12-8
サファイアは緊張していた。
自分で、それとわかるほどに。
鏡台前の椅子に腰かける自分。
その後ろから一身に自分を見つめ続ける天使な西洋人形。
誰だって、自分よりも遥かに美しい存在と同じ鏡に映りたくはない。
それが、乙女心というものだ。
そして、更にその後方では興奮を更々隠す気のないフランソワーズが立っていた。
今は、人間の姿であるはずなのに、幻の尻尾が嬉しそうにゆらゆら揺れている気がする。
(なんだか、勢いでここまで来ちゃったけど、失敗だったかしら?)
勢いだけでは、何事も推し進めてはいけない。
これは、サファイアの教訓であったはずなのに、一向に成長をしない自分にほとほと愛想が尽く。
「あなた、肌が綺麗です。このやろう」
「えっ!?あ、ありがとうございます」
サファイアは、素直にお礼を述べた。
この幼女は、他人におべっかを使うことはしないだろう。
なら、多少なりとも本心からの発言と捉えて良いはずだ。
「肌の色も白いけれど健康的です。紅は赤よりも薄赤紫や濃橙を薦めます。このやろう」
なるほど、とフランソワーズがものすごい勢いで、なにか書き留めていた。
(文字まで書けるの!?す、すごい)
サファイアは、動物の進化に改めて感服していた。
もしも、全ての生物が同じ知能なら、ヒトは下等生物になっていたかもしれない。
「これは、私が使っている蜂蜜と白粉です。この白粉には、鉛白を一切使用していないです。安心してください。このやろう」
「えっ?でも、それって、すごく高価で……」
鉛白。
白粉に含まれている白色顔料で、その肌を美しく魅せることと引き換えに毒性を秘めている。
貧血になる程度なら、まだいい。
多くは、鉛中毒となり脳や神経に支障をきたす。
もし、幼児に触れさせれば、知能低下が著しく認められる場合もあり、最悪死に至る。
数多の女性を混乱させた危険な代物。
ツァール国では、現在その使用をできる限り廃止に近づけるため製造を中止させている。
それでも、女は美しくあるためにその使用を止めない。
矛盾している。
それが、人間の欲望である。
一応、国では天然鉱物であるマグネサイトを産出し、それを粉末にして澱粉等と混合した白粉の使用を促しているが、値段も張る上、やはり毒性を持った白粉の方がより白く美をその顔に飾り付けられる。
彼女たちは、その一瞬の美を切り取るために己の命を縮めている。
それを理解していないのか。
理解したうえで使用し続けているのか。
女とはなんと難儀な生き物か。
その、気持ちを完全に否定できないから。
「これは天然のマグネサイトとトウモロコシから処理された天然の澱粉を混ぜ合わせたものです。いっぱいありますから御裾分けします。代金はいらないです。このやろう」
ハイネは無表情に告げた。
そして、必要な化粧品を鏡台にバラバラ置いた。
「――それでは、始めます」
「はい!」
なぜか、後ろのフランソワーズが元気に返事をした。
いつから、ここは化粧の職業訓練教室になったのだろうか。
数十分後――。
広間では、タッキーとトラオアがもう何杯も紅茶をおかわりしていた。
((間が持たない!早く戻ってこい!))
男たちの思いの丈は一つだった。
すると、その念が通じたのか、ゆっくりハイネが先頭を切って戻ってきた。
仕事をやり遂げた達成感をその満面に携えながら。
そして、後ろから現れた。
ユヴェール神が、女神よりも寵愛すると云われた宝石眼が。
先ほど、フランソワーズが慌ててやって来て、化粧と一緒に礼装の着せ方も勉強したい、とあの薔薇の礼装を持って行った意味が。
今、ようやくわかった――。
憎たらしいが、代金以上の成果を上げた。
そう、褒めてやるしかなさそうだ。
タッキーの苦笑以外、広間に音は漏れなかった。
静寂だけが、そこには広がっていた。
それこそが、今の彼女を讃えるなによりの証。
音などで遮らせることは赦されない。
その美を一欠けらでも陰らせるものには、罰を。
それが、神の導き出した答である。
(三度目が来た……)
トラオアは、震撼した。
しかし、そこには喜びが芽吹いてくるのも感じられた。
己の生き方で、これだけは間違っていなかったと胸を張れる理由が、また一つできたのだから。
トラオアは、優雅に礼をした。
「いやぁーー、美しい。――我が商会より提供した礼装をここまで華やかかつ余すことなく着こなして頂き、恐悦至極にございます」
その詞をどこか遠くで聞きながら、サファイアは全く別のことを模索しながら、彼を見つめていた。
「あ、あの、そういえば、どうしてさっきはあんなに怒ったんですか?」
サファイアはただ黙々と化粧をされ続けるのも居た堪れなくなってしまい、会話の糸口を探していた。
かと言って、趣味はなんですか、というような常套手段では、彼女の心にはなにも刺さらない。
それならいっそ、はっきり疑問を訊ねた方がなにか反応が返って来るかも、とサファイアは結論付けた。
予想通り、ハイネは手を止めサファイアを睨んだ。
なにか、口から漏れ聞こえた。
「えっ?」
「……あなたは、なんでトラを猫だと思ったんですか?このやろう」
疑問に疑問で返されてしまった。
それでも、疑問で返されるのは会話を続けてもいいという意思表示。
それは、サファイアの望むところだった。
「あっ……。ごめんなさい。深い意味はないの。……その、髪質も柔らかそうだったし。言動……が、なんとなく気まぐれで猫みたいだなって……」
しかし、なかなか発言を上手くかわせない。
ここはもう少し男の良い点を挙げて、猫だと思ったのはあくまで良い意味だったんですよ、と表示するべきだったのに。
しかし、ハイネに気分を害した様子はなかった。
「……正解です。このやろう」
「えっ?」
「――トラオアは猫なんです。やっぱり、宝石眼。侮れないです。このやろう」
ハイネは、最後の方は独り言のように呟いていた。
(えっ……。これはどう捉えるべき?猫が正解?それは、自分も彼を猫っぽいって思ってるってこと?気まぐれとかが正解って意味で良いのかしら?)
サファイアは一人混乱していた。
「あの、それって……」
「これ以上は、秘密です。このやろう」
そこで会話を一刀両断されてしまった。
冷たい。
でも、負けない。
『どんな無駄なことでも、続ければなにか見出せる』。
サファイアは、そう思い続けることが一番好きだった。
諦めることはしない。
そうしてきたから、自分は今ここにいるのだから。
「じゃあ、どうしていつも『このやろう』って語尾に付けるの?」
質問を変更して変化球を狙った。
真っ直ぐ一本槍な攻めで叶う相手とは初めから安易な期待はしていなかった。
どこかに彼女の綻びがあるはずだ。
それを対戦中に見つけて狙う。
確実に仕留める為に。
それがはまったのか、ハイネは俯いた。
誤魔化すことは簡単だ。
今まで、自分にこの質問を投げかけてきた人間はごまんといる。
その度、しれっとそれをかわしてきた。
じゃあ、今回も同じ?
そうは、いかない――。
突然、こんな強敵と当ってしまったのが運の尽き。
下手な小細工が通用しないなら、素直に思った球を真っ直ぐ投げてみるのも一つの手段。
それが、相手に対する最大の敬意。
「――あなたは、トラの口癖わかりますか?このやろう」
決心した。
彼女になら構わない。
知られても。
「口癖?そういえば、いつも最初の反応が同じだなって思ってたけど。あれって、やっぱり態となのね?」
「……そうです。このやろう」
サファイアは微笑んだ。
「良かったら、話してくれる?」
姉のように優しく問いかけた。
サファイアが昔、よく瞳について厭なことがあった時に、必ずスズランがしてくれたように。
フランソワーズが静かに一歩下がるのを感じた。
空気に溶け込む。
優秀な侍女のなせる業だ。
「あれは、トラの処世術なんです。このやろう」
ハイネは一度目を閉じた。
もう、かなり昔のことに思える。
窓の外に月が見えた。
どうして、そんなに変わらず丸くいられるのか、と嫉妬してしまうような完璧な満月。
あの夜も、今日と同じ満月だった。
冷気を感じた。
少し身震いする程度の風。
なにもかもが、あの日と酷似していた。




