序章 第四節 「新時代の巨艦」 中編
―同日 午前10時―
大日本帝国 横須賀海軍工廠 第一船台
軍楽隊による演奏が始まった。
厳かな旋律が工廠内に響き渡り、参列者たちは静かに式典の開始を待った。
式場には海軍の高官や造船関係者が整列し、船台の周囲では職工たちが所定の位置についていた。
艦首付近の命名台には、進水式を執り行うための準備が整えられていた。
やがて、式典を司る高官が壇上へ進み出た。
参列者たちの視線が一斉に集まる。
式次第に従って命名の儀が執り行われ、巨大な新造艦に正式な艦名が告げられた。
「本艦を、「天城」と命名す」
厳かな声が響いた。
長らく「第四号艦」と呼ばれていたこの艦は、この時に初めて「天城」の名を賜ったのだ。
軍楽隊が再び演奏を始めた。
篠原は背筋を伸ばし、目の前の巨大な船体を見上げた。
「天城」
その名は、伊豆半島に連なる天城山に由来していた。
かつて帝国海軍には同じ名を持つ軍艦が存在していたが、今、その名は新時代の巨大巡洋戦艦へと受け継がれようとしていた。
式典は滞りなく進み、やがて進水の時刻が近づいた。
船台の周囲では、職工たちが慎重に作業を進めていた。船体を固定する支えや進水装置の状態が最終確認され、責任者から次々と報告が上がっていく。
「船体異常なし!」
「船台、準備よし!」
「曳船、待機よし!」
「周辺海面、異常なし!」
進水主任は各部署からの報告を確認すると、式典の責任者へ準備完了を伝えた。
それまで華やかな雰囲気に包まれていた会場に、静かな緊張が走った。
篠原は思わず息を呑んだ。
目の前にあるのは、四万噸を超える巨大な鋼鉄の船体である。
これほどの巨体が、今から自らの重量によって海へ滑り出すのだ。
船台の下では、最後の固定装置を解除する準備が整えられていた。
進水の合図が下される。
職工たちが一斉に所定の操作を行った。
しばらくの間、何も起こらなかった。
篠原は不思議に思い、隣の藤堂へ目を向けた。
しかし藤堂は、ただ真剣な表情で船体を見つめていた。
その時だった。
ギギギギ……。
低く、鈍い音が響いた。
巨大な船体が、ほんの僅かに動いたのである。
続いて、木材が軋む音が船台全体から聞こえてきた。
「天城」の船体は、ゆっくりと後方へ滑り始めた。
艦首につれされた飾られはくす玉は綺麗に割れ、まるで大輪の花のように「天城」を色彩った。
「動いた……」
篠原が思わず呟いた。
最初は人が歩くほどの速度であった。
しかし、船体は次第に速度を増していった。
巨大な艦尾が海面へ近づき、船台の上を滑る鋼鉄の巨体が、見る間に後退していく。
やがて艦尾が海面に達した。
次の瞬間、轟音とともに大量の海水が左右へ押し広げられた。
船台から完全に離れた船体は、制動装置と曳船の助けを受けながら徐々に速度を落としていった。
しばらくして、天城は海面に静かに浮かんでいた。
無事に進水したのである。
その瞬間、会場から盛大な拍手が沸き起こった。
軍楽隊が勇壮な行進曲を奏で、工廠の職工たちは互いに顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべた。
篠原も思わず拍手を送っていた。
「見事なものですな……」
隣にいた有馬が呟いた。
「はい。これほどの巨艦が、あのように滑らかに海へ入るとは」
篠原は興奮した様子で答えた。
藤堂は何も言わなかった。
ただ、海面に浮かぶ天城をじっと見つめていた。その表情には、喜びと安堵が入り混じっていた。
数年間にわたる設計と建造作業。
数え切れないほどの図面と計算。
幾千人もの職工たちが費やした膨大な労力。
その成果が、今、初めて海に浮かんだのである。
「……ようやく、ここまで来た」
「.....いや、ここからが本番だな」
その声は、周囲の拍手にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
―同日 午前11時30分―
横須賀海軍工廠 式典会場付近
進水式は無事に終了し、参列者たちは次々と会場を後にしていた。
工廠内では、進水を終えた天城を艤装岸壁へ移動させるための準備が始まっていた。
船体は無事に海へ浮かんだものの、軍艦として完成するまでには、まだ多くの工程が残されていた。主砲塔や副砲、艦橋、測距儀、通信設備、機関関係の各種装備。
それらを搭載し、試運転を重ねて初めて、艤装艦「天城」は帝国海軍巡洋艦戦艦「天城」となるのである。
篠原は有馬とともに式典会場を離れようとしていた。
その時、近くで数名の将校たちが談笑しているのが聞こえた。
「いやはや、実に見事な進水でありましたな」
「まったくです。これほどの巨艦を無事に進水させるとは、我が国の造船技術も大したものです」
「「加賀」の時ほど盛大ではありませんでしたが、まずは一安心ですな」
そう語ったのは、工廠の建造関係者らしい年配の技術将校であった。
戦艦「加賀」は長門型をさらに発展し強化した艦で世界最大最強の戦艦だった。故に期待も非常に大きく神戸の川崎造船所での進水式には大正天皇の名代として伏見宮博恭王臨席のもと、約10万人ともいわれる観衆が参列し大変な熱狂と盛り上りであった。
「加賀の進水式は、随分と賑やかだったそうですね」
別の将校が尋ねた。
「ええ。あの時は新型戦艦の進水ということで、海軍省も随分と力を入れておりました。今日も立派な式典でしたが、あれほどではありませんな」
「もっとも、進水式がどれほど盛大でも、船が無事に浮かばなければ意味がありませんからな」
「「土佐」の時のように肝心のくす玉が割れなかった!なんてことにならなくて一安心ですな」
「まったく、その通りです」
加賀型戦艦の2番艦の「土佐」は長崎県の三菱造船長崎造船所にて建造、進水命名式には加賀の時と同じ伏見宮博恭王が臨席し、加藤友三郎海軍大臣の代理として、財部彪大将が命名書を読み上げた。しかし、進水したら艦首のくす玉は割れず、後で関係者は大目玉を食らった。
不吉な前触れだとも言われたか、順調に艤装工事を行い、「土佐」は昨年の秋に連合艦隊の一員となっていた。
将校たちの笑い話に、篠原もその会話を聞きながら、海面に浮かぶ天城を振り返った。
日本海軍は確実に新しい時代へと進んでいた。
「篠原君」
有馬が声をかけた。
「そろそろ戻るぞ」
「はっ」
篠原は敬礼すると、有馬の後に続いた。
工廠の門へ向かう途中、二人は再び天城の姿を眺めた。
巨大な船体は曳船に囲まれ、ゆっくりと艤装岸壁へ向かって移動していた。
その光景を見ながら、有馬が口を開いた。
「今日の進水式を見て、どう思った?」
「素晴らしいと思いました。あれほどの軍艦を我が国で建造できることを、誇りに感じます」
「うむ。それはわしも同じだ」
有馬は頷いた。
「だが、少し寂しくもあるな」
篠原は驚いて艦長を見た。
「寂しい、でありますか?」
「ああ。長門が竣工した時には、あれこそ世界最高の戦艦だと思ったものだ。それが僅か数年で、さらに強大な艦が現れる」
有馬は小さく笑った。
「わしらの時代には、軍艦というものはもう少し長く第一線に立てるものだったがな」
篠原は何も答えなかった。
彼自身も、似たような感情を抱いていたからである。
長門は、篠原にとって特別な艦であった。
幼い頃から憧れていた帝国海軍。
その中でも最新鋭の戦艦に乗ることができた時、彼は心から誇りを感じた。
しかし、今日進水した「天城」も既に完成している「加賀」「土佐」「赤城」も、その長門を上回る性能を備えている。
さらに今後も、天城型の準同型艦や、より強力な戦艦が建造される予定であった。
軍艦の進歩は止まらない。
そして、その進歩に伴って、かつて最新鋭と呼ばれた軍艦は少しずつ過去のものとなっていく。
それは当然のことであった。
だが、篠原には少し寂しく感じられた。
工廠の門を出ると、午後の日差しが二人を照らした。
港の向こうには、戦艦「長門」が静かに停泊していた。
高くそびえる艦橋。
巨大な四十一糎主砲。
そして、灰色の鋼鉄の船体。
その姿は、今日の朝と何も変わっていなかった。
篠原は長門を見つめながら、小さく呟いた。
「……それでも、私にとっては長門が一番です」
有馬はその言葉を聞くと、満足そうに微笑んだ。
「そうか。それでこそ長門の士官だ」
二人は並んで歩き始めた。
背後の海軍工廠では、進水を終えた「天城」が、曳船に引かれながらゆっくりと艤装岸壁へ向かっていた。
新しい時代の軍艦が、今まさに誕生しようとしていたのである。
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