序章 第四節 「新時代の巨艦」 前編
―1924年(大正十三年)9月2日午前8時30分―
大日本帝国 神奈川県横須賀市 横須賀海軍工廠
九月に入ったとはいえ、横須賀にはまだ夏の暑さが残っていた。朝から雲一つない青空が広がり、東京湾から吹き込む潮風が軍港に掲げられた軍艦旗を揺らしていた。
久しぶりの主力艦の進水式ということもあり、横須賀市内は朝から他県からの見物人、海軍関係者、外国の記者などで熱気を帯びた賑わいを見せていた。
横須賀海軍工廠でも、早朝から多くの人々が慌ただしく行き交い、工廠の職工たちは普段よりも早く出勤し工場の周囲や船台の清掃、式典に使用する設備の最終点検に追われていた。
海軍の将校や下士官たちも、それぞれの持ち場で来賓の案内や会場の準備を進めていた。一部には警備増強の為に動員された陸軍将兵の姿もあった。
工廠の船台には、満艦飾で色彩られた巨大な鋼鉄の船体が静かに横たわっていた。
巡洋戦艦「第四号」
帝国海軍が長門型戦艦、加賀型戦艦に続いて建造を進めてきた、最新鋭の主力艦である。
全長二百五十メートルを超える巨大な船体は、周囲の建物を圧倒するほどの威容を誇っていた。
艦首は鋭く前方へ突き出し、船体の側面には無数の鋼板が鋲によって接合されていた。
もっとも、天城はまだ完成した軍艦ではなかった。上部構造物の大部分は未完成であり、巨大な主砲塔も搭載されていない。
船体の各所には足場が組まれ、工事用の資材や仮設設備が残されていた。
この艦は、帝国海軍が推進する八八艦隊計画の中核を担うべく建造された艦であった。
四十一糎連装砲五基十門を搭載し、三十節という高速を発揮する予定である。
戦艦「長門」や「陸奥」を上回る攻撃力と、巡洋艦にも匹敵する高速性能。
それは、帝国海軍が長年にわたって追い求めてきた理想の主力艦の一つであった。
そして今日、その巨大な船体が初めて海に浮かぶのである。
しかし、それは本来の予定より遅れていた。
四姉妹の一番艦として最初に起工したにも関わらず、作業の遅延と昨年の震災の影響により船体が損傷したことが災いし一番最後の進水となった。
工廠の正門付近には、式典へ出席するために訪れた人々が次々と到着していた。
海軍省や軍令部の高官、艦政本部の技術将校、造船関係者、さらには政府や皇室関係の来賓たちである。
工廠内には紅白の幕が張られ、船台の周囲には日の丸や海軍旗が掲げられていた。普段は鉄を打つ音や機械の轟音が絶えない造船所も、この日ばかりは華やかな祝賀の雰囲気に包まれていた。
そんな中、一台の海軍の自動車が工廠の門を通過した。
車内には、二人の海軍士官が乗っていた。
戦艦「長門」艦長、有馬忠久海軍大佐。
そして、その部下である篠原直樹海軍大尉であった。
「随分と賑やかですな」
窓の外を眺めながら篠原が言った。
「当然だろう。帝国海軍の新たな主力艦が進水するのだからな」
有馬はそう答えると、工廠の方角に目を向けた。
「もっとも、わしが若い頃に見た進水式とは随分と様子が違う」
「と、申されますと?」
「昔は一万噸を超える戦艦でも大騒ぎだった。それが今では四万噸を超える巨艦が当たり前のように建造される」
有馬は少し笑った。
「まったく、時代の進歩というものは恐ろしい」
篠原も笑顔を見せた。
しかし、その言葉には少しだけ引っかかるものがあった。
―同日 午前9時40分―
横須賀海軍工廠 第一船台付近
有馬と篠原が式典会場に到着すると、既に多くの参列者が集まっていた。
海軍の礼装に身を包んだ将校たちが整然と並び、その周囲では工廠関係者が来賓の案内に当たっていた。
船台の前方には式典用の壇が設けられ、艦首付近には進水に用いる装飾が施されていた。
船体を支える船台の周囲では、進水作業に携わる職工たちが最後の準備を進めていた。
巨大な船体は、船台上で海へ向かって傾斜した状態に置かれていた。その重量を支えるのは、幾重にも組まれた進水台と滑走台である。
進水の際には、船体を固定している装置を解除し、船そのものの重量によって海へ滑り下ろす。
単純に聞こえる作業であったが、実際には極めて高度な技術と慎重な準備が必要であった。
もし滑走が途中で止まれば、巨大な船体を再び動かすことは容易ではない。逆に速度が出すぎれば、船体や周囲の設備に損傷を与える危険もある。
進水式は華やかな儀式であると同時に、造船技術者たちにとって最も緊張する瞬間の一つでもあった。
「篠原君」
背後から声がした。
振り返ると、有馬が一人の海軍将校と話していた。
「こちらは艦政本部の技術将校で、この「四号艦」の建造にも関わっておられる方だ」
紹介された将校は、篠原と同年代に見える若い士官であった。
「海軍造船大尉、藤堂誠一と申します」
藤堂は丁寧に敬礼した。
「長門乗組、篠原直樹大尉です」
篠原も答礼した。
「この艦の建造に携わっておられるのですか?」
「ええ。もっとも、私はまだ若輩者ですから、設計の補助や建造状況の確認が主な仕事ですが」
藤堂は少し照れたように笑った。
「それでも大したものです。これほど巨大な軍艦を造る仕事など、私には想像もつきません」
「いえ、実際に艦を動かし、戦わせる皆さんの方がよほど大変でしょう」
二人は笑顔を交わした。
藤堂誠一、28歳。
東京帝国大学工学部で造船学を修めた後、海軍に入り、艦政本部の造船部門に配属された技術将校であった。
幼い頃から機械や船舶に強い興味を持ち、いつか世界に誇れる軍艦を設計することを夢見ていた。金剛型以来の新型巡洋の建造に関わることができたのは、彼にとって大きな誇りであった。
「ところで藤堂大尉」
篠原が尋ねた。
「この艦は、長門よりも相当に大きいようですね」
「はい。長門の全長が二百十五メートルほどなのに対し、第四号型巡洋戦艦は二百五十メートルを超えます。排水量も四万噸を上回る予定です」
「四万噸……」
篠原は改めて巨大な船体を見上げた。
「これほど大きな船が、本当に三十節も出せるのですか?」
「設計上は可能です。もちろん、それだけの速力を発揮するためには、非常に強力な機関が必要になりますが」
藤堂は少し誇らしげに続けた。
「四号型には、長門を大きく上回る出力の主機関が搭載される予定です。完成すれば、世界でも屈指の高速主力艦となるでしょう」
「なるほど……」
篠原は感心したように頷いた。
「これでは長門も、いずれは時代遅れになってしまいますな」
その言葉に、藤堂は少しだけ表情を曇らせた。
「……そうかもしれません」
しかし、すぐに笑顔へ戻った。
「ですが、それが造船というものです。より速く、より強く、より優れた艦を造る。それが我々の仕事ですから」
篠原は頷いた。
その時、会場に号令が響いた。
「来賓御到着!」
参列者たちは一斉に姿勢を正した。
いよいよ、進水式が始まろうとしていた。
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