12-9
それは、様々に交錯した奇妙な縁によって二人で〝ロイエ商会〟を立ち上げ、営業に奔走していた過去の話。
まだ、ハイネには口癖など存在しなかった頃。
トラオアには、すでにその口癖が付き物だった。
いつか、訊こうと思案していた疑問をハイネはついにその日訊ねた。
またもや、顧客確保に失敗し、二人でとぼとぼと暗い草道を歩く、帰路の途中で。
間の空いた。
だから、世間話程度に。
「ねぇ。どうしていつもそれ言うの?」
「いやぁーー。えっ、それってなんのこと?」
「だから、その『いやぁーー』って最初に必ず付けるの。すごく変」
「いやぁーー、変かぁ!うーーん、そうかぁ!」
ハイネの辛辣な詞にも彼は動じなかった。
それどころか、笑ってみせた。
「いやぁーー。……ハハッ。――そうだな。俺もそう思うよ」
「え?」
「いやぁーー。俺もね、本当にそう思うんだよ。――こんなこと言う自分が死ぬほど嫌いだってね」
そう吐き捨てて、彼は真上を向いた。
そして、手を伸ばした。
絶対その手には届かない。
堕ちてもこない満月に手を伸ばしながら。
「どういう意味?」
「いやぁーー。お前はまだ知らないでいいことなんだよ」
「いいから、教えて」
ハイネは痺れを切らした。
子供扱いは、彼女の最も嫌う行為だったから。
「いやぁーー……。俺はな、お前と違って生まれから卑しいんだよ。その辺の棒切れとさほど変わんない価値しかなかったんだ」
「……」
突き刺さる寒気を感じた。
「……だから、生きるためにはなんでもやった。――なんでだろうな。薄汚い本当に溝を這いまわるような蛆虫共に限って、ありえないくらいの権力と金を持ってるもんだ。生きるためには、そいつらの汚い靴底だって這いつくばって舐めなきゃ明日を迎えられなかった」
ハイネは目を見開いた。
彼の生い立ちを気にしたことはなかった。
だって、こんなに飄々と人生上手くやり過ごしているという印象だったから。
それが、単なるまやかしだったと唐突に知ってしまった。
ハイネは己の手が震えるのを感じた。
それを、止める術すら思いつかなかった。
トラオアはそれに気づかず話を続けた。
「いやぁーーってつい言っちまうのは、その僅かな間に仮面を付ける為さ」
「……仮面?」
「――相手が誰であろうと、どんなに憎くて殺したくなっても自分に一旦待てって言うんだ。こんな奴のために、俺を俺でなくさせるなって」
「――!」
「いやぁーー。まぁ、そういうことだ。お前はいつも聞いてるから飽き飽きしてるだろうけど、一つ大目に見てくれよ」
トラオアはそう言って、ニカッと笑った。
無邪気でいられなかったはずなのに、そんな少年のように笑うのだ。
悲しい。哀しい。
空しい。虚しい。
感情が振り切れるのを感じた。
ハイネはトラオアの代わりに涙を流していた。
それを彼は、滴り落ちる前に指で拭った。
「いやぁーー。俺も罪作りだね。こんなに可愛い子啼かせちゃってさ」
「煩い」
「……でも、ちょっと感謝してる」
「?」
ハイネが首を傾げた。
サラサラと、その赤髪が風に揺れる。
「……まだ子供の頃、あの満月ってのが、俺は大嫌いだった。夜は俺にとって優しい時間じゃなかったし。それに、そんなに毎回俺を見てるくせになにもしないあれが憎かった」
助けてくれなどと甘ったれた感情は抱かなかった。
ただ、お前は闇のなかで、一点の光となって俺を照らしてくれるのに。
それは、俺だけにじゃない。
こうして、夜に上を向く総てに対し、お前は好い顔をする。
それが赦せなかった。
でも、今は違う。
トラオアは涙で顔をぐちゃぐちゃに汚す幼女を見つめた。
あの日、俺に救いの道を開いた女。
満月のように美しいその女は、見かけはまだ蕾のように花開く日は遠いが、俺だけに光を照らした。
それだけで、十分。
あんな八方美人の光はもう必要ない。
「いやぁーー。逃がした魚は大きいぜ!」
彼は大声で空に向けて言った。
「?なに、わけわかんないこと言ってるの。このやろう」
ハイネは涙声で悪態をついた。
「お前!このやろうって、また酷い詞使うなぁ」
――一体、どこで覚えたんだ?
トラオアは、そう言ってお腹を抱えて笑った。
余程、ツボに入ったらしい。
ハイネはその瞬間、これにしようと決断した。
自分も、彼に付いて回ると、厭な人間と相対する機会が増えた。
その度に気の利いた台詞を述べられなかった。
努力はした。
でも、どうしてもいつの間にか悪意のある詞を吐き出していた。
そうして、まとまる筈だった依頼が自分の所為で実を結ばなかった。
何度も、何度も。
それでも、トラオアは一切叱らなかった。
気持ちはわかる、と頭を撫でてくれた。
自分だけが彼に甘えていた。
横で歯を食いしばりながら、耐えて談笑する彼に気付けなかった。
それが、とても恥ずかしい。
なら、自分はトラオアと逆になろう。
誰に対しても同じ対応。
いつも口が悪いなら、相手に気付かれない。
自分が相手をいくら嫌っていても。
ただ、好かれたい相手に出逢った時、後悔するかもしれないけれど。
でも、きっとそんな相手、トラオア以外には出逢わない。
だから、私はこれで行こう。
その日から、ハイネの口癖は始まったのだ。
サファイアは、動けなかった。
それは化粧を施されているからではない。
サファイア自身も、彼が人生を楽に生きている類の人種だと勝手に思っていた。
それは大間違い。
『自分こそが、世界で最も不幸な人間である』という台詞。
それは、単なる甘えだ。
世の中を全然見れていない卑屈な人間の思考回路。
わかっていたはずなのに。
それでも、厭なことがあると、すぐそうやって己の不幸を嘆き悲しむ。
運命なんだと呪ってしまう。
それが驕りだと前に知ったはずなのに。
サファイアは幸せだった。
一度だって、家族からの愛情を疑ったことはなかった。
一度だって、寝食に困ったことはなかった。
一度だって、自分で道を切り開いたことはなかった。
あの日までは――。
「素敵な方ですね。トラオアさんは」
サファイアは心からの賛辞を告げた。
「……好きになったら許さないですよ。このやろう」
ハイネが口を少し尖らしながら忠告した。
幼くとも、女であることに違いはない。
恋愛の勝負は何歳からでも始まっているのだ。
「そうね。素敵だけど、あなたの方がお似合いだから諦めるわ」
「――!」
その詞に、ハイネは知らず知らずのうちに頬を赤く染め上げた。
その反応はとても年相応に見えた。
そして、なぜか彼女は手を擦り合わせた。
なにか、切り出そうとするときの行為だ。
「あ、あの……」
「なに?」
「さっきの。トラオアが猫だって言った話です。このやろう」
「っ!えぇ」
「……もし、次また依頼をくれたら、その時は話しても良いですよ。このやろう」
サファイアは、驚き、そして心に灯が燈った。
歩み寄ってきてくれている。
そう、感じることができたから。
「――えぇ。また、お願いします」
「あっ!別に営業で言ったわけじゃないです。……このやろう」
段々と語尾の詞が小さくなっている。
使い続けるのに罪の意識が嵩んでいくのだろう。
「わかってるわ、ハイネ」
――私は、サフィーって呼んでほしいな、とサファイアは友人に頼んだ。
それに対し、ハイネは一瞬驚きを見せた後に、それは柔らかく微笑んだ。
「うん、サフィー!」
やはり、サファイアは己が間違っていたことに気付いた。
彼女は西洋人形などではない。
人形には到底引き出せない、人間の魅力が詰まった可憐な生気溢れる女の子だった。
ただ、祈りを捧げた――。
「こちらこそ、素晴らしい礼装を、そして全ての品に息づくその気高さ、優雅さを私のために選定して下さったこと、心より感謝致します。願わくば、あなた方のこの先の未来に幸多からんことを、サファイアの宝石眼よりお祈り申し上げます」
トラオアが、そして己のすぐ横にいたハイネが息を呑むのが伝播した。
単なる祈りではない。
本当に神の使者からの加護。
それを、まさか自分が受けるとは。
トラオアは、震えを殺し、また深く返礼した。
ハイネもそれに倣い、また深くその加護に礼をした。
眼の前で自分に賛辞をくれる人。
この人は、一体どれだけの苦汁を飲んできたのだろう。
サファイアは豪華な礼装に身を包まれた自分にはなんの感想もなかった。
それよりも、トラオアのことを思い忍んだ。
きっと、そこには彼女が想像もつかない、底知れぬ魑魅魍魎の世界があったのだ。
そして、彼はその茨の道を、一人血を流しながら歩んできたのだ。
道から逃れないために。
逃げることがそのまま己の死を意味することを知っていたから。
ここにいるのは、尊ぶべき人。
〝宝石眼〟でも〝呪師〟でも、ましてや〝家族〟でもない。
だが、それがどうした。
彼は、一人の人間として、サファイアの尊敬に値する方なのだ。
それを、伝えたかった。
でも、伝えられなかった。
詞が出ない。
いや、詞を知らない。
だって、彼になにを言っても別段変わらない。
疾うの昔に、彼は捜し出しているから。
月よりも己だけに降り注ぐ光を。
そう。
彼は、『月』に救いを求める必要はない。
じゃあ、まだそれに縋ろうとしているのはダレ?




