第ニ章 火花はまだ消えていない④
中央競技場へ続く通路は、いつもより長く感じられた。
石壁に埋め込まれた魔光灯が一定の間隔で揺れ、足音だけが規則正しく反響する。観客席の歓声は厚い石の向こうでくぐもり、遠い雷鳴のように響いていた。半月前にも歩いたはずの道。だがその時とは、足取りの重さが違う。
重くない。むしろ、軽い。
金髪の少年は一度だけ深く息を吸った。
半月。たったそれだけの時間だと、最初は思った。だがその半月は、ただの日数ではなかった。
模擬戦での敗北から始まり、踏み込みの角度を削り、足裏の接地を修正し、腰の回転を何度も繰り返した。あの時の決定打を思い出し、何度も分解し、何度も組み直した。どこで揺れたのか。どこで一瞬、思考が差し込んだのか。
拳を振る前に、届くかどうかを“確かめようとした”。
その一拍が、命取りだった。
ならばどうする。
確かめない。届かせる。
踏み込みは一直線でいい。ただし、崩れない直線に変える。爆発力を殺さず、土台だけを固める。焦りを力に変えるのではなく、焦りを前提にした構造を作る。
最初の数日は荒れた。
呼吸が乱れ、無駄に速く動き、無理に重さを乗せて身体を痛めかけた。
夜の演習区画で、何度も一人で踏み込んだ。
月光の下で拳を振るい、足の震えを抑えた。あの夜の廊下で交わした言葉を、何度も反芻した。
追いかけている。隣に立てていない。強いと言われる存在が、尚前を見ている。
ならば自分はどうする。決まっている。
追い越す。それだけだ。足元を掬ってやるくらいの気概を持ってして追いかける目標すら変える。
そんな気概を胸に彼は通路を抜け、白い光が視界に広がる。
中央競技場。
円形に広がる石造りの闘技場。外周を取り囲む観客席は埋め尽くされ、上空で巨大な演算水晶がゆっくりと回転している。青白い光が中央の強化陣を照らし、幾重にも重ねられた安全術式が淡く脈動していた。
歓声が押し寄せる。
名を呼ぶ声が混ざる。
何故だろうか。フリントライズはこれが初めてではない気がした。
向かいの通路から、群青の少女が姿を現す。
変わらない静けさ。無駄のない歩幅。細身の剣を携え、まっすぐ前を見る。
一瞬だけ、月光に照らされた横顔が脳裏をよぎる。
あの夜。あの廊下。静かな言葉。
小さい頃に見た背中。追いかける道中。
少年はゆっくりと拳を握る。
確実に仕上がっている。
以前の自分よりも、踏み込みは安定している。重心の落とし方も違う。呼吸の整え方も、視線の置き方も。前は勢いで押し切ろうとした。今は違うと自負する。
だが、それに溺れない。
あれだけ調整した。あれだけ積み上げた。夢の中で見た敗北の自分を、確実に超えている。
あの一瞬の揺れは、もう潰した。そう思える。
距離、十歩。
中央で向かい合う。銀灰の瞳が真っ直ぐ向く。
そこに油断はない。だが驕りもない。
少年は低く沈み、拳を構える。
一直線。それが自分の形。
審判が中央へ出る。
「代表選抜戦、準決勝。戦闘不能、または致命打判定で終了」
短い宣言後、退く。
観客のざわめきが沈む。競技場が、まるで水の底のように静まり返る。
その瞬間、ほんのわずかに胸の奥がざわついた。
理由は分からない。外套の影はない。告げる声もない。半月の間、何も起きなかった。
だからこそ、逆に。だがすぐに打ち消す。
考えるな。揺れない。いや、揺れても折れない。自分は、あの時より強い。その確信がある。それだけで十分だ。
鐘が鳴る直前、金髪の少年はわずかに肩の力を抜いた。緊張していないわけではない。ただ、その緊張が身体を縛っていないことを自覚している。掌の内側でガントレットの革が擦れる感触、足裏が石床を捉える確かな反発、膝から腰へと繋がる重心の流れ。どれもが自然に噛み合っている。半月前には、ここまで静かに立てなかった。
あの時は、内側で何かが暴れていた。勝ちたいという衝動が先に走り、身体がそれを追いかける形になっていた。だが今は違う。衝動はある。それでも、制御できる位置にある。焦りを押し殺しているのではない。焦りがあっても崩れない形に、ようやく近づいた。
観客席の上段で、誰かが名を叫ぶ。反対側では群青の少女の名も呼ばれている。熱は均等に分かれていない。どちらが優勢というわけでもない。
ただ、期待だけが積み重なっている。準決勝。ここを越えれば決勝だ。学院の誇りを背負う戦い。その重さを理解していないわけではないが、今の彼にとっては単純だった。
目の前の相手を越える。それだけだ。
視界の端で、群青の剣士がわずかに重心を落とすのが見える。剣先がほんの少し角度を変える。呼吸が整う。互いの距離は十歩。だが、その十歩の中には無数の可能性が詰まっている。半月前には見えなかった選択肢が、今はうっすらと輪郭を持っている。踏み込みの速度を上げるか、間合いを一瞬外すか、あえて受けさせるか。選べる。選択できる。それだけで、あの時とは違う。
胸の奥に浮かぶのは、恐れではない。高揚でもない。もっと乾いた確信だ。やれる、という感覚。
根拠は単純だ。やってきたからだ。夜の演習区画で、誰もいない石床に向かって何度も踏み込んだ。足が痺れるまで繰り返し、呼吸が乱れても止めなかった。倒れるまでではない。崩れる手前で止め、また立て直す。その積み重ねが今ここにある。
それでも、完全ではない。
ほんのわずか、胸の奥に残る引っ掛かりがある。理由は言語化できない。ただ、世界が静かすぎるような感覚。すべてが予定通りに進んでいることへの違和感。だが、それを考え始めた瞬間に足元が緩むことも分かっている。今は余計な思考はいらない。
目の前の銀灰の瞳が細められる。集中がさらに深まる。
金髪の少年は、わずかに顎を引いた。
この一歩で、示す。
自分がどこまで届くのかを。
鐘の余韻が消えるよりも早く、足裏に力を込める。空気が裂ける音が、競技場に走った。
動いたのは、金髪の少年だった。
「速っ……!」
「初動、見えな——」
そんな声が聞こえ、それすら置き去りにする。
大丈夫。今はそれより速いのを実感しながら最初の一歩を全力で蹴って肉薄することだけに意識を傾けながらフリントライズは想定した動きを実行する。
——が。
「——ッ!?」
拳が空を切る。
彼の拳が届く頃には視界にシエラクロスはいなかった。
ゾクリと気配がする。前じゃない。背後でもない。
これは——。
気付いた時には既に遅し。群青の少女は上空から金髪の少年を迎撃する体勢で構えていた。もう拳を振り切って隙を見せた状態から致命打を避ける為に背後に振り向いた形だ。上からの攻めに対応する身体は残していない。
「(ーーいつのまに)」
虚を突かれた事実を、脳がすぐには受け入れなかった。踏み込みの瞬間、確かに視界の中央に捉えていたはずだ。距離も角度も、すべて計算通りだった。拳は確実に届く軌道を描いていた。半月の間、何度も繰り返し修正した一撃だった。
それが、空を打った。
いや、空ですらない。
拳が通った先には、最初から何も存在していなかったかのような感覚だけが残っていた。
理解が追いつかない。
手を動かす。いや、動かそうとするその動作が、妙に遅く感じられた。
時間が引き伸ばされている。
石床を踏みしめる感覚が、やけに鮮明だ。観客席のざわめきが遠くなる。演算水晶の光が、ゆっくりと明滅しているように見える。
おかしい。これは違う。そんなはずはない。
速さなら、こちらが上だった。少なくとも踏み込みだけは負けないと、ずっとそう思っていた。模擬戦の敗北も、最後の一拍の揺れが原因だったはずだ。だから修正した。何度も何度も身体に叩き込んだ。あの瞬間のために半月を使った。
なのに、背後にすらいない。
その事実だけが、冷たく残る。
演算水晶と重なる彼女の視界の端で、群青の髪が揺れる。
剣がある。静かな動き。
速い。だが、速いという言葉では説明がつかない。最初からそこにいたような、そんな錯覚。
思考が空転する。
何かを選ばなければならない。防ぐか、距離を取るか、回避するか。
身体は動こうとしている。だが、同時に別の感覚が胸の奥から浮かび上がる。
懐かしい。違う。見覚えがある。この光景を、知っている。
ほんの一瞬、視界が揺れた。
夜の訓練場。石床。冷たい空気。あの夜、月光の下で拳を振るっていた自分。回廊で交わした言葉。群青の横顔。
そして——。
石床に広がる赤。瞬きのように、いくつもの断片が浮かんでは消える。レオンの声。オルタディナの冷静な視線。月明かりに照らされた廊下。半月の訓練。拳を振るう夜。踏み込み。何度も繰り返した動き。
そのすべてが、今この瞬間に重なる。
理解が追いつくより早く、胸の奥で一つの感覚が形になる。
——届かない。
その言葉を認めた瞬間。
視界が白く弾けた。
衝撃。
強化陣が一瞬だけ強く光る。身体が宙へ浮く石床が迫る。
そして——。
すべての音が戻ってきた。
観客席のざわめき。審判の声。誰かが息を呑む音。背中に石床の硬さが走る。視界の上に、群青の空が広がる。
いや、空ではない。競技場の天井だ。
銀灰の瞳が、こちらを見下ろしている。
静かな表情だった。
何も言わない。ただ、そこに立っている。その姿を見た瞬間、フリントライズは理解した。
——終わったと。




