↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/37

序章 第四節 「新時代の巨艦」 後編


―1924年(大正十三年)9月2日午後7時20分― 

大日本帝国 神奈川県横須賀市 市内某料亭



 日が暮れた横須賀の街には、昼間とは違った賑わいが広がっていた。

 軍港に近い繁華街では、工廠での仕事を終えた職工や停泊している艦から上陸した水兵が下士官たちに連れられ酒場へ繰り出し、通りには笑い声や三味線の音が響いていた。店先には赤い提灯が灯され、暖簾をくぐる客の姿が絶えなかった。

 海軍の街、横須賀。

 その夜は、普段にも増して活気に満ちていた。

 巡洋戦艦「天城」の進水式が無事に終了したことを祝うため、工廠関係者や海軍士官たちが各所で祝宴を開いていたのである。


 そのうちの横須賀駅近くの一軒、海軍関係者がよく利用する料亭の二階では、十数名の男たちが賑やかに酒を酌み交わしていた。

「いやあ、今日は実にめでたい日ですな!」

 上座に座っていた年配の技術将校が、盃を掲げながら声を上げた。

「天城の進水も無事に終わり、これで帝国海軍の八八艦隊計画もまた一歩前進したというものです!」

「まったくです!」

「乾杯!!」

「乾杯!!!」

 男たちは一斉に盃を掲げた。

 部屋には大きな笑い声が響き、仲居たちが忙しそうに酒や料理を運んでいた。

座敷の中央には刺身や煮物、焼き魚などが並び、既に空になった徳利がいくつも転がっていた。

 集まっていたのは、横須賀海軍工廠の造船関係者や、艦政本部から派遣された技術将校たちであった。

 その中に、藤堂誠一海軍造船大尉の姿もあった。昼間、「天城」の進水式で篠原と挨拶を交わした若い技術将校である。

 藤堂は部屋の隅に座り、盃を片手に先輩たちの話を聞いていた。


「藤堂君!」

 突然、向かい側に座っていた中年の技術将校が声をかけた。

「はい!?」

 藤堂は慌てて返事した。

「君も今日は随分と働いたそうじゃないか。進水台の確認にも立ち会ったのだろう?」

「いえ、私は補助的な仕事をしただけです。実際の作業は工廠の皆さんが中心でした」

「またまた謙遜を!」

 男は笑った。

「若い者がそう遠慮するものではない。今日の成功は、我々全員の努力の成果なのだからな!」

「ありがとうございます」

 藤堂は軽く頭を下げた。


 周囲では再び「天城」の話題が始まっていた。

「しかし、四十一糎砲十門とは大したものですな!」

「長門型ですら八門ですからな。天城型四隻が完成すれば、帝国海軍の戦力は飛躍的に向上するでしょう!」

「それだけではありませんぞ! 三十節という高速性能がある。敵の戦艦が逃げようとも、こちらから追いかけて撃破できるわけです」

「英国海軍の「フッド」にも引けを取りませんな!」

 その言葉に、座敷のあちこちから賛同の声が上がった。

「いや、むしろ我が「天城」の方が優れているでしょう!」

「そうですとも!」

「これで米国も英国も、我が帝国海軍を無視することはできませんな!」

 「それと民間が作った「愛宕」や「高雄」より、海軍直轄の海軍工廠の「天城」の方が幾分も出来が良いですぞ」

 男たちは愉快そうに笑った。

 藤堂もその会話に微笑みを浮かべていた。


 確かに天城型は優れた軍艦であった。

 長年にわたる設計研究の成果が注ぎ込まれ、主砲の威力、速力、航続力、射撃指揮装置など、あらゆる面で高い性能を目指していた。

 それは、天城型の性能に不満があるからではなかった。


 むしろ、その逆であった。


 あまりにも優れた軍艦を造ることが、果たして本当に良いことなのだろうか。

 そんな疑問が、彼の頭から離れなかったのである。




―同日 午後8時10分―

大日本帝国 神奈川県横須賀市 市内某料亭



 祝宴はますます盛り上がっていた。

 酒が進むにつれて、話題は「天城」から帝国海軍全体へと広がっていった。

「それにしても、我が国の造船技術も随分と進歩したものですな」

 一人の技術将校が感慨深そうに語った。

「日清戦争の頃など、主力艦の多くを英国に頼っていたというのに、今では世界最大級の戦艦を自国で建造できるのですから」

「まったくです。かつては英国の造船所へ出向き、技術を学ぶ立場だった我々が、今では英国と肩を並べるまでになった」

「いや、既に追い越した部分もあるでしょう!」

 別の男が得意げに言った。

「四十一糎砲を搭載した長門型、加賀型そして今日進水した天城型。これほどの軍艦を建造できる国が、世界にいくつあるというのですか」

「英国、米国、そして我が日本くらいでしょうな」

「ドイツも忘れてはなりませんぞ! 欧州では相変わらず建艦競争を続けているそうですから」


 その言葉に、藤堂は顔を上げた。

        ドイツ帝国

 10年前、欧州で大戦争が勃発しかけた際、その中心にいた国である。

 英国とドイツの建艦競争は、欧州の軍事的緊張を高める大きな要因の一つであった。

 しかし、1914年の危機が外交交渉によって収束した後も、両国の海軍拡張は止まらなかった。

 いや、むしろ戦争を回避できたことで各国は軍備を増強する時間を得たのである。 


「ドイツの新型戦艦も相当なものらしいですな」

「聞くところによれば、四十糎級の主砲を備えた新型艦を計画しているとか」

「噂ではバイエルン級の代艦も既に設計に入ってとか」

「英国も黙ってはいないでしょう。「フッド」に続く新型主力艦の建造を進めているそうです」

「となれば、我が国も負けてはいられませんな!!」

 再び笑い声が上がった。

 藤堂は盃を口に運んだ。

 酒は少しぬるくなっていた。


 彼は黙って座敷の会話に耳を傾けていた。

 英国が新型戦艦を造れば、ドイツも造る。

 ドイツが新型戦艦を造れば、フランスやロシアも対抗する。

 米国が太平洋で海軍を拡張すれば、日本も新たな軍艦を必要とする。

 その繰り返しであった。

 軍艦は年々巨大化し、搭載する大砲は強力になり、建造費は増大していった。

 八八艦隊計画の最新鋭の戦艦一隻の建造に必要な費用は、かつての主力艦数隻分にも相当するほどであった。

 その費用があれば、学校や病院をいくつ建てられるだろうか。

 道路や鉄道をどれほど整備できるだろうか...


 しかし、もちろん、藤堂にも軍艦の建造そのものを否定するつもりはなかった。

 海に囲まれた日本にとって、海軍は国家の安全を守る重要な存在である。

 強大な海軍がなければ、国民の生活も海外との貿易も守ることはできない。

 それは彼自身、十分に理解していた。

 だが、世界中の国々が際限なく軍備を増強し続ければ、いつか必ず限界が訪れるのではないか。

 そして、その限界が戦争という形で現れた時、世界はどうなってしまうのだろうか。


「……藤堂君?」

 突然、隣の男が声をかけた。

「はい?」

「どうした、難しい顔をして。せっかくの祝いの席だというのに」

「いえ、少し考え事をしておりました」

「何を考えることがある。今日は「天城」が無事に進水しためでたい日だぞ!」

「そうですね」

 藤堂は微笑んだ。

「確かに、今日は良い日でした」

「そうだろう! さあ、もう一杯!」

 男は藤堂の盃に酒を注いだ。

 藤堂は礼を言い、静かに盃を口へ運んだ。

 その間にも、座敷では軍艦談義が続いていた。

 ある者は長門型の優秀さを語り、ある者は天城型の速力を称賛し、またある者は将来の新型戦艦について熱心に議論していた。


 その光景を眺めながら、藤堂はふと昼間の進水式を思い出した。

 巨大な船体が船台を滑り、海面へと進んでいく光景。

 白い水飛沫。

 鳴り響く軍楽隊。

 そして、無事に進水した瞬間の盛大な拍手。

 あの時、彼は心から嬉しかった。

 自分たちが造り上げた軍艦が、初めて海に浮かんだのである。

 それは技術者にとって、何物にも代えがたい喜びであった。


 しかし同時に、藤堂は思った。

 あの巨大な軍艦は、いつか本当に戦うことになるのだろうか。

 もし戦うことになれば、あの四十一糎砲は敵艦へ向けて発射される。

 そして、その砲弾が命中した先には、自分たちと同じように軍艦を愛し、祖国を守ろうとする人間たちがいる。

 藤堂は小さく息を吐いた。

「……考えすぎか」

 誰にも聞こえないほどの声で呟いた。




―同日 午後10時30分―

大日本帝国 神奈川県横須賀市 市内某料亭前


 祝宴はようやくお開きとなった。

 料亭の玄関からは、酒に酔った将校たちが次々と姿を現した。

「いやあ、今日は実に愉快だった!」

「まったくですな!」

「さて、もう一軒行きますかな?」

 誰かがそう言うと、周囲から賛同の声が上がった。

「賛成!」

「まだ飲み足りませんぞ!」

「それでは、いつもの店へ参りましょう!」

男たちは笑いながら歩き始めた。

 その中の一人が、藤堂へ振り返った。

「藤堂君、君も来るだろう?」

 藤堂は軽く頭を下げた。

「申し訳ありません。私は明日も早い上に妻も待っておりますので、これで失礼いたします」

「何だ、付き合いの悪い奴だな!」

「妻がなんだ!男ならセカンド(愛人)を作ってなんぼだぞ!」

「ははは、若いのに随分と真面目な男ですな」

「まあ、今日は勘弁してやろう!」

 男たちは笑った。

「それでは、お先に失礼いたします」

 藤堂は敬礼した。

「うむ、ご苦労だった!」

「また明日な!」

 男たちは賑やかに夜の街へと消えていった。

 藤堂はしばらくその背中を見送っていた。

 やがて一人になると、制帽を被り直し、横須賀駅へ向かって歩き始めた。


 夜の横須賀には、まだ多くの人々が行き交っていた。

 軍服姿の水兵たちが酒場から出てきては笑い合い、商店の軒先では店主たちが片付けを始めていた。

 遠くからは軍艦の汽笛が聞こえてきた。

 藤堂はゆっくりと歩きながら、昼間の「天城」の姿を思い浮かべていた。

 巨大な船体。

 世界屈指の攻撃力。

 三十節という高速性能。

 その全てが、日本の造船技術の結晶であった。

 しかし、軍艦が強大になればなるほど、それを失った時の損害もまた大きくなる。

 「天城」一隻が沈めば、何千人もの乗組員が命を落とすかもしれない。

 そして、それだけの軍艦を建造するために費やした年月と費用も、一瞬にして失われる。

 藤堂は夜空を見上げた。

 街の明かりの向こうには、僅かに星が見えていた。

「……平和が続けばいいのだが」

 思わず呟いた。

 だが、その願いが叶う保証など、どこにもなかった。




―同日 午後11時頃―

大日本帝国 神奈川県横須賀市 横須賀駅 上り列車ホーム



 横須賀駅のホームには、夜の静けさが漂っていた。昼間は海軍関係者や旅行客で賑わう駅も、この時間になると人影はまばらであった。

 ホームの屋根から吊るされた電灯が、薄暗い構内を照らしていた。



 藤堂はベンチに腰を下ろし、東京方面へ向かう列車を待っていた。手元には、昼間の式典で配布された進水記念の小冊子があった。

 表紙には、巡洋戦艦「天城」の完成予想図が描かれていた。巨大な主砲塔を備え、海上を高速で進む雄大な姿。

 それは、今日進水した未完成の船体とはまるで違っていた。


 藤堂はしばらく、その絵を眺めていた。

 完成すれば、天城は帝国海軍の新たな象徴となるだろう。

 長門や陸奥とともに連合艦隊の主力を担い、日本の海を守る存在となる。

 それは疑いようのないことであった。

 しかし、藤堂の頭には別の疑問が浮かんでいた。

 果たして、これほどの軍艦を必要とする時代が、いつまで続くのだろうか。


 航空機の発達は目覚ましく、潜水艦の性能も年々向上している。

 10年前にはまだ実験的な存在だった兵器が、今では軍事作戦に欠かせないものとなりつつあった。

 将来、航空機が戦艦を沈める時代が訪れるかもしれない。

 潜水艦が巨大な艦隊を脅かす時代が来るかもしれない。

そうなった時、何万噸もの鋼鉄を使い、巨大な大砲を搭載した戦艦は、一体どのような存在になるのだろうか。


 藤堂は小冊子を閉じた。

「……時代は、変わるものだな」

 その言葉は、誰に聞かせるでもなく口から漏れた。

 昼間、長門の篠原大尉が語っていた言葉を思い出した。

 長門も、いずれは旧式艦になる。

 確かにそうだろう。


 だが、それは「天城」とて同じことであった。

 今は世界最高水準の軍艦であっても、10年後、20年後にはさらに強力な軍艦が現れるかもしれない。

 そして、いつの日か戦艦も時代遅れとなる。


 その時、自分たちは何を造っているのだろうか。


 全く新しくさらに巨大な戦艦か。

 それとも、全く新しい種類の軍艦だろうか。

 藤堂は答えを見つけられなかった。


 その時、遠くから汽笛が聞こえた。

 続いて、線路の向こうに蒸気機関車の前照灯が現れた。

 東京方面へ向かう上り列車であった。

大船駅~横須賀駅は既に電化が完了しており、本来なら電車が来るはずだった。

だが、今日は古めかしい蒸気機関車、まぁ、どちらにしても自宅は手前の鎌倉だから問題はなかった。 

 蒸気機関車は白い蒸気を吐きながらゆっくりとホームへ進入し、車輪を軋ませて停車した。


 藤堂は立ち上がり、鞄を手に取った。

 客車の扉を開け、車内へ乗り込む。


―同日 午後11時10分―

大日本帝国 神奈川県横須賀市 横須賀駅 上り34列車 3等客車内


 狭い3等客車だが、夜遅いこともあり車内の乗客は少なかった。

 藤堂は窓際の席に腰を下ろした。

 やがて発車の汽笛が鳴り、列車はゆっくりと動き始めた。

 窓の外では、ホームの電灯が一つ、また一つと後方へ流れていった。

 建物の隙間から、横須賀海軍工廠の照明が見えた。

 その向こうには、昼間進水したばかりの巡洋戦艦「天城」が停泊しているはずであった。

 今頃、工廠の職工たちは明日から始まる艤装工事の準備を進めていることだろう。

 巨大な主砲塔が搭載され、艦橋が組み上げられ、機関が据え付けられる。

 そして来年には、天城は堂々たる軍艦として大海原を航行することになる。

 藤堂はその姿を想像した。

 青い海を切り裂きながら進む巨大な船体。

 空へ向かってそびえる艦橋。

 水平線の彼方へ向けられた四十一糎砲。

 それは、彼が幼い頃から夢見てきた光景そのものであった。


 しかし、同時に別の光景も頭をよぎった。

 砲煙に包まれた海。

 炎上する軍艦。

 海面に浮かぶ無数の残骸。

 そして、帰ることのできなくなった乗組員たち。


藤堂は目を閉じた。

「……そんな日は、来てほしくないものだ」

 列車は徐々に速度を上げ、横須賀の街を離れていった。

 窓の外には夜の闇が広がり、軍港の明かりも次第に遠ざかっていった。

 その頃、横須賀海軍工廠では、巡洋戦艦「天城」が艤装岸壁に係留されていた。

 昼間の華やかな進水式が嘘のように、工廠には静けさが戻っていた。

 しかし、その静寂の中でも、工事の準備は続けられていた。

 巨大な船体の周囲には足場が組まれ、岸壁には資材が積み上げられていた。

 照明に照らされた「天城」の鋼鉄の船体は、夜の海に黒々と浮かび上がっていた。

 その姿は、まるで新しい時代の到来を告げる巨大な記念碑のようであった。




 1924年9月2日


 大日本帝国海軍は、新たな巨艦をその手に迎えた。

 そして世界は、誰もが予想し得なかった大戦争へと、また一歩近づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。