13-5
見えたのは、朱色に染まる洋館。
夕焼けがその屋敷を照射していた。
公爵家の屋敷は、以前にも見た。
その時、既に味わっていたはずなのに。
また、身が引き締まるのを感じた。
こんな場所で暮らしを営む人間もいる。
自分とは、なにもかもが異なる。
「少々、舞踏会の開始時刻を遅れそうですね」
クルスが、全く動揺した素振りを見せずに告げた。
こんな屋敷を訪問することも、その刻限に間に合わせようと努めることも、彼は気にしない。
なぜなら、それだけ永く、宝石眼としての責務を熟してきたという自信が彼にはあるから。
あれ?
じゃあ、私は?
私は、なにもしていない。
サファイアの宝石眼として、なにも成していない。
どうして?
サファイアは、鼓動が厭な音を立て響いたのが感じられた。
自分は、確かにタッキーの下へ行きたいと望んだ。
でも、それは――。
決して、『サファイアの宝石眼』としての役目から逃れたいと望んだからではない。
自分にその重責が全うできる器量があると高を括っている訳ではない。
でも、挑戦すると決心したから善呪師の下で修業したいと選択したのだ。
彼に依頼する者たちは皆、きっと今世に必要な望みを持っているから。
それを間近で接し続ければ、私にも見つかると思った。
アクアマリンの宝石眼が、一生涯の生きる道とした、彼女にしかできなかった成すべき事。
己が神より使わされた意味が。
サファイアの青白い顔にフランソワーズがいち早く気付いた。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
その声に釣られて、他の者も彼女を窺う。
サファイアは、必死に繕った。
それが、今は正しい気がした。
自分の焦りは、この状況の最優先事項ではない。
「はぁーー。緊張してしまって。ごめんなさい」
「大丈夫。あなたは俺の同伴者だよ。絶対に守るよ」
クルスの笑みに彼女は曖昧に微笑みを返した。
守ってもらう――。
やはり、あまり好きになれない詞。
でも、有難いことは確かだ。
意固地にならず、素直に受け取らなければ。
「着くぞ」
タッキーの、会話を一刀両断した声と共に馬車が緩やかに進みを止めていく。
華やかな楽の音が聞こえる。
麗しい小鳥のような軽やかな声も混じっている。
来た――。
とにかく今は、舞踏会。
いえ。武闘会に挑むことが先決。
「頑張りましょう!!」
サファイアの急な気合の入った声に、皆たじろいだ。
そして、やはり彼が一言告げた。
「やっぱり、お前は阿呆小娘だ……」
――一体、なにに挑むつもりなんだ。
また、良からぬ脇道に思考が飛んでいたに違いない。
そこまではもはや、彼は説明しなかった。
馬車口が外側より開かれる。
そこから垣間見えた公爵家入口には、すでに舞踏会が開始されているとは思えないほどの使用人が勢揃いし、歓迎の礼を取っていた。
(一体、何人の使用人を雇っているのかしら?)
サファイアには想像がつかなかったが、これくらいではさほど驚かない。
この光景を目の当たりにするのは二回目。
いくらか免疫は付いている。
「ようこそ、御出で下さいました。ターコイズの宝石眼様」
まず、正式な招待客であるクルスが先陣を切った。
周りから恍惚の溜息が漏れ聞こえる。
国中にたった三人しか現存していない宝石眼。
サファイアですら、普通に生きていれば生涯、一度も邂逅しなかった可能性が高い。
その人間が眼の前で惜しげもなくその国の宝で見つめてくる。
その赤々しさも、彼の青空には敵わない。
「お招きありがとう。遅れて申し訳ない。籠の鳥を誘い出すのに時間がかかってね」
クルスは悪戯めいた声で発した。
使用人は、顔には出さずに貼り付いた笑顔を続けた。
さすが、一流の屋敷に職を許された者たちである。
しかし、彼女はそうはいかない。
(えっ?今、なんて言ったの?籠の鳥ってまさか……。いや、もしかしなくても……)
サファイアの予想を裏付けるかのように、クルスは馬車口に向き直り、彼女にまた、あの美しい手を差し出した。
「おいで、サフィー」
狡い。
己の武器を心得ている。
その申し出を断れる人間。
とりわけ、女ではいない。
タッキーが、首を動かし従えと無言で要求する。
一つ、深呼吸をした。
(あれだけの苦労を重ねたのよ。ここで怯んだら、タッキーに、フランソワーズ。この礼装を用意してくれたハイネたち。……そして、この人の望みは叶えられない。女は度胸よ!)
まるで、外は夕焼け。
目の前には青空。
そして、後ろから、漆黒の夜空が出現したようだった。
あとで、使用人はこう語った。
非現実的な光景。
この世界を飛び出してしまったかのような浮遊感。
そんな、詞にできない瞬間に立ち会ってしまったの、と――。
ゆっくりとした、淑女の足取りで降りてくる女性。
伏し眼がちな視線が、面を向き、出迎えた人間たちを視線に入れた。
最前列で歓迎の意を唱えた男は、思わず慄き、一歩後退してしまった。
それほどまでに、奇跡とは真正面からは見られない代物なのだ。
「この度は、お招き頂きありがとうございます」
一言、感謝を述べた。
それが終われば使用人はすぐに彼らの通る道を開けなければならない。
それが、通例。
なのに。
誰も、動けなかった。
サファイアが、逆に不安を感じ、首を傾げるまで誰も。
「あの……?」
使用人たちの身体が一斉に揺れ動きだした。
「あっ!――大変、失礼をいたしました。あの……サファイアの……宝石眼様でしょうか?」
確認の必要はない。
これだけ、身体の芯が震えるのだから。
やはり、己もツァール国の民なのだと実感した。
だから、その問いが最も非礼に当たると理解していた。
それでも。
なお、訊ねたい。
今ですら、感涙してしまいそうなのだから――。
「はい。お初に御眼にかかります」
最前列の男が息を吐く。
そして、最敬礼を取った。
「――お会いできて、誠に光栄でございます」
後ろも波のように続く。
皆、神に己の幸運を感謝した。
今、このクヴェレ公爵家に三人の宝石眼が勢揃いしたことに――。
それの、目撃者となったことに。




