青の少女。もし、あれがただの悪夢ではなかったら――そんな考えが頭をよぎるたびに、落ち着いていられなくなる。考えるな、と何度も自分に言い聞かせた。それでも足は止まらず、気付けば施設の奥へ奥へと歩いていた。

 廊下の先に、小さな灯りが見えた。夜でも解放されている簡易な休憩スペースだ。机と椅子が並び、窓から夜空が見えるだけの場所。その窓際に、人影があった。群青の髪を見た瞬間、フリントライズは一瞬だけ足を止める。


「……お前」


 声をかけると、少女が振り向いた。シエラクロスだった。昼間と変わらない静かな表情だが、今は剣も持っておらず、窓から差し込む月光がその横顔を淡く照らしている。昼の競技場で見せていた鋭さとは違い、どこか柔らかな空気を纏っていた。


「まだ起きてたんだ」


 穏やかな声だった。

 フリントは少しだけ眉を寄せる。


「お前こそ何してんだ。明日決勝だろ」


 窓の外は深い夜だ。学院の灯りもまばらで、ほとんどの生徒はもう部屋に戻っている時間だった。


「こんな時間にうろついてたら危ないぞ」


 言ってから、自分で少し妙な気分になる。昼間、真正面から叩きのめされた相手に向かって言う言葉ではない。だがシエラクロスは、わずかに目を細めた。


「優しいね」

「……は?」

「やられた相手のことを気遣うなんて」


 その言い方に、フリントはわずかに苦い顔になりながら肩をすくめる。


「気遣ってねえよ。明日決勝だろ。こんなところでうろうろして、もし何かあったらどうすんだって話だ」


 言いながら、自分でも少しおかしくなってくる。こんな少女がどうこうなるとは思えない。むしろ心配される側なのは自分の方だろう。強い。それはもう、今日の試合で嫌というほど思い知らされた。

 シエラクロスは窓の外へ視線を向けた。夜空には雲がなく、月が高く浮かんでいる。


「少しだけ、風に当たりたくて」

「……それだけか?」

「うん」


 迷いのない答えだった。

 フリントは小さく息を吐く。


「決勝前日にそんな余裕かよ」

「余裕ってわけじゃないよ。ただ、落ち着くだけ」


 そう言って窓の外を見上げる仕草は、昼間の剣士とは別人のように無防備だった。

 フリントはふと口を開く。


「……緊張とか、しねえのか」


 シエラは寝ぼけたような表情で少し考えてから答えた。


「するよ」

「見えねえ」

「見せてないだけ」


 その返答はあまりに自然で、フリントは一瞬言葉を失う。


「……なんだそれ」

「だって、相手に見せる必要ないでしょ」


 当たり前のように言う。その言葉に、フリントは思わず笑ってしまう。なるほど、と内心で思う。強いわけだ。

 銀灰の瞳がこちらを見る。試合の時とは違う、柔らかな視線だった。その瞳に見つめられ、何だか馬鹿らしくなり、ふっと力が抜けた。


「……まあ、いいや」


 夢は夢だ。そう決めたはずだ。あんな未来が本当に来るなんて、あり得るはずがない。

 フリントは窓際の机に軽く腰を預け、シエラを見た。


「次は勝つ」


 唐突に言う。シエラクロスは瞬きをした。


「まだ負けてねえからな。今日は負けたけど、あれで終わりじゃねえ。次は俺が勝つ」


 完全な負け惜しみだ。自分でも分かっている。だが、それでいい。

 シエラクロスは数秒だけ黙ってから、小さく笑った。本当に小さく、声を立てるほどでもない静かな笑いだった。


「うん」


 それだけ言う。否定もしないし、茶化しもしない。ただ、そう返した。

 フリントは肩を回し、窓の外をちらりと見た。


「……明日、勝てよ」


 短く言う。シエラは少しだけ首を傾けてから、


「うん」


 もう一度、同じ言葉を返した。

 それ以上の会話はなかった。フリントは手をひらひらと振り、背を向ける。


「じゃあな」


 休憩所を出て、廊下を歩く。夜の空気は冷たい。だが胸の奥のざわつきは、さっきより少しだけ軽くなっていた。

 夢は夢だ。

 そう思いながら、フリントライズは自室へ戻っていった。

 ——夢の通りに負けはしたが、負けた事以外は全く違う未来を進められ、フリントは悪い気分じゃないまま、その夜は久しぶりに深く眠ることができた。


———


 朝は、静かに始まるはずだった。窓から差し込む光がゆっくりと床を照らし、夜の冷えを残した空気を少しずつ温めていく。学院の朝はいつも規則的だ。鐘が鳴り、食堂が開き、生徒たちはそれぞれの講義や演習へ向かう。毎日同じ流れで始まる一日。特別なことなど何もないはずだった。

 だが、その日は違った。

 廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてくる。最初は一人分の音だった。やがて二人、三人と増え、急ぐ靴音が石床を打つ。誰かが低い声で何かを叫び、別の誰かがそれに応える。落ち着きのない空気が扉の外に広がっていた。

 フリントライズはゆっくりと目を開けた。眠りは深かく、久しぶりに頭の奥が静かな夜だった。夢も見ていない。あの悪夢のような光景は、昨夜は現れなかった。


 ——夢は夢だ。


 そう思えたからだ。

 昨日の夜、休憩所で会った群青の少女。窓際で月を見上げていた横顔。静かな声。あの時の会話を思い出すと、不思議と胸の奥のざわつきが薄れていった。あれが現実だ。夢の中で見た光景なんて、ただの悪夢だ。そう思っていた。

 その時、廊下の向こうで誰かが叫ぶ。


「医療班を呼べ!!」


 鬼気迫る焦った声だった。


「ーーッ!?」


 ハッとフリントの体が反射的に起き上がる。思考より先に身体が動いていた。寝台から足を下ろし、身なりすら気にせずに扉を勢いよく開け、周囲を見渡す。廊下にはすでに多数の生徒が出てきていた。皆、同じ方向を見ている。ざわめきが広がり、誰もが状況を理解できないまま立ち尽くしていたり騒ぎの方へ駆けていく。

 その先は中央棟の方角だった。競技場へ続く通路のある場所。

 誰に言うでもなく「……何だ」と呟く。

胸の奥がわずかにざわつき、嫌な感覚を彼は覚える。理由はない。ただ、何かを思い出しそうになる感覚。記憶の底に沈んでいたものが、水面へ浮かび上がろうとしているような不快な予感。

 フリントは廊下を歩き出す。歩幅は自然と速くなり、やがてほとんど走るような速度になる。中央棟へ近づくほど人は増えていた。教師の姿も見える。生徒たちは遠巻きに集まり、通路の奥を見つめている。

 誰かが「……嘘だろ」と呟いた。別の誰かが震えた声で「なんで」と言う。さらに「決勝……今日だろ……」という言葉が重なった瞬間、胸の奥が強く跳ねた。

 聞き覚えのある台詞だ

 その言葉達を聞き焦燥感に狩られながらフリントは人垣を押し分ける。


「どけっ!」


 怒声が漏れる。本人も驚くほどの感情が昂ったものであった。

 視界が開く。石床が見えた。

 開けた先で金髪の少年は目を見開く。

 手が震える。

 そこに広がっていたのは、赤だった。

 時間が止まる。

 群青の髪が床に広がっている。制服が血に濡れ、身体は横たわり、まったく動かない。剣は少し離れた場所に転がっていた。


 それは紛れもなく昨夜言葉を交わしたシエラクロスだった。


 心臓が止まる。息ができない。頭の中が白くなる。

 石床。赤。動かない群青の少女。

 夢の光景が、そのまま目の前にあった。


 「……は」


 声が出ない。喉が乾く。嘘だ。嘘だ。嘘だ。昨日、話した。昨日、笑っていた。昨日、「うん」と言っていた。

 夢は夢だと思った。違った。違わなかった。


 足が勝手に前へ出る。教師が「待て!」と叫んだが、止まらない。フリントは数歩近づき、その場に膝をついた。


 顔が見える。銀灰の瞳は閉じている。呼吸はない。肌の色が、静かに冷えている。


 「……おい」


 手を伸ばしかけて止まる。触れれば完全に現実になる気がした。


「おい……起きろ」


 声を絞り出すが、当然返事はない。分かっている。分かっているのに理解できない。夢の通りだ。夢の通りになっている。

 その時、背後で声が上がった。


 「あいつだ!」


 振り返ると、生徒の一人が震える指でこちらを指していた。昨日の夜、休憩所でシエラと話しているのを見た、と必死に言う。その言葉で周囲のざわめきが一気に膨らんだ。教師たちの視線が鋭くなる。

 フリントはゆっくり立ち上がる。


「……話しただけだ」


 視線は変わらず群青の少女に向けたまま低く言った。

 そこへ教師が近づく。


「いつだ、何を話した?」


 短く問いを重ねる。夜だ、雑談だ、とフリントは答えるが、教師は一瞬黙り込んだ後、最後に接触した可能性のある人物だと告げ、事情を聞かせてもらうと言った。

 その意味を理解するまで一瞬かかった。


 「……は?」


 空気が変わる。

 フリントの中で、何かが切れた。


 「ふざけんな! 俺がやったって言いてえのか?」


 教師は表情を変えず、それは可能性の話だとだけ言う。

 可能性? フリントは乾いた笑いを漏らした。


「俺は昨日負けたんだぞ、決勝に上がったのはあいつだ、殺す理由なんてねえだろ」


 そう言い返しても、教師の顔は変わらない。それを判断するのはこちらだ、と淡々と返される。

 周囲の視線が刺さる。疑い、警戒、距離。

 フリントの胸の奥で怒りが膨らみ、悲壮感にまみれた表情になりながら——。


「……違う」


 小さく呟く。


「俺じゃない」


 夢の中でも犯人は分からなかった。ただ死んでいた。それだけだった。

 教師が手を上げると、背後から警備員が近づいてきた。念のため拘束する、という言葉が聞こえる。


 「ふざけんな!」


 腕を振り払うが、次の瞬間背後から掴まれた。「離せ!」ともがくが数人がかりで押さえ込まれる。教師や警備員の集団から落ち着けと言われても落ち着けるはずがない。

 夢の光景が頭の中で何度も再生される。

 同じだ。

 全部同じだ。

 昨日話した。そして朝、死んでいた。

 変えられていない。何も。

 そんな絶望感から逃げたい衝動に駆られながら彼は暴れようとする。

 その瞬間、首筋に強い衝撃が走った。視界が揺れる。フリントの意識が遠のく。

 抵抗するな、という誰かの声が遠くから聞こえた。きっと大人しくさせる為の強行手段に出られたのだろう。

 床が近づく。群青の髪が視界の端に映る。

 意識が遠退く中で安らかそうに眠る彼女に手を伸ばす。届かない。こんなに近くにいるのに遥か遠くになっていくのを感じる。


 「……違う」


 最後に、かすれた声が漏れた。


 「……俺じゃねえ」


 視界が暗くなる。


 意識が落ちる。


 その瞬間、胸の奥でひとつの言葉が芽生えた。


 ——救わなきゃ。彼女を。シエラクロスを。


———


 視界が揺れた。

 空気が、耳鳴りのように遠くから押し寄せてくる。ざわめき。観客席の声。金属が触れ合う乾いた音。石床の硬さが膝を通して身体に伝わってくる。

 フリントライズは膝をついていた。

 胸が上下している。呼吸が荒い。視界の端で、淡く光る紋様がゆっくりと明滅していた。強化陣だ。円形の闘技場の中央に刻まれた魔術式。その輪郭が、ほんのわずかに残光を引いている。


 ここは——。


 フリントはゆっくりと顔を上げた。

 円形の競技場。観客席。上空で回転する巨大な演算水晶。中央の強化陣。そして、十歩ほど離れた場所に立つ群青の少女。

 シエラクロス。

 銀灰の瞳が静かにこちらを見ていた。剣は下ろされている。制服は裂けていない。血もない。呼吸も、姿勢も、何もかもが——普通だ。

 生きている。

 その事実が、胸を強く叩いた。


「……は」


 しかし喉から空気が漏れる。

 夢ではない。いや、夢だったのか。だが、あの光景は。

 石床に広がる血。動かない身体。朝の冷たい空気。


 ——あれは。


「……おい、大丈夫か?」


 横から腕を掴まれる。レオンだった。いつもの調子より少し心配そうな顔をしている。


「顔やべえぞ。打ち所悪いんじゃねえか?」


 言葉が耳に入る。だが、意味はすぐに理解できない。フリントの視線はまだ、目の前の群青の少女から離れなかった。

 生きている。

 生きている。

 確かに、そこに立っている。

 胸の奥に、強く溜まっていた何かが一気に抜けた。

 安堵だった。身体の力が一瞬抜ける。

 夢だったのかもしれない。

 あれは、ただの悪夢だったのかもしれない。

 そう思った瞬間、別の感覚が胸の奥から浮かび上がってきた。

 違う。


 これは——三度目だ。


 フリントの視線がゆっくりと周囲をなぞる。観客席の位置。教師の立つ場所。演算水晶の回転。審判の立ち位置。どれも見覚えがある。

 この光景を、知っている。

 知っているどころではない。

 ここから先に何が起きるのかも、全部。

 模擬戦。敗北。半月。準決勝。外套の言葉。負け。夜。休憩所。会話。そして——。

 朝。

 血。

 死。

 胸の奥が、冷たく沈んでいく。

 夢ではない。これは——。


「……戻ってる?」


 小さく呟いた。


「え?」


 レオンが怪訝な顔をする。

 その隣で、赤い短髪の少女がこちらをじっと見ていた。オルタディナだ。観察するような視線。


「様子がおかしいわね」


 その言葉が耳に入る。

 フリントはゆっくりと立ち上がった。

 ただ膝が震えている。

 それは疲労ではない。今起きている事象に対しての恐怖だ。

 そして——理解。

 これは三度目だ。

 最初の世界。シエラは死んだ。

 二度目の世界。やはり死んだ。

 そして今。また、ここにいる。

 目の前に、生きている。

 胸の奥に浮かんだ感情は、さっきの安堵とは別のものだった。

 焦り。恐怖。そして、強い衝動。


 ——救わなきゃ。


 その言葉が、はっきりと頭の中に浮かんだ。

 フリントの表情がゆっくり変わる。安堵は消え、代わりに鋭い緊張が顔に浮かんだ。

 目の前の少女が、何か言いかける。


「立てる?」


 差し出される手。細い指。温かい肌。

 フリントはその手を見つめた。

 そして。

 彼は何も言わずに立ち上がると、その手を取らずに横を通り過ぎた。


「……おい?」


 レオンの声が背後から聞こえる。


「ちょっと待てよ」


 フリントは振り返らない。

 歩く。

 通路へ向かう。


「フリント?」


 オルタディナの声も聞こえた。

 だが、止まらない。

 今は誰の言葉も必要なかった。

 競技場の通路を抜け、石造りの回廊へ出る。昼の光が窓から差し込み、長い影を落としている。

 ここも覚えている。ここで外套の人物に会った。だが今は、誰もいない。

 フリントはそのまま歩き続けた。

 呼吸が早い。しかし頭の中では、すでに思考が回り始めている。

 時間はある。

 模擬戦の後、代表選抜までは半月ほど。

 つまり。

 シエラが死ぬまで、半月。

 フリントは自室の扉を勢いよく開けた。

 中に入り、扉を閉める。

 静寂が落ち、壁に背を預ける。

 そして、ゆっくりと床へ座り込んだ。


「……三回目か」


 小さく呟く。

 夢ではない。偶然でもない。これは確実に、同じ時間を繰り返している。

 フリントは両手で顔を覆った。

 思い出す。

 最初の世界。次の世界。そして今。


「……なんで死ぬ?」


 呟きが漏れる。

 理由は分からない。だが、確実に起きる。

 決勝の前日。

 朝。石床。血。動かない身体。

 拳がゆっくりと握られた。


「……ふざけんな」


 低い声だった。

 負けたことはいい。自分が弱いのもいい。

 だが——あの少女が死ぬ理由はない。

 窓の外から風が入る。カーテンが揺れ、フリントはゆっくりと顔を上げた。

 その瞳の奥に、さっきとは別の光が宿っていた。


「……救う」


 声は小さい。

 だが、確かだった。


「今度こそ」


 握られた拳が、強く鳴った。


 ——絶対に。


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