序章 第三節「皇帝の頭脳」後編
―同日 午後2時過ぎ―
ドイツ帝国 ベルリン 参謀本部3階 作戦課執務室
遅くなった昼食を済ませたフリードリヒは自身の勤務場所である3階執務室に向かった。
会議が終了してから1時間ほどが経過しておりフリードリヒは自室の机に向かい、先ほどの会議で使用した資料を整理していた。
3階の窓の外からは、ベルリンの市街地が良く見えた。大通りを行き交う自動車や路面電車の音が聞こえ、穏やかな西日が差し込んでいた。
机の上には欧州各国の軍事力を比較した報告書が広げられていた。
・ドイツ帝国
・フランス共和国
・ロシア帝国
・オスマン帝国
・オーストリア=ハンガリー帝国。
・大英帝国
・イタリア王国
・アメリカ合衆国
・大日本帝国
いずれも列強大国と呼んで差し障りない名前ばかりが並んでいた。そしてそれぞれの国が、この10年間で軍備を拡張し続けていた。
陸軍の兵員数は各国の大規模な動員により増大し、大砲の射程は延び、機関銃は歩兵部隊の標準的な装備となりつつあった。
航空機も次々と新型が開発され、もはや20年前に生まれた技術とは思えないほど発達していた。
海軍に目を向ければ、英国とドイツを中心とする建艦競争は、もはや国家の威信をかけた争いとなっていた。
フリードリヒは報告書を閉じた。
「……一体、何のための軍備拡張なのだろうな」
思わず独り言が漏れた。
軍備とは、本来国家を守るためのものである。
だが、各国が互いを恐れて軍備を増強すれば、その軍備そのものが相手国にとっての脅威となる。
相手国はさらに軍備を増強し、それに対抗して自国も軍備を拡張する。
その繰り返しであった。
10年前の1914年、欧州、いや世界は戦争を回避した。
当時、多くの政治家たちは外交の勝利を称え、欧州に新たな平和の時代が訪れると宣言した。
しかし、実際には何も解決していなかったのではないか。
そして今、欧州は10年前よりも遥かに強大な軍事力を抱えたまま、再び戦争の瀬戸際に立たされている。
フリードリヒは椅子にもたれかかった。
彼は戦略家として、ドイツが戦争に勝利するための方法をいくつも考えることができた。
しかし、どれほど計算を重ねても、確実に勝利できる戦争など存在しないことも理解していた。
特に英国、フランス、ロシアの三国を同時に敵に回した場合、ドイツ帝国の勝利は極めて困難なものになるだろう。
その時、扉を叩く音がした。
「入れ」
若い副官が入室した。
「大尉殿、外務省から新しい報告が届いております」
「何だ?」
「ウィーンの我が大使館からの電報です」
副官は一通の書類を差し出した。
フリードリヒはそれを受け取り、目を通した。
そこには、オーストリア=ハンガリー帝国政府がセルビア王国に対して、国境付近での反オーストリア活動を停止するよう強く要求したことが記されていた。
さらに、要求が受け入れられない場合、ウィーン政府は軍事的措置も辞さない姿勢を示しているという。
「……またバルカンか」
フリードリヒは眉をひそめた。
「参謀本部への正式な報告は?」
「既に情報部へ送られております」
「分かった。下がってよい」
「はっ」
副官が退室すると、フリードリヒは再び電報に目を落とした。
セルビア。オーストリア。ロシア。ドイツ。
10年前にも見た国名が、再び同じような形で並んでいた。
彼は立ち上がり、窓際へ歩み寄った。
ベルリンの街は相変わらず平穏であった。
通りでは子供たちが走り回り、カフェのテラスでは紳士たちが談笑している。
彼らの多くは、今この瞬間にも欧州各国の参謀本部で戦争計画が検討されていることなど、知る由もないだろう。
いや、知っていたとしても、戦争が本当に起こるとは考えないかもしれない。
フリードリヒ自身も、そう信じたかった。
「……戦争にはならない」
彼は小さく呟いた。
「いや、戦争にしてはならないのだ」
しかし、その言葉にはどこか確信が欠けていた。
彼は机へ戻ると、白紙の報告書を一枚取り出した。
そして万年筆を手に取り、表題を書き始めた。
『欧州列強間における全面戦争発生時の戦略的見通しについて』
その下に、最初の一文を書き加えた。
『本研究は、ドイツ帝国がフランス共和国、ロシア帝国及び大英帝国を含む複数の列強と同時に交戦する事態を想定するものである。』
フリードリヒはそこで筆を止めた。
窓の外では、教会の鐘が午後4時を告げていた。
彼は深く息を吐くと、再び万年筆を走らせた。
それは、帝国の勝利を導くための研究であった。
だが同時に、彼自身が最も起こってほしくないと願う戦争についての研究でもあった。
この時、フリードリヒはまだ知らなかった。
10年前に辛うじて回避された欧州大戦が、今度こそ現実のものとなろうとしていることを。
そして、自らが作成する一枚の作戦報告書が、やがて数百万の兵士たちの運命に関わることになるかもしれないということを。
執務室の窓からは赤い夕陽が差し込んでいた。




