第ニ章 火花はまだ消えていない③
夜もだいぶ更けていた。
訓練場の灯りが落ち、中央塔の一部だけが淡く光っている。施設内の廊下は静まり返り、石床に自分の足音だけが規則正しく響いていた。訓練後の疲労が肩に残っているが、身体はまだ熱を帯びている。今日は少し長くやりすぎた。
窓の外には、雲ひとつない夜空が広がっていた。
月が高い。白く澄んだ光が廊下へ流れ込み、長い影を床に落としている。
角を曲がった瞬間、少年は足を止めた。
廊下の先、窓辺にひとつの影が立っていた。
群青。
月光に照らされたその髪は昼とは違う色をしている。青というより、深い夜の色。光を受けた部分だけが淡く縁取られ、輪郭が静かに浮かび上がっている。細身の身体が窓枠に寄り、外を見つめていた。
静かだった。
まるでこの廊下だけが時間から切り離されているように。
気配に気づいたのか、少女が振り向く。
月の光が横顔を滑る。銀灰の瞳がわずかに光を返す。その瞬間、少年は一瞬だけ呼吸を忘れた。
綺麗だ、と思ったのかもしれない。だがその感情を自覚する前に、言葉が出る。
「……こんな時間まで何してる」
ぶっきらぼうな問い。
「それは同じこと」
少女は短く返す。
視線が少年の腕へ落ちる。訓練の跡が残る指先、わずかに震える呼吸。
「随分遅いね」
「そっちもだろ」
軽いやり取り。
それだけなのに、夜の静けさのせいか、妙に距離が近く感じる。
月光が床を白く染め、二人の影を長く伸ばす。昼間の演習場とは違う、柔らかな光。騒がしさも、他人の視線もない。
少年は数歩近づき、窓の外へ目を向ける。
月が高い。冷たい光。胸の奥に、あの朝の記憶が一瞬だけよぎる。だがここには血も叫びもない。ただ夜風が、かすかに廊下を通り抜けるだけだ。
「……なんでそんなに強いんだ?」
ぽつりと落ちた問いは、昼よりも低かった。
群青の少女は少しだけ首を傾ける。
「私は強くないよ」
即答だった。
少年は眉を寄せる。
「は?」
月光に照らされたシエラクロスの横顔が、静かに遠くを見る。
「小さい頃に見た背中があるの。そこに届きたくて、まだ追いかけてるだけ」
追いかけている。
その言葉が、夜の空気に溶ける。
「お前にそう言わせるほどか?」
問い返す声は、少しだけ本気だった。
少女はほんのわずかに微笑む。誇らしさではない。懐かしむような、静かな温度。
「うん。隣にすら、まだ立ててないと思うくらいに」
月光が彼女の睫毛に影を落とす。
強いと言われる存在が、自分より先を見ている。
それが少年の胸に、静かに刺さる。
沈黙が落ち、ややあって遠くで風が鳴る。
少年は視線を落とし、自分の拳を見る。まだ熱が残っていた。
「……俺は」
喉が乾く。それでも——。
「誰が相手でも勝つ」
夜に溶けないよう、はっきりと。
少女は否定しない。ただ静かに見つめる。
「いいね」
短い肯定。
それだけで十分だった。
月が少し雲に隠れる。光が揺らぎ、廊下の影が一瞬濃くなる。
その刹那、少年の胸の奥がわずかにざわついた。
何かを言うべきだった気がする。引き止めるべきだった気もする。
だが理由が分からない。言葉は出ない。
少女は窓から離れ、静かに歩き出す。月光が群青を背中から縁取り、その輪郭だけが白く浮かび上がる。
すれ違いざま、ほんの一瞬だけ距離が縮まる。
「代表選抜で」
小さく声が落ちる。
「当たったら」
少年は間を置かず答える。
「勝つ」
即答。
少女はわずかに目を細める。
「うん」
それだけ。
足音が遠ざかる。群青が影へ溶ける。
廊下に残ったのは、月光と、立ち尽くす少年の影だけだった。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
夢だ。ただの夢だ。
そう言い聞かせながらも、なぜか彼は振り返ってしまう。
そこにはもう誰もいない。
ただ、夜が静かに続いていた。




